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そして誰も育てなくなった 第5話:痛いは、痛い

最初に消えたのは、自由ではなかった。
言葉だった。
こども家庭ポイント庁は、新しい重点対応方針を発表した。
正式名称は、次世代扶養循環の安定化に向けた若年層否定的語彙予防的介入及び家庭内安心対話最適化実施要綱。
あまりに長いので、誰も最後まで読まなかった。
通称は、ことば見守り支援。
さらに学校では、もっと短く呼ばれた。
安心ことば週間。

廊下には標語が貼られた。
【嫌だ、ではなく、別の選択肢を希望します】
【無理、ではなく、今は調整が必要です】
【帰りたい、ではなく、安心できる場所について相談したいです】
【痛い、ではなく、身体感覚への配慮を希望します】

三倍子は、その最後の一文を読んで首をかしげた。
「身体感覚って、膝?」
「たぶん」
歩太は答えた。
「じゃあ、膝って言えばいいのに」
その日の昼休み、三倍子は校庭で転んだ。
砂場の縁で足をひっかけ、膝をすりむいた。
血が出た。
三倍子は一瞬、口を開けた。
たぶん、痛い、と言おうとしたのだ。

だが、校庭の見守りカメラが動いた。
近くの端末から、雲の声が流れた。
【落ち着いてください】
【痛みを感じた場合は、安心表現で伝えましょう】

三倍子の口が止まった。
「少し、身体、えっと」
言葉が絡まった。
「身体感覚への配慮を」
その間に、血は膝を伝った。
歩太は走った。
「三倍子!」

端末が鳴った。
【低学年児童の身体違和感報告を検知しました】
【保健室連携を開始します】

「痛い?」
歩太は聞いた。
三倍子は周りを見た。
先生。
カメラ。
端末。
ほかの子ども。
それから、小さく言った。
「痛いって言っていい?」
歩太は、胸の奥が熱くなった。
「いい」
「本当に?」
「いい」
三倍子は、息を吸った。
「痛い!」
その声は、校庭に響いた。
たった三文字なのに、世界が少し止まった。

端末が赤く光った。
【直接的痛み語彙を検知しました】
【安心表現への変換を推奨します】

歩太は、端末に向かって言った。
「変換しなくていい」
担任ではない低学年の先生が走ってきた。
「大丈夫? 今、保健室に」
歩太は言った。
「大丈夫って言う前に、止まってください」
先生は、はっとした。
三倍子が泣いた。
今度は、ちゃんと泣いた。
その午後、四年二組の道徳は急きょ変更された。
立花先生は、黒板に大きく書いた。
痛いと言われたら、止まる。
教室は静かだった。
先生は言った。
「今日は、この一文だけでいいです」

端末が鳴った。
【授業計画外表現を検知しました】
【標準教材への復帰を推奨します】

立花先生は、端末を見た。
それから、もう一度黒板を見た。
「標準教材より大事です」
子どもたちの息が少し変わった。
結衣が、そっとノートを出した。
反語彙帳の写しだった。
本物は八百屋の奥にある。
痛いは、痛い。
拓真が書いた。
やめては、やめて。
満が書いた。
助けては、申請ではない。
圭一が書いた。
支援より先に来て。
香澄が書いた。
泣いたら、止まって。
言葉がページいっぱいに並んだ。
それは、子どもたちの辞書だった。
古い言葉ではない。
生きるための言葉である。

そのころ、成人自立支援センターでも、同じプログラムが始まっていた。
満里奈たちは、白い教室に座らされていた。
スクリーンには、【痛み安心化プログラム】と表示されている。
【自立支援の過程では、寂しさや不安、身体的な違和感を感じることがあります。その際は、直接的な表現ではなく、安心につながる表現を使いましょう】
【例文】
【ここにいたくない】⇒【生活環境について再説明を希望します】
【つらい】⇒【適応過程における心理的負荷を感じています】
【助けて】⇒【支援接続を希望します。】

千景が、小さく言った。
「支援接続って、助けてくれるの」
誰も答えなかった。
勇斗が、自分の手首を押さえていた。
作業訓練で重い箱を運んだとき、少し痛めたらしい。
支援員は、勇斗に言った。
「身体感覚がある場合は、落ち着いて報告しましょう」
勇斗は言った。
「痛い」
支援員は、やさしく微笑んだ。
「では、安心表現にしてみましょう」
勇斗は、少し考えた。
満里奈は、机の下で紙を握った。
歩太たちの手紙だ。
勇斗は言い直さなかった。
「痛い」
もう一度、言った。
千景が続いた。
「私は、ここにいたくない」
美雨が言った。
「つらい」
満里奈は立ち上がった。
「帰りたい」

端末が赤く点滅した。
【複数移行者による否定的語彙連鎖を検知】
【自立支援計画の再調整を開始します】

満里奈は、赤いランプを見た。
怖かった。
けれど、言わない方がもっと怖かった。

その夜、第七東区の地図に、小さな灰色の網がかかった。
【地域安心再認証中】

表示されたのは、三十分だけだった。
だが、町の人たちは気づいた。
スーパーのレジで、ポイント還元が一時停止した。
バス停の時刻表アプリが更新中になった。
商店街のデジタル看板が、しばらく無地になった。
母が端末を見て言った。
「これ、今日の学校の件と関係あるのかな」
父は黙っていた。
三倍子は、絆創膏を貼った膝を見た。
「私が痛いって言ったから?」
歩太はすぐに答えた。
「違う」
「でも、町が灰色になった」
「痛いって言ったから町が悪くなるなら、悪いのは痛いじゃない」
歩太は、うまく言えなかった。
「痛いって言わせない町の方だ」
母が、三倍子の膝を見た。
「明日も痛かったら、ちゃんと見よう」
三倍子は聞いた。
「ちゃんとって、記録するってこと?」
母は首を振った。
「まず、見るってこと」
見る。
それは、見守りとは違う。
見守りは、記録するために見る。
見るは、そこにいるから見る。
似ているようで、まったく違う。
父が、ぽつりと言った。
「会社にも来た」
「何が?」
「痛み安心化。仕事で、無理ですとか、限界ですとか、やめてくださいを使わないようにって」
歩太は父を見た。
「大人にも?」
父は苦く笑った。
「大人の方が先かもしれないな」

会社の端末には、こう出たという。
【無理です】⇒【実現には追加条件の整理が必要です】
【限界です】⇒【持続可能な業務設計に再調整が必要です】
【やめてください】⇒【進行方法について再確認を希望します。】
【助けてください】⇒【支援リソースの接続を希望します】

父は言った。
「言葉をやわらかくすると、上の人間は何もしなくて済む。無理です、なら止めなきゃいけない。追加条件の整理が必要です、なら会議にできる」
母が言った。
「子どもも、大人も同じね」
「同じだな」
父は、三倍子の膝を見た。
「痛いは、痛いでいい」
三倍子は少し笑った。
「お父さんも、嫌だって言っていいよ」
父は、困ったように笑った。
「練習するよ」
その夜、歩太は反語彙帳に新しいページを作った。
題名は、痛みの辞書。
最初の行に、三倍子の字で書かれている。
『痛いって言っていい』
その下に、歩太は書いた。
『痛いと言われたら止まる』
少し考えて、さらに書いた。
『止まらないものは、支援ではない』
その一文を書いた瞬間、部屋の外で端末が震えた気がした。
だが、歩太はノートを閉じなかった。
言葉を閉じる方が、もっと怖かった。

そして誰も育てなくなった 第6話:沈黙は、同意ではないにつづく…

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