エンターテイメントが知識体制に吸収される時代――笑いの労働化・商品化・階層化をめぐる批判的考察
要旨
本稿は、現代日本のお笑い――とりわけコントと漫才――に生じている構造的変容を、笑いが「一回性の身体的出来事」から「記録され分析され再消費される知識商品」へと転化する過程として捉え、その理論的含意を検討するものである。近年、芸人の複業化(ポッドキャスト、執筆、動画配信、企画業)が常態化するとともに、ネタそのものが心理学的・社会学的な分析に堪える構築物へと精緻化している。本稿はこの現象を、単なる「お笑いの知的洗練」として肯定的に評価するのではなく、笑いがより広範な知識生産体制へと吸収されていく過程として位置づける。理論的には、ブルデューの文化資本論、フーコーの権力=知識論、ブレイヴァマンの脱技能化論、スティグレールの象徴の貧困論、イリイチの専門家支配論、ズボフの監視資本主義論、アセモグルの技術方向性論を接合し、さらに「苦労キャンセル」――努力や労苦の情報技術的除去――という概念を横断的な分析装置として用いる。結論として本稿は、現在生じているのは「笑いの終焉」ではなく、笑いという現象がその一回性・身体性・非商品性を漂白されながら知識体制へと統合される局面であり、そこにこそ批判的抵抗の余地が残されていることを主張する。
キーワード:笑い、文化資本、監視資本主義、象徴の貧困、苦労キャンセル、脱技能化、知識商品
第1章 問題設定――笑いはいつから「わかる」ものになったのか
1.1 出発点としての観察
現代日本のお笑い芸人を観察するとき、二つの相互に関連する傾向が目につく。第一に、芸人が芸人であることに留まらないという傾向である。彼らはポッドキャストを配信し、エッセイや小説を執筆し、動画メディアを運営し、企画や演出に回り、時に批評家的な言説を生産する。「お笑い芸人」という職能は、もはや単一の技芸を指す名称ではなく、複数の表現形態を束ねるハブのような位置を占めつつある。第二に、コントや漫才そのものが、かつての「その場で笑わせる」ことを至上命令とした形式から、心理学的・社会学的な分析に堪える構築物へと精緻化しているという傾向である。観客は笑いながら、同時に「なぜこれは面白いのか」を分析することを楽しむ。笑いは、消費されると同時に解釈される対象になった。
本稿が出発点とするのは、この二つの傾向が偶然の併存ではなく、同一の構造変動の二つの現れであるという仮説である。すなわち、芸人の複業化と笑いの知的精緻化は、いずれも笑いが「一回性の身体的出来事」から「記録され分析され再消費される知識商品」へと転化する過程の徴候なのである。
1.2 研究問題
かつて笑いは、消費不可能なものであった。それは特定の時間、特定の空間、特定の身体のあいだにのみ生起し、その場が終われば消えていった。落語の高座も、寄席の漫才も、テレビの生放送も、程度の差はあれこの一回性を前提としていた。ところが現在、笑いは記録され、切り取られ、言語化され、再生され、分析される。動画プラットフォームは笑いを無限に反復可能なクリップへと変換し、ポッドキャストや書籍は笑いの背後にある「仕組み」を言語化する。笑いは、いつのまにか「わかる」対象になった。
ここから本稿の中心的問いが導かれる。笑いが単なる娯楽から知識生産の一形態へと移行する過程で、何が生じているのか。 より具体的には、次の三つの下位問題を設定する。第一に、この移行はいかなる歴史的・技術的条件のもとで生じたのか(第2章)。第二に、笑いが知識商品化することで、そこにいかなる労働と搾取の構造が埋め込まれるのか(第3章)。第三に、笑いの知的精緻化は、いかなる社会的階層化を生み、また隠蔽するのか(第4章)。
1.3 本稿の立場――肯定的評価への距離
あらかじめ本稿の立場を明確にしておきたい。笑いの知的精緻化は、しばしば「お笑いのレベルが上がった」「芸人が賢くなった」という肯定的な語彙で語られる。本稿はこの評価を全面的に否定するわけではないが、そこに留まることを拒否する。なぜなら、「レベルが上がった」という評価それ自体が、笑いを知識の尺度で測るという、まさに本稿が問題化しようとする体制の内部から発せられた言葉だからである。笑いが「高度になった」と感じられること自体が、笑いがすでに知識体制へと吸収されつつあることの証左なのだ。
したがって本稿は、笑いの現在を「進歩」としてではなく「変容」として、価値中立を装いつつも批判的な距離を保って記述する。目的は、この変容の内在的な論理を、複数の社会理論の光を当てることで可視化することにある。
1.4 方法――理論横断的な照射
本稿の方法は、実証的なデータ分析ではなく、理論横断的な照射である。すなわち、笑いという単一の現象に対して、労働論・文化社会学・技術哲学・政治経済学という複数の理論的視座から光を当て、それぞれの視座が浮かび上がらせる側面を重ね合わせることで、単一の視座では捉えきれない現象の立体的な構造を可視化する。この方法は、笑いの変容が、労働・文化・技術・経済のいずれか一つの領域に還元されえない、それらの交錯地点に生じる現象であるという本稿の前提から要請される。
この方法にはひとつの明確なリスクがある。それは、あらかじめ用意された理論的枠組みに現象を無理に押し込め、笑いという生きた実践の豊かさを、理論の格子のなかで平板化してしまう危険である。本稿はこのリスクを完全には回避しえない。しかし本稿が試みるのは、理論によって笑いを裁断することではなく、笑いという現象がすでに理論的な負荷――知識化・商品化・階層化――を帯びてしまっているという事態を、その理論的負荷にふさわしい言語で記述することである。言い換えれば、笑いが知識体制に吸収されつつあるという診断そのものが、笑いを理論的に語ることを要請しているのであり、本稿の理論偏重は、現象の理論化という当の事態への応答なのである。
なお、本稿が援用する理論家たちは、いずれも笑いそのものを主題としたわけではない。ブルデューは趣味を、ブレイヴァマンは工場労働を、スティグレールは文化産業一般を、ズボフはデジタル経済を論じた。本稿はこれらの理論を笑いという未踏の領域へと転用する。この転用が正当化されるのは、笑いの知識商品化が、これらの理論が別々の領域で記述した過程――脱技能化、象徴の貧困、行動余剰の抽出――と構造的に同型だからである。同型性こそが、理論横断的な照射を可能にする蝶番である。
第2章 笑いの歴史的変容――出来事から商品へ
2.1 前デジタル時代の笑い――一回性・身体性・消費不可能性
笑いの変容を論じるためには、まず変容以前の笑いがどのような性質を持っていたかを確認しておく必要がある。前デジタル時代――ここでは録画・配信技術が笑いの生産と受容を根本的に組み替える以前の時代を指す――における笑いは、三つの性質によって特徴づけられる。
第一に、一回性である。寄席の高座であれ、テレビの生放送であれ、笑いはその場に居合わせた者たちのあいだにのみ生起した。同じネタでも、演者の体調、客席の温度、その日の空気によって笑いは微妙に異なる相貌を見せた。笑いは反復されえたが、反復されるたびに別のものになった。
第二に、身体性である。笑いは、演者の身体と観客の身体のあいだの共鳴として生じた。間合い、呼吸、視線、沈黙――これらは言語化しえない身体的な次元に属していた。観客もまた、身体をもって笑った。笑いは声であり、痙攣であり、涙であった。それは「理解」に先立つ、あるいは「理解」を超える身体的出来事であった。
第三に、消費不可能性である。前二者の帰結として、笑いは商品として蓄積・流通・再販売することが困難であった。もちろん興行として金銭は動いたが、動いたのは「その場に居合わせる権利」に対する対価であって、笑いそのものが所有可能な財として取引されたわけではない。笑いは、その場で生まれ、その場で消えた。
2.2 記録技術と再消費可能性の誕生
この構造を最初に組み替えたのは録画・録音技術であった。テレビの録画放送、演芸のディスク化は、笑いに初めて「反復可能性」を与えた。しかしこの段階での反復可能性はなお限定的であった。再生はメディア企業の制御下にあり、切り取りや再編集の権限も集中していた。視聴者は与えられた形で笑いを受容するほかなかった。
決定的な転換は、動画プラットフォームとソーシャルメディアの普及によって生じた。ここで笑いは三つの新たな性質を獲得する。第一に、記録化――あらゆる笑いが自動的にアーカイブされる。第二に、再消費可能性――同一の笑いが無限に、任意の時点で、任意の断片として再生される。第三に、言語化――笑いはコメント、切り抜き、解説動画、書籍、ポッドキャストを通じて言語の網の目に絡め取られる。「なぜ面白いのか」が語られ、書かれ、共有される。
この三つの性質の獲得によって、笑いは前デジタル時代の三つの性質――一回性・身体性・消費不可能性――をことごとく失っていく。一回性は反復可能性に、身体性は言語性に、消費不可能性は商品性に置き換えられる。笑いは「出来事」であることをやめ、「商品」になりはじめる。
2.3 文化資本と権力=知識の導入
この変容を理論的に定位するために、ここで二つの概念装置を導入しておきたい。
第一に、ピエール・ブルデューの文化資本である[^1]。ブルデューによれば、文化的な趣味や理解力は、単なる個人の資質ではなく、社会的に構造化された資本の一形態であり、階級的な区別(distinction)の標識として機能する。ある種の芸術を「わかる」ことは、その人の社会的出自と教育を背景とした文化資本の顕示である。笑いが「わかる」対象になったということは、笑いがこの文化資本の論理に組み込まれたということを意味する。「あの芸人の面白さがわかる」ことは、もはや単なる感覚ではなく、文化的洗練の証明になりうる。この論点は第4章で本格的に展開する。
第二に、ミシェル・フーコーの権力=知識(pouvoir-savoir)である[^2]。フーコーは、知識が権力と不可分に結びついており、何かを「知の対象」として構成する営みそれ自体が権力の作動であることを示した。笑いが「分析される対象」「知識の対象」になるということは、笑いがこの権力=知識の体制へと編入されるということである。笑いを語る言説――解説、批評、理論――は中立的な記述ではなく、笑いを特定の仕方で構成し、序列化し、統治する権力の作動なのである。
これら二つの装置を携えて、次章では笑いの知識商品化が埋め込む労働と搾取の構造を分析する。
2.4 日本的文脈――寄席からテレビ、そしてプラットフォームへ
以上の変容は普遍的な技術的過程として描かれたが、日本のお笑いにはこの過程に固有の屈折を与える歴史的系譜がある。ここでその系譜を簡潔に確認しておきたい。
日本の笑いの職業的伝統は、寄席という空間に根ざしていた。寄席は、演者と観客が同一の物理的空間を共有し、日ごとに異なる顔ぶれと空気のなかで笑いが生成される、一回性の場の典型であった。落語も漫才も、この寄席空間の身体的な共在を前提として洗練されてきた。演者は客席を「読み」、間合いを客席との相互作用のなかで調整した。笑いは、演者の技芸であると同時に、その場に居合わせた者たちの共同的な達成であった。
この寄席的な一回性を最初に組み替えたのが、テレビである。テレビは笑いを寄席空間から引き剝がし、不特定多数の視聴者へと配信した。ここで笑いは、共在する客席との相互作用から、想像上の視聴者一般へと宛先を変えた。テレビ演芸は笑いを大衆化し、全国化する一方で、寄席的な一回性を希薄化させた。とはいえ、生放送という形式が残るかぎり、テレビの笑いにもなお一回性の残滓が留まっていた。放送は一度きりであり、その場で成立するか否かの緊張が保たれていた。
決定的な断絶は、テレビからプラットフォームへの移行とともに訪れる。プラットフォーム上で、笑いは放送の一回性からも解放され、永続的にアーカイブされ、任意の断片として無限に再生される。寄席の身体的共在も、テレビの放送的一回性も、ここでは完全に払拭される。日本の笑いは、寄席的な身体性を出発点として、テレビによる大衆化を経て、プラットフォームによる完全な脱身体化・脱一回性へと至った。この三段階の系譜を踏まえるとき、現在の変容は単なる技術的更新ではなく、寄席以来の笑いの存在様式そのものの解体として、いっそう重い意味を帯びる。
第3章 知識商品化のメカニズム――笑いの労働化と苦労キャンセル
3.1 脱技能化としての知識化――ブレイヴァマンの視座
笑いが知識商品へと転化する過程を労働論の観点から捉えるとき、ハリー・ブレイヴァマンの脱技能化(deskilling)論が有効な起点となる[^3]。ブレイヴァマンは、資本主義的労働過程において、熟練労働者が保持していた「構想」と「実行」の統一が分解され、構想は経営・技術部門に吸収され、労働者には断片化された実行のみが残されると論じた。労働者の身体に宿っていた暗黙知は、マニュアル化・機械化を通じて外部化され、労働者から剥奪される。
この図式は、笑いの知識化に驚くほどよく当てはまる。前デジタル時代の芸人において、笑いを生む技芸は、間合いや呼吸といった言語化しえない身体的暗黙知として、演者の身体に宿っていた。ところが笑いが分析され言語化されるにつれ、この暗黙知は「構想」として外部化される。「なぜ面白いのか」の理論、「ウケる構造」のフレームワーク、「フリとオチ」の公式――これらは笑いの構想部分を身体から引き剝がし、言語的・分析的な知識として蓄積する。
ここに脱技能化のパラドックスが生じる。笑いが「高度になった」と感じられるまさにその局面で、笑いの身体的技芸は構想と実行に分解され、構想部分は言語的知識商品として流通し、身体はその実行装置へと後退する。芸人の複業化――執筆や解説への展開――は、この構想部分を自ら商品化する営みとして理解できる。芸人は、自らの技芸を脱技能化し、その構想を知識商品として売る主体になったのである。
この自己商品化には、両義的な性格がある。一方で、それは芸人が自らの技芸の構想部分を主体的に掌握し、他者に収奪される前に自ら言語化して商品化するという、抵抗の契機を含みうる。ブレイヴァマンの図式では脱技能化は労働者から一方的に構想を奪う過程であったが、芸人の複業化においては、演者自身が構想の言語化と商品化を担う。すなわち、脱技能化の主体と客体が同一人物のうちに折り重なる。芸人は自らを脱技能化しながら、その脱技能化の果実を自ら回収する。
しかし他方で、この自己商品化は、笑いの生産をますます知識体制の論理に従属させる。芸人が自らの構想を言語化し、「なぜ面白いか」を語る主体になればなるほど、笑いは身体的技芸としての自律性を失い、語りうる・分析しうる知識としての性格を強める。複業化した芸人は、笑いの生産者であると同時に、笑いを知識へと翻訳する翻訳者になる。この翻訳者としての役割こそが、笑いを知識体制へと引き渡す蝶番なのである。芸人の複業化は、笑いの知的精緻化の原因であると同時に結果であり、両者は円環をなして相互に強化し合っている。冒頭で観察した二つの傾向――芸人の複業化と笑いの知的精緻化――が同一の構造変動の二つの現れであるという本稿の仮説は、ここで理論的な裏づけを得る。
3.2 象徴の貧困――スティグレールの視座
ブレイヴァマンが労働過程の脱技能化を論じたのに対し、ベルナール・スティグレールはこれを精神と欲望の次元へと拡張した。スティグレールの象徴の貧困(misère symbolique)論は、産業化された象徴生産――映画、音楽、映像といった文化産業――が、人々から「象徴を生産し享受する能力」そのものを奪っていく過程を描く[^4]。スティグレールはこれを「精神のプロレタリア化」と呼んだ。かつて労働者が生産の技能を奪われたように、いまや消費者は感じ、考え、欲望する能力そのものを産業に外部委託し、剥奪されていく。
笑いの知識商品化は、この象徴の貧困の一事例として読める。笑いが解説され、分析され、「わかる」対象として提供されるとき、観客は自ら笑いを感受し味わう能力を、少しずつ解説装置に明け渡していく。「なぜ面白いか」を自分の身体で感じるのではなく、供給される言説を通じて理解する。笑いの享受は、感受から理解へ、身体から言語へと移行する。この移行は一見、洗練の深化のように見えるが、スティグレールの視座からはむしろ、笑いを感じる能力の産業的な剥奪として現れる。
重要なのは、スティグレールがこの過程を単なる衰退としてではなく、技術的条件の問題として捉えた点である。象徴の貧困は技術そのものの必然ではなく、技術がいかに組織されるかの帰結である。したがって、笑いの知識化もまた不可避の運命ではなく、それを組織する経済的・技術的体制の産物として問い直されうる。
3.3 専門家支配――イリイチの視座
イヴァン・イリイチの専門家支配(disabling professions)論は、この剥奪の構造にさらなる角度を与える[^5]。イリイチは、専門家が人々の自律的な能力を「サービス」の名のもとに肩代わりすることで、かえって人々を無能力化する(disable)と論じた。医療が健康を管理する能力を、教育が学ぶ能力を、専門家の独占へと吸い上げる。人々は自らの生を生きる能力を専門家に委ね、その依存が専門家の権威を再生産する。
笑いの領域にも、この専門家支配の構図が浸潤しつつある。笑いを「解説する」専門家的言説――批評家、分析者、そして自らを解説する芸人自身――が、笑いを享受する自律的な能力を肩代わりしはじめる。何が面白いのか、なぜ面白いのかは、供給される専門的言説によって定義される。観客は自ら判断する能力を委譲し、供給される「正しい笑いの理解」を受け取る消費者になる。イリイチが対置した自律共働的(convivial)な関係――人々が自らの道具と能力をもって相互に関わる関係――は、専門的に組織された笑いの消費のなかで痩せ細っていく。
3.4 監視資本主義――ズボフの視座
ここまでの三つの視座(脱技能化・象徴の貧困・専門家支配)は、いずれも笑いの享受能力が外部化・剥奪される過程を描いてきた。ショシャナ・ズボフの監視資本主義論は、この剥奪がいかにして経済的価値へと転化されるかを解明する[^6]。ズボフによれば、監視資本主義は人間の経験を無償の原材料として収奪し、それを「行動余剰」(behavioral surplus)として抽出し、予測製品へと加工して市場で取引する。人間の経験は、本人の与り知らぬところで資本蓄積の資源に変換される。
笑いの知識商品化は、この監視資本主義の論理と完全に噛み合う。プラットフォーム上で笑いが消費されるとき、視聴者の反応――どこで再生し、どこで止め、どこを繰り返し、何を共有し、何にコメントするか――のすべてが行動データとして抽出される。笑いの「嗜好」はプロファイリングの対象となり、アルゴリズムに最適化される。どのネタが「ウケる」かは、もはや演者の直観ではなく、抽出された行動余剰の統計的処理によって予測される。笑いは、視聴者の反応データを媒介として、行動予測市場に接続される。
ここで注目すべきは、視聴者が笑うという行為それ自体が、無償の労働として資本蓄積に寄与している点である。視聴者は笑いを消費していると信じながら、同時に自らの反応を無償で供給し、笑いの予測製品化に貢献している。笑いの享受は、気づかれない労働に裏打ちされている。
3.5 技術の方向性は政治的選択である――アセモグルの視座
以上の分析は、笑いの知識商品化を不可避の技術的帰結として描いているように見えるかもしれない。この決定論的な印象を退けるために、ダロン・アセモグルの技術方向性論を導入したい[^7]。アセモグルは、技術の発展方向は自然法則ではなく、権力と選択の産物であると論じる。同じ技術的基盤のうえに、労働者を補完する技術も、労働者を代替し無力化する技術も構築されうる。どちらが選ばれるかは、技術の必然ではなく、それを方向づける権力配置の帰結である。アセモグルはとりわけ、生産性をさほど高めないまま人間の役割を削るだけの「まあまあの自動化」(so-so automation)が、権力の非対称性ゆえに過剰に選択されると警告する。
この視座を笑いに適用すれば、笑いを記録・分析・予測する技術は、それ自体としては笑いを豊かにも貧しくもしうる中立的な基盤である。それが笑いの身体性を漂白し、視聴者の享受能力を剥奪し、行動余剰を抽出する方向へと組織されているのは、技術の必然ではなく、プラットフォーム経済の権力配置がその方向を選択しているからである。したがって、別の組織化――笑いの一回性と自律共働性を回復する技術の使い方――は、原理的には可能である。この可能性は第5章で改めて論じる。
3.6 苦労キャンセルという横断的概念
以上の五つの視座を貫く横断的な分析装置として、本稿は「苦労キャンセル」という概念を提起する。苦労キャンセルとは、努力・労苦・摩擦――すなわち、ある成果に到達するために従来必要とされた過程の負荷――を、情報技術によって除去する営みを指す。それは表面的には解放であり、利便性の向上として現れる。しかし本稿の関心は、その負荷の除去が同時に何を奪うのかにある。
笑いにおける苦労キャンセルは、二重の水準で作動する。第一に、生産の水準において。笑いを生む苦労――間合いを掴む修練、客席と対峙する緊張、一回性の場を成立させる労苦――は、分析的フレームワークとデータ駆動の最適化によってキャンセルされる。「ウケる構造」が言語化・公式化されれば、笑いの生産はその苦労を経ずに再現可能になる。第二に、受容の水準において。笑いを味わう苦労――自ら感受し、判断し、意味を編み上げる能力の行使――は、供給される解説と最適化された配信によってキャンセルされる。観客は苦労なく「面白さ」を受け取る。
苦労キャンセルの逆説は、キャンセルされる苦労こそが、その活動を意味あるものにしていた当のものであるという点にある。笑いを生む苦労が、笑いを一回的で身体的な出来事にしていた。笑いを味わう苦労が、笑いを自律的な享受にしていた。苦労がキャンセルされたあとに残るのは、漂白され、商品化され、予測可能になった笑いの抜け殻である。第2章で述べた笑いの三性質――一回性・身体性・消費不可能性――の喪失は、この二重の苦労キャンセルの帰結として統一的に理解できる。
ここで、苦労キャンセルの概念を単なる利便性批判から区別しておく必要がある。利便性批判は、利便性の追求が失うもの――手間、時間、労力――を惜しむ。しかし本稿の関心は、失われる手間の量ではなく、その手間が担っていた意味生成の機能にある。ある活動において、苦労は単なる負荷ではなく、しばしばその活動を意味あるものにする構成要素である。登山の苦労が頂上の意味を作り、修練の苦労が達成の意味を作るように、笑いを生む苦労と味わう苦労は、笑いという経験に厚みと固有性を与えていた。摩擦は、経験が意味を凝結させるための抵抗面なのである。
苦労キャンセルが問題であるのは、それが手間を省くからではなく、意味が凝結する抵抗面を溶かしてしまうからである。摩擦なく供給される笑いは、消費されるが経験されない。それは滑らかに通り過ぎ、跡を残さない。スティグレールの象徴の貧困(3.2)が精神のプロレタリア化として描いたのは、まさにこの、意味を生成する能力そのものの摩耗であった。苦労キャンセルは、この摩耗を利便性の外観のもとで加速する。笑いが摩擦なく供給されるほど、笑いは経験としての密度を失い、行動余剰を生む刺激としての性格を強める。ここに、苦労キャンセルが監視資本主義(3.4)と共犯関係を結ぶ構造的な理由がある。摩擦の除去は、消費の加速を通じて、抽出される行動余剰の量を最大化するのである。
第4章 文化資本と消費体制――笑いの階層化
4.1 「わかる笑い」と区別の論理
第3章が笑いの労働化と搾取の垂直的な構造を分析したのに対し、本章は笑いの階層化という水平的――正確には斜行的――な構造を分析する。中心に据えるのは、再びブルデューの文化資本論、とりわけ『ディスタンクシオン』における区別(distinction)の理論である[^8]。
ブルデューによれば、趣味判断は決して純粋に美的なものではなく、社会空間における位置を標示し、再生産する実践である。「良い趣味」を持つこと、洗練された作品を「わかる」ことは、その人の文化資本の顕示であり、他者との区別を通じて社会的な優位を確保する営みである。重要なのは、この区別が意識的な戦略としてではなく、身体化された性向(ハビトゥス)として、あたかも自然な感受性であるかのように作動する点である。
笑いが「わかる」対象になったとき、笑いはこの区別の論理へと編入される。かつて笑いは、階級横断的な即時的反応であった。誰もが同じネタで、同じ瞬間に笑いえた。ところが知的に精緻化された笑い――心理学的・社会学的な含意を帯び、複層的な参照とメタ構造を備えた笑い――は、それを「わかる」ための文化資本を要求する。「あの芸人の面白さがわかる」ことは、単なる感覚ではなく、教養と洗練の標識になる。逆に、それが「わからない」ことは、文化資本の欠如として、暗黙のうちに序列化される。笑いは、区別の道具になったのである。
4.2 知的な笑いという新しい教養
この階層化は、「知的な笑い」を新しい教養の一領域として制度化する。かつて教養とは、文学・美術・音楽といった正統文化への通暁を意味した。しかし文化資本の領域は歴史的に変動し、拡張する。かつて低俗とされたものが、洗練の対象として正統化されることもある。笑いの知的精緻化は、まさにこの正統化の過程にある。「ただ笑える」お笑いと、「知的に鑑賞できる」お笑いのあいだに序列が引かれ、後者を享受しうることが新たな文化資本として蓄積されはじめる。
ここで作動しているのは、ブルデューの言う文化的正統性の力学である。ある種の笑いが「高級」とされ、別の種の笑いが「低級」とされるとき、その区別は笑いの内在的な質によってではなく、それを享受する社会集団の位置によって定められる。知的な笑いを愛好する層は、その愛好を通じて自らを大衆的な笑いから区別し、その区別によって自らの文化的優位を再生産する。笑いをめぐる「レベルが上がった」という言説は、この区別の力学が発する評価の声にほかならない。
4.3 プラットフォームによる階層化の加速
デジタルプラットフォームは、この文化的階層化を隠蔽しつつ加速する。表面的には、プラットフォームは笑いの民主化装置である。誰もが発信でき、誰もがアクセスできる。参入障壁は劇的に低下した。この民主化の外観は、本稿の批判に対する有力な反論を構成する。実際、大手メディアが供給する笑いだけを受動的に受容するほかなかった時代と比べれば、現在の多様性と参加可能性は疑いなく拡大した。
しかし、この民主化の外観の下で、より精緻な階層化が進行している。第一に、アルゴリズムによる選別的な露出である。プラットフォームは全ての笑いを等しく可視化するのではなく、行動データに基づいて視聴者ごとに異なる笑いを供給する。この選別は、既存の嗜好――したがって既存の文化資本――を強化する方向に作動し、文化的な分節線を深化させる。第二に、言説的な階層化である。笑いをめぐる解説・批評・分析の言説を生産し流通させる能力は均等に分配されておらず、この言説空間への参入それ自体が文化資本を要求する。「わかる」ことに加えて「語れる」ことが、新たな区別の標識となる。
こうしてプラットフォームは、民主化の外観のもとで、笑いをめぐる文化資本の分配を再構造化する。参入は開かれたが、その内部で新たな序列が編み直される。イリイチの専門家支配(3.3)が笑いの享受能力を剥奪したのと並行して、ブルデュー的な区別の論理は笑いの享受を階層化する。両者は、笑いの民主化という共通の外観のもとで、相補的に作動している。
4.4 メタ化する笑いとリテラシー要求
笑いの階層化を駆動する具体的な機構として、笑いのメタ化を指摘しておきたい。冒頭で観察したように、現在のコントや漫才は、心理学的・社会学的な含意を帯び、しばしば「笑いについての笑い」「構造を露呈させる笑い」というメタ的な層を備えている。ある芸は、既存の笑いの型を引用し、脱臼させ、その型の恣意性を露呈させることで笑いを生む。別の芸は、社会の暗黙の前提を統計的・構造的に可視化し、その可視化のずれによって笑いを生む。こうした笑いは、笑われる対象そのものよりも、笑いの構造や社会の構造に対する認識を、笑いの条件として要求する。
このメタ化は、笑いを享受するためのリテラシーの要求水準を引き上げる。既存の型を知らなければ、その型の脱臼は面白くない。社会の暗黙の前提を共有していなければ、その前提のずれは見えない。メタ化した笑いは、参照される文脈――笑いの歴史、社会の構造、心理の機微――へのアクセスを前提とし、そのアクセスを持たない者を笑いから排除する。ここで要求される文脈へのアクセスこそ、ブルデュー的な意味での文化資本にほかならない。メタ化は、笑いを「わかる」ための参入条件を高度化することによって、文化資本による選別を笑いの内部に埋め込むのである。
重要なのは、このリテラシー要求が、笑いの「高度化」「洗練」として肯定的に経験される点である。より多くの文脈を要求する笑いは、それを享受できる者にとって、より深く、より知的で、より価値ある笑いとして現れる。区別の論理は、排除としてではなく、洗練の深化として自らを提示する。だからこそ、笑いの階層化は抵抗を招くことなく、むしろ歓迎されながら進行する。「レベルが上がった」という肯定的な評価が、階層化の進行を覆い隠す。ここに、笑いのメタ化が階層化を推し進めながら、その階層化を不可視化するという二重の作用が見て取れる。
4.5 階層化と労働化の交錯
ここで第3章と第4章の分析を結び合わせておきたい。笑いの労働化(垂直的搾取)と笑いの階層化(斜行的区別)は、独立した二つの現象ではなく、同一の知識体制の二つの側面である。
その交点にあるのが、笑いを「わかる」ことへの欲望である。監視資本主義(3.4)が抽出する行動余剰は、視聴者が笑いを「より深く味わいたい」「その面白さをわかりたい」という欲望に駆動されて反応するがゆえに、豊かに供給される。そしてこの「わかりたい」という欲望こそ、文化資本の論理(4.1)が育て、区別への欲望として構造化したものである。すなわち、階層化の力学が生み出す「わかる笑いへの欲望」が、労働化の機構が抽出する行動余剰の源泉になっている。区別への欲望が搾取の燃料になるという、この循環こそが、笑いの知識体制の核心をなす。
苦労キャンセル(3.6)は、この循環の潤滑油として作動する。「わかりたい」という欲望を、自ら苦労して味わうことなく充足させる装置――解説、切り抜き、最適化された配信――が、区別への欲望を絶えず賦活しながら、同時に行動余剰の抽出を最大化する。笑いを味わう苦労がキャンセルされるほど、「わかった」感覚は手軽に供給され、その手軽さが消費を加速し、加速した消費がより多くの行動余剰を生む。階層化・労働化・苦労キャンセルは、こうして一つの自己強化的な体制を形成する。
第5章 結論と展望――終焉ではなく吸収、そして抵抗の余地
5.1 本稿の主張の要約
本稿は、現代日本のお笑いに生じている変容を、笑いが「一回性の身体的出来事」から「記録され分析され再消費される知識商品」へと転化する過程として分析してきた。第2章では、この転化が録画技術からプラットフォーム経済への技術的移行のもとで、笑いの三性質――一回性・身体性・消費不可能性――の喪失として生じたことを示した。第3章では、この知識商品化が埋め込む労働と搾取の構造を、脱技能化・象徴の貧困・専門家支配・監視資本主義・技術方向性という五つの視座から分析し、それらを「苦労キャンセル」という横断的概念のもとに統一した。第4章では、笑いの知的精緻化がブルデュー的な区別の論理を通じて社会的階層化を生み、その階層化が労働化と交錯して自己強化的な体制を形成することを示した。
5.2 「笑いの終焉」ではない
これらの分析から導かれる結論を、あえて誤解を招きやすい形で述べれば、「笑いは終わりつつある」となる。しかし本稿はこの表現を採らない。生じているのは笑いの終焉ではなく、笑いの吸収だからである。
終焉という語は、笑いが消滅する、あるいは衰弱するという含意を持つ。しかし観察される事態はむしろ逆である。笑いは量的には増殖し、質的には精緻化し、経済的には拡大している。笑いは死につつあるのではなく、繁栄しつつある。問題は、その繁栄が笑いの何を代償にしているかにある。笑いは、その一回性・身体性・非商品性を漂白されながら、より広範な知識生産体制へと統合されていく。笑いは知識体制のなかで生き延びるが、それはもはや前デジタル時代の笑いと同じものではない。「終焉」ではなく「吸収」――笑いは知識体制に飲み込まれることによって、繁栄しつつ変質するのである。
この定式化は重要である。なぜなら、「終焉」という診断は諦念か郷愁しか生まないのに対し、「吸収」という診断は、吸収の過程そのものに介入する可能性を開くからである。吸収は完了した事実ではなく、進行中の過程である。過程であるかぎり、それは別様にも組織されうる。
5.3 抵抗の余地――一回性と自律共働性の回復
では、いかなる抵抗が可能か。本稿の分析は、少なくとも三つの抵抗の方向を示唆する。
第一に、一回性の回復である。笑いの商品化は、笑いを反復可能な記録へと変換することに依存していた。したがって、記録されえない笑い、その場かぎりの笑い、複製に抵抗する笑いの実践は、商品化の論理そのものに亀裂を入れる。ライブの、生の、一回的な笑いの場を意図的に守り、育てること――アーカイブされない時間を確保することは、それ自体が抵抗になりうる。
第二に、自律共働性の回復である。イリイチの示した自律共働的な関係――人々が専門家に委ねることなく、自らの能力をもって相互に関わる関係――を笑いの領域で回復すること。解説され供給される笑いを受動的に消費するのではなく、自ら感受し、判断し、意味を編む能力を行使すること。この能力の行使こそ、苦労キャンセルがキャンセルしようとする当の「苦労」であり、それを引き受けることが象徴の貧困への抵抗になる。
第三に、技術の再方向づけである。アセモグルが示したように、技術の方向性は必然ではなく選択である。笑いを記録・分析する技術を、行動余剰の抽出と享受能力の剥奪へと向けるのではなく、一回性を豊かにし、自律的な享受を支援する方向へと組織し直すこと。これは個人の実践を超えた、プラットフォーム経済の権力配置そのものへの問いを含む。
5.4 予想される反論への応答
本稿の議論に対しては、いくつかの反論が予想される。それらに応答することで、本稿の主張の射程と限界を明確にしておきたい。
第一の反論は、懐古主義の疑いである。本稿は前デジタル時代の笑いの一回性・身体性を特権化し、現在の笑いを堕落として描いているのではないか、という批判である。これは正当な警戒である。しかし本稿の意図は、失われた黄金時代への郷愁ではない。寄席やテレビの笑いもまた、それぞれの時代の権力配置と経済構造に埋め込まれており、無垢であったわけではない。本稿が問題化するのは「昔は良かった」ということではなく、笑いの存在様式が特定の方向――知識体制への吸収――へと組織されつつあること、そしてその方向が技術の必然ではなく選択の産物であることである。過去の理想化ではなく、現在の選択可能性の指摘こそが本稿の眼目である。
第二の反論は、エリート主義の疑いである。本稿は「わかる笑い」を階層化の道具として批判するが、その批判自体が、大衆的な笑いを享受する人々を無自覚な被搾取者として見下す、知的エリートの傲慢ではないか、という批判である。この反論は本稿の急所を突く。本稿は、笑いの知的精緻化を文化資本の論理として分析したが、この分析を行う本稿自身が、まさにその文化資本を行使している。笑いを社会理論で語るという営みそれ自体が、笑いの知識化の一環にほかならない。本稿はこの自己言及的な矛盾から逃れられない。できるのは、この矛盾を隠蔽せず、本稿の批判が自らにも跳ね返ることを認めることだけである。笑いを理論化する本稿は、批判する当の体制に加担している。この自覚こそが、本稿の批判に留保を課す。
第三の反論は、行為者性の軽視である。本稿は視聴者を行動余剰を吸い取られる受動的存在として、芸人を知識体制の機構として描くが、現実の視聴者や芸人は、体制の内部でしたたかに遊び、攪乱し、抵抗しているのではないか、という批判である。これも正当である。本稿の構造分析は、行為者の主体的な実践を十分に掬い上げていない。監視資本主義のもとでも、人々はミームを転用し、切り抜きを換骨奪胎し、供給された笑いを予期せぬ方向へと逸脱させる。芸人もまた、自らの商品化を笑いのネタにすることで、体制を内側から茶化す。これらの実践は、本稿の悲観的な構造分析に対する経験的な反例であり、5.3で述べた抵抗の余地が、抽象的な可能性ではなく現に生きられた実践であることを示している。本稿の構造分析は、こうした行為者の実践を否定するものではなく、それらの実践がそれに抗している当の構造を可視化する試みとして読まれるべきである。
5.5 残された問い
本稿はいくつかの問いを開いたまま残している。第一に、演者――芸人自身――の主体性の問題である。本稿は芸人を知識体制の機構のなかに位置づけたが、芸人が自らその機構を批評し、内部から攪乱する可能性は十分に論じられていない。自らの脱技能化を商品化する芸人が、同時にその商品化を笑いの対象にするとき、そこにいかなる抵抗が芽生えうるか。第二に、笑いの吸収に対する視聴者側の抵抗の具体的な形態である。本稿は抵抗の方向を示したが、その社会的実現の条件は今後の課題である。第三に、日本という文脈の特殊性である。本稿は普遍的な理論装置を用いたが、日本のお笑い文化に固有の歴史――寄席、演芸、テレビ文化の系譜――が、この吸収の過程にいかなる屈折を与えているかは、より精緻な検討を要する。
笑いが知識体制に吸収される時代にあって、なお笑いうること――苦労してでも自ら味わい、その場かぎりの身体として笑うこと――は、些細な抵抗に見えるかもしれない。しかし、まさにその些細さのなかにこそ、商品化されえない笑いの核が宿っている。本稿の分析が、その核を守るためのささやかな言語を提供できたとすれば、その目的は果たされたことになる。
脚注
[^1]: Pierre Bourdieu, La Distinction: Critique sociale du jugement, Paris: Minuit, 1979.(ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン――社会的判断力批判』石井洋二郎訳、藤原書店、1990年)。文化資本概念については同著者 "Les trois états du capital culturel," Actes de la recherche en sciences sociales, 30, 1979, pp. 3-6 も参照。
[^2]: Michel Foucault, Surveiller et punir: Naissance de la prison, Paris: Gallimard, 1975.(ミシェル・フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年)。権力=知識の定式については同書第3部を参照。
[^3]: Harry Braverman, Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century, New York: Monthly Review Press, 1974.(ハリー・ブレイヴァマン『労働と独占資本――20世紀における労働の衰退』富沢賢治訳、岩波書店、1978年)。
[^4]: Bernard Stiegler, De la misère symbolique, 2 vols., Paris: Galilée, 2004-2005. 精神のプロレタリア化については同著者 États de choc: Bêtise et savoir au XXIe siècle, Paris: Mille et une nuits, 2012 も参照。
[^5]: Ivan Illich et al., Disabling Professions, London: Marion Boyars, 1977.(イヴァン・イリイチ他『専門家時代の幻想』尾崎浩訳、新評論、1984年)。自律共働性(conviviality)については Ivan Illich, Tools for Conviviality, New York: Harper & Row, 1973(『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二・渡辺梨佐訳、日本エディタースクール出版部、1989年)を参照。
[^6]: Shoshana Zuboff, The Age of Surveillance Capitalism: The Fight for a Human Future at the New Frontier of Power, New York: PublicAffairs, 2019.(ショシャナ・ズボフ『監視資本主義――人類の未来を賭けた闘い』野中香方子訳、東洋経済新報社、2021年)。行動余剰(behavioral surplus)概念は同書序論および第1部を参照。
[^7]: Daron Acemoglu and Simon Johnson, Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle over Technology and Prosperity, New York: PublicAffairs, 2023.(ダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』鬼澤忍・塩原通緒訳、早川書房、2023年)。「まあまあの自動化」(so-so automation)概念については Daron Acemoglu and Pascual Restrepo, "Automation and New Tasks: How Technology Displaces and Reinstates Labor," Journal of Economic Perspectives, 33(2), 2019, pp. 3-30 を参照。
[^8]: 前掲注1、Bourdieu, La Distinction. 区別(distinction)とハビトゥスの理論的展開は同書全体を貫く。
参考文献
Acemoglu, Daron, and Simon Johnson. Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle over Technology and Prosperity. New York: PublicAffairs, 2023.
Acemoglu, Daron, and Pascual Restrepo. "Automation and New Tasks: How Technology Displaces and Reinstates Labor." Journal of Economic Perspectives 33, no. 2 (2019): 3-30.
Bourdieu, Pierre. La Distinction: Critique sociale du jugement. Paris: Minuit, 1979.
Bourdieu, Pierre. "Les trois états du capital culturel." Actes de la recherche en sciences sociales 30 (1979): 3-6.
Braverman, Harry. Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century. New York: Monthly Review Press, 1974.
Foucault, Michel. Surveiller et punir: Naissance de la prison. Paris: Gallimard, 1975.
Illich, Ivan. Tools for Conviviality. New York: Harper & Row, 1973.
Illich, Ivan, et al. Disabling Professions. London: Marion Boyars, 1977.
Stiegler, Bernard. De la misère symbolique. 2 vols. Paris: Galilée, 2004-2005.
Stiegler, Bernard. États de choc: Bêtise et savoir au XXIe siècle. Paris: Mille et une nuits, 2012.
Zuboff, Shoshana. The Age of Surveillance Capitalism: The Fight for a Human Future at the New Frontier of Power. New York: PublicAffairs, 2019.
