その風、8月に到着予定。
夏の始まりは、壊れたエアコンの沈黙からだった。
自室の空気がゆっくりと止まり、蒸し暑さが肌にまとわりつく。動かないエアコンを見上げて、僕は絶望的な気持ちになる。
足元ではPCが低く唸り始め、まるで「早くなんとかしてくれ」と訴えているようだった。
僕が暑いのはまだいい。でも問題はPCだ。こいつが熱暴走してしまうと、僕の大切なデジタルライフが熱波に呑み込まれてしまう。
このままではいけない。一刻も早く、新しいエアコンを手に入れなければ。そう決意して情報収集を始めたのだけれど、これが想像以上に深かった。
まず、種類が多すぎる。メーカーの違い、広さの違い、機能の違い。呪文のように並ぶカタカナと数字の羅列に圧倒される。
とりあえずYouTubeで勉強してみると、「畳数で選ぶのは古い」なんて言われて驚いた。なんでも、今の住宅と昔の木造住宅では断熱性がまったく違うため、カタログ表示通りの畳数で選ぶと、むしろオーバースペックになってしまうらしい。
そこで、おすすめされていたシミュレーションサイトに、部屋の広さや日当たりを入力してみた。
……しかし、出てきた数字(kW)を見ても、やっぱりピンとこない。
最新のガジェットのことなら熱く語れるのに、エアコンの「冷房能力(kW)」となると呪文にしか聞こえないのだ。むう、軽い敗北感。エアコン沼、恐るべしである。
とりあえず、今までついていたものと同じくらいの性能で、室外機も置けるサイズのものを選べばよかろう。あとはそう、とりあえず偵察だ。善は急げと、近くの家電量販店へ向かった。冒険の始まりである。
店員さんに工事日はいつごろになるのか聞いたり、おすすめ機種を聞いたりして、各社のカタログをどっさりともらってきた。
この時点で在庫はあるものの、取り付けは最短で7月末とのこと。そりゃそうか、今が一番忙しい時期だもんね。
それにしても、久しぶりの紙のカタログである。なんというか、ガラケーを紙のカタログで比較して選んでいた頃を思い出す。
今の時代、たいていのことはネットで検索すれば解決するけれど、僕の守備範囲外だったエアコンという未知の世界においては、ネットではわからない部分も多くて、一覧性の高い紙のカタログがとても頼もしく感じられた。
家に帰り、リビングのテーブルいっぱいにカタログを広げる。
すると、妻のトラ子さんがおもむろに赤のボールペンを握りしめてやってきた。彼女は高額商品を買うとき、必ずカタログに直接特徴をガシガシと書き込んでいく。
「ふうん、これがゴミの自動排出ね。こっちは……冷えないドライ?」
ブツブツ言いながら、まるで受験勉強のノートみたいにどんどん書き込む。トラ子さんのペン先が踊るたびに、無機質な家電のカタログが、急に生活感を帯びてくる。二人でテーブルを囲んで「これでもない、あれでもない」と作戦会議を繰り広げた。
アプリ連携、ごみの自動排出、冷えないドライ、床温度サーチ……15年前とは大違いの機能の多さに圧倒される。
でも、よくよく考えてみると、僕が欲しいのは「左右スイング機能」と「送風機能」くらいだった。なんだ、それならスタンダードモデルでも十分に満足できそうだ。
そんな指針を持って臨んだ、家電量販店への二回目の訪問。値段のチェックだ。
ここで、僕はちょっとしたミステリーに直面する。
各メーカーにはだいたい6段階くらいのグレードがあるが、なぜか「上位グレードのほうが、下位グレードよりも安い」という逆転現象が起きている機種があったのだ。
どういうことだ。気になって調べてみるが、はっきりとはわからない。AIに聞いてみると、「発売時期の違い」による値崩れが原因ではないかと推測された。でも、メーカーのHPを見ると同じ時期に発売されているし。あるいは、室内機の大きさの違いとか、そういう事情もあるのかもしれない。
まるでミステリーの真相解明である。仮説を立て、裏技や仕様の隙間を見つけたときのような全能感が溢れ出すのを感じた。「下見をして調べたからこそ手に入れられる一手」という感覚がたまらない。
逆転現象が起きている上位機種は、現行機種で性能も十分、機能は盛りだくさん。それでいてスタンダードモデル並みの価格。在庫もある。いやもう、これでしょ。これしかない。
そして迎えた三回目の訪問。決戦の時である。
「これ、上位機種のほうが安い逆転現象起きてますよね?」店員さんに聞くと、「ですね。発売時点と比べるとかなりお買い得になっていると思います」と背中を押された。
ちょうど会員割引やエアコンキャンペーンなども重なり、今なら、予算よりも数万円安く買える。
完全勝利である。
僕は、買い物に勝ったのだ。
……と、喜んだのも束の間。
「在庫はありますが、取り付け工事は……そうですね、最短で8月中旬になります」
えっ。
店員の言葉に、僕の思考は停止した。
最初に来た時は7月末って聞いてたのに。たった5日の間に、半月も後退するなんて。
8月中旬って、まだ1か月半もある。テレビの天気予報は無慈悲にも「7月中旬に梅雨が明けて、7月末からは猛暑のピークです」と告げていた。
僕は、買い物に勝って、夏に負けたのだ。
エアコンは買った瞬間に涼しくなるわけではない。涼しい風は、レジでは受け取れないのだ。僕の財布の中身だけが、ひと足先に涼しくなってしまった。
とはいえ、絶望していてもPCは冷えない。
どうにかしてこのエアコンなしの1か月半を生き延びなければならない。
苦肉の策として、隣の部屋にあるエアコンをガンガンに冷やし、去年買ったシャープのプラズマクラスターサーキュレーターで仕事部屋へ冷気を送るという「風のインフラ」を構築することにした。
サーキュレーターを引っ張り出し、ドアの間に置く。しかし、一直線では風が僕のデスクまで届かない。
そこで、風の通り道に移動式の衝立を置いて、冷気を鏡のように反射させて送り込んでみる。……おぉ、届く。ほんのりと涼しい空気が届くようになった。
「なんか昭和みたいだね」
と、トラ子さんが笑う。
最新鋭のAI搭載エアコンを夢見てカタログをめくっていたのに、最終的に手に入れたのは「サーキュレーターの風を衝立で反射させる」という、なんとも原始的なからくりの生存戦略だった。なんだかおかしくて、ふふっと笑いが漏れる。
エアコンについてはずいぶんと詳しくなったけれど、今年の夏は、隣の部屋からサーキュレーターが一生懸命送ってくれるかすかな冷気にあたりながら、僕は風のインフラを微調整して過ごすのだろう。
相生エッセイ
このお話が、連続投稿 第199話 です。
次回、第200話には、全10回を予定している最初のお話をお届けします。
▽ 今回のお話の前編はこちらです。
▽ Substackで、このエッセイの裏話を書いています。
ぜひ読んでみてください。


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