日本イスラム共和国――USSドナルド・J・トランプを攻撃した国
文・武智倫太郎
オペレーション・スコープ3
アメリカ合衆国大統領が、日本列島の中に新しい国を発見した。
国名は、日本イスラム共和国。
英語では、Republic Islam Japan。
略称、RIJ。
英文としては不自然だったが、大統領がそう呼んだ以上、ホワイトハウスの文書では固有名詞として扱われた。
世界は、大統領がイランと日本を言い間違えたのだと思った。
大統領だけは、自分が間違えていないと確信していた。
記者会見の直後、国家安全保障担当補佐官が大統領執務室へ入った。
『大統領。先ほどお話しになったのは、イラン・イスラム共和国のことでしょうか?』
大統領は首を横に振った。
『違う。RIJだ!』
『RIJとは、どの国でしょうか?』
『Republic Islam Japanだ。日本の中にある。非常に危険な国だ!』
『日本国のことでしょうか?』
『日本は同盟国だ。素晴らしい国だ。RIJは別の国だ。日本の中に隠れている!』
補佐官は、国務省と国防総省の資料を机に置いた。
いずれの資料にも、RIJという国家は記載されていなかった。
『現時点で、そのような国家の存在は確認されておりません』
大統領は資料を見なかった。
『だから奇襲を受けるんだ!』
RIJは日本列島内に存在し、日本政府とは別の政権、別の軍隊、別のミサイル部隊を持っているという。
その秘密国家が、米海軍の原子力空母に111発のミサイルを発射した。
大統領は、そう信じていた。
USSドナルド・J・トランプ
攻撃を受けたとされた空母は、USS Abraham Lincolnではなかった。
少なくとも、ホワイトハウスはその名を使っていなかった。
二期目の就任後、トランプ大統領は、USS Abraham Lincolnの艦名をUSS Donald J. Trumpへ変更するよう海軍に求めていた。
船体番号は、CVN-72のままである。
海軍長官は、存命中の現職大統領が自らの名を現役艦に付けることには、伝統上も制度上も慎重な検討が必要だと進言した。
大統領は、何を検討する必要があるのかと尋ねた。
海軍長官は、艦名選定の手続、海軍史、乗組員の意向、エイブラハム・リンカーンという人物の歴史的評価について説明した。
大統領は最後まで聞いた。
そして、リンカーンにはすでに記念堂も肖像も紙幣もあると答えた。
自分には空母が必要だった。
改名式典は、飛行甲板上で行われた。
艦橋には、金色の文字で新しい艦名が掲げられた。
USS DONALD J. TRUMP
大統領は、米国史上もっとも強力で、もっとも美しく、もっとも名前のよい空母だと宣言した。
海軍の公式文書には、しばらくの間、次のように記載された。
USS Donald J. Trump(CVN-72)
Formerly USS Abraham Lincoln
数週間後、Formerlyの一語は削除された。
エイブラハム・リンカーンは暗殺から百六十一年後、もう一度、公職から退くことになった。
そのUSS Donald J. Trumpが、RIJから111発のミサイル攻撃を受けたというのである。
艦からは、攻撃を受けた事実はないとの報告が上がっていた。
レーダーにも、衛星にも、早期警戒システムにも、111発の飛翔体は記録されていない。
海面に残骸はなく、艦体に損傷もなく、負傷者もいなかった。
大統領は、それを空母の防御能力が完璧だった証拠と考えた。
攻撃が記録されていないことは、攻撃がなかったことを意味しない。
USS Donald J. Trumpが、111発すべてを完全に無力化したことを意味していた。
大統領にとっては。
大統領演説
その夜、ホワイトハウスは大統領による国民向け演説を発表した。
大統領執務室の机には、USS Donald J. Trumpの模型が置かれていた。
模型の艦橋にも、大統領の名前が金色で記されている。
大統領はカメラを見た。
『親愛なるアメリカ国民の皆さん。今夜、私は我が国に対して行われた卑劣で計画的な攻撃について報告します』
国防総省が用意した原稿には、『攻撃の事実は確認されていない』と書かれていた。
その一文は読まれなかった。
『日本の中に存在する危険な国家、Republic Islam Japan、RIJが、米国海軍の原子力空母USS Donald J. Trumpに対し、111発のミサイルを発射しました』
大統領は机上の模型に手を置いた。
『この空母は世界でもっとも優れた空母です。攻撃を受けても沈まなかった。被弾さえしなかった。専門家の中には、ミサイルが確認されていないと言う者もいます。それは、この艦の防御能力が彼らの理解を超えているからです』
国家安全保障担当補佐官が、カメラの外で僅かに身動きした。
演説原稿に、その説明はなかった。
『RIJの指導者たちは、艦名を見て攻撃したのでしょう。彼らは、この艦が誰を象徴しているのか知っていました!』
大統領は語気を強めた。
『USS Donald J. Trumpに対する攻撃は、アメリカ合衆国に対する攻撃です。そして率直に申し上げれば、私に対する攻撃でもあります!』
国防長官は、別室で演説を聞いていた。
空母に対する攻撃と、大統領個人に対する攻撃は、軍事的にも法的にも同じではない。
しかし、大統領の中ではすでに一体化していた。
『日本は素晴らしい同盟国です。私は日本が好きです。日本も私を尊敬しています。しかし、その日本の中にRIJという別の国がある。日本政府は、RIJの存在を認めたくないようです。おそらく、制御できていないのでしょう』
大統領は、さらに重大な結論へ進んだ。
『我々は、日本をRIJから守ります。日本政府がRIJは存在しないと言っても、我々は守ります。存在しない国が111発ものミサイルを発射することはできないからです』
論理は閉じていた。
111発のミサイルが、RIJの存在を証明している。
RIJが存在するから、111発のミサイルが発射された。
国家もミサイルも確認されていなかったが、二つを組み合わせれば、それぞれが相手の証拠になった。
『私は米軍に対し、RIJからのさらなる攻撃を阻止するため、圧倒的な対応を準備するよう指示しました。我々は戦争を望みません。しかし、USS Donald J. Trumpを攻撃して何も起きないと考えるべきではない』
演説は、次の言葉で締めくくられた。
『RIJの指導者たちは、非常に大きな間違いを犯しました。おそらく、彼らの歴史上最大の間違いです』
RIJには、歴史も指導者も存在しなかった。
それでも、米国大統領は報復を宣言した。
敵国コード、RIJ
大統領演説の終了から十一分後、国防総省から米インド太平洋軍司令部へ緊急指示が送られた。
【Republic Islam Japanによる追加攻撃に備え、必要な軍事的選択肢を準備せよ】
攻撃命令ではなかった。
しかし、攻撃できる状態を作れという命令であった。
統合作戦センターの情報将校は、画面に表示された三文字を見つめていた。
【RIJ】
Republic Islam Japan。
若い情報将校が上官に尋ねた。
『Republic Islam Japanという英語は、おかしくありませんか』
『本来ならIslamic Republic of Japanだろう』
『その場合、略称はIRJになります』
『大統領はRIJと呼んでいる』
『修正しますか』
上官は、ホワイトハウスから送られてきた指示書を確認した。
『修正するな。大統領が命名した国家だ。固有名詞として処理しろ』
こうして、英文として成立していない国名が、米国防総省の正式な敵国コードになった。
国防総省の国家データベースには、それまでRIJという国家は登録されていなかった。
脅威情報処理システムは、ホワイトハウスの指示と大統領演説を読み取り、新しい国家主体を自動生成した。
正式名称、Republic Islam Japan。
日本語名称、日本イスラム共和国。
略称、RIJ。
政体、イスラム共和制。
軍事的性格、敵対的。
推定保有ミサイル数、不明。
対米攻撃実績、111発。
政府所在地、東京周辺。
領土、日本列島内と推定。
主要情報源、米国大統領発言。
若い情報将校が再び尋ねた。
『RIJの正確な領土は、どこですか?』
上官は画面を拡大した。
システムは、国名にJapanが含まれていること、東京周辺に政府があると推定されていること、日本列島内に存在するとの大統領発言を統合し、RIJの領土を自動描画していた。
表示された領域は、日本列島と完全に一致していた。
北海道、本州、四国、九州、沖縄。
東京も大阪も横浜も含まれている。
横田基地、横須賀基地、嘉手納基地、岩国基地も、RIJの領土内に表示された。
米軍は、敵国領土の内部に主要司令部、艦隊基地、航空基地、補給施設、住宅、学校、病院を置いていた。
しかも、敵国と同じ場所に存在する同盟国政府の許可によって駐留していた。
『我々は、RIJ領内の米軍基地からRIJを攻撃するのですか!?』
誰も答えなかった。
地図が国家を証明する
その頃、ホワイトハウスでは大統領向けの情報説明が行われていた。
スクリーンには、国防総省のシステムが作成したRIJの地図が表示された。
日本列島全体が、赤い敵国領域として塗られている。
大統領は地図を指さした。
『見ろ。やはり実在するではないか!』
補佐官が答えた。
『この地図は、大統領の発言を基にシステムが自動生成したものです』
『国防総省の地図だろう』
『出発点となった情報は、大統領ご自身の発言です』
『私の情報と国防総省の情報が一致した。それなら間違いない』
大統領の発言がデータベースを作った。
データベースが地図を作った。
その地図が、大統領の発言を証明した。
RIJは地上には存在しなかった。
しかし、米国政府の情報システム上では、領土、政体、軍事的性格、攻撃実績を持つ国家として完成していた。
横田基地
東京の西にある横田基地では、在日米軍司令部の計画班が招集された。
会議室の大型画面には、二つの日本が並べられた。
左側には、同盟国としての日本国。
右側には、敵対国家RIJ。
領土は同じ。
政府所在地も同じ。
通信網も同じ。
港湾も空港も同じ。
違うのは、ワシントンのデータベースに登録された国家コードだけだった。
米軍准将が法務官に尋ねた。
『日米安全保障条約は、RIJにも適用されるのか?』
法務官は資料を確認した。
『条約の相手国は日本国です。RIJではありません』
『では、我々がここに駐留している法的根拠は?』
『日本国との条約です』
『その日本国は、どこにある?』
法務官は窓の外を見た。
基地の外には、日本の住宅地が広がっていた。
『地理的には、RIJと同じ場所にあるようです』
日米同盟は、相手国の名前が正しく入力されることを前提としていた。
日本政府は米国の同盟国であり、RIJは米国の敵国である。
ところが、両者は同じ道路を使い、同じ電力網につながり、同じ港を使用し、同じ国民から税金を徴収していることになった。
米軍は同盟国に駐留しながら、敵国領内に包囲されていた。
横須賀から出港せよ
横須賀では、第7艦隊司令部が緊急指令を受け取った。
RIJからの追加攻撃に備え、艦艇を分散し、港内での脆弱性を低減せよ。
軍事的には理解できる指示だった。
敵国の港に艦艇を集中させておくべきではない。
問題は、横須賀が米海軍の前方展開拠点であり、日本側の港湾労働者、技術者、企業、電力、通信、道路、鉄道に支えられていることであった。
艦隊司令部の参謀が、補給担当者に確認した。
『出港後の補給は?』
『日本国内の契約企業が担当します』
『RIJ企業ではないのか?』
『昨日までは同盟国企業でした』
『今日の分類は?』
担当者が端末を確認すると、赤い警告が表示された。
【制裁対象国との取引に該当する可能性があります】
米軍はRIJから退避しようとしていた。
しかし、退避するための燃料、部品、食料、整備、曳船、港湾作業をRIJと同じ場所にある日本企業へ依存していた。
敵国から離れるには、敵国の協力が必要だった。
日本政府の回答
翌朝、外務省には世界各国から問い合わせが殺到した。
日本国の正式名称は、RIJへ変更されたのか。
最高指導者は誰なのか。
政教分離は廃止されたのか。
日本銀行はイスラム金融へ移行するのか。
USS Donald J. Trumpに111発のミサイルを発射した事実はあるのか。
最後の質問だけは、笑って済ませられなかった。
外務省は米国政府に対し、日本が米空母を攻撃した事実はないと伝えた。
しかし、米国大統領の発言を正面から否定すれば、日米関係に影響を及ぼす可能性がある。
官房長官は記者会見で述べた。
『我が国がイスラム共和国になったとの事実は、現時点では確認されておりません。また、我が国が米国艦艇に対してミサイル攻撃を実施したとの事実も確認されておりません』
記者が質問した。
『確認されていないのではなく、攻撃していないのではありませんか』
官房長官は手元の紙を見た。
『個別具体的な軍事行動については、事柄の性質上、回答を差し控えます』
その回答は、米国の情報機関によって英訳された。
【The Government of Japan declines to answer questions concerning specific military operations】
情報評価システムは、これを次のように処理した。
【日本政府は、USS Donald J. Trumpへの攻撃について明確な否定を避けた】
日本政府は日米関係への配慮から慎重に答えた。
米軍は、その慎重さを敵国の曖昧戦略と判断した。
オペレーション・インナー・ストーム
国防総省は、RIJに対する条件付き軍事作戦を準備した。
作戦名は、オペレーション・インナー・ストーム。
内なる嵐。
攻撃目標の選定は難航した。
RIJの航空基地を無力化しようとすると、在日米軍基地と自衛隊基地が同じ地図上に表示された。
指揮統制施設を遮断しようとすると、日本政府、自衛隊、在日米軍司令部を結ぶ通信網が対象になった。
港湾能力を低下させようとすると、横須賀、佐世保、岩国など、米軍自身が使用する施設が含まれた。
米軍施設を攻撃対象から除外すると、周辺の道路、電力、通信、水道を除外できなかった。
在日米軍司令官は、ワシントンとの映像会議で尋ねた。
『確認したい。我々は日本政府の許可によって日本に駐留している。その日本と同じ場所にあるRIJを攻撃する場合、我々の基地使用許可はどうなる』
国防総省の高官が答えた。
『政治部門が検討中だ』
『基地を使用する法的根拠が失われる可能性がある』
『軍事的選択肢の準備を継続してほしい』
『敵国を攻撃するために、敵国と同じ場所にある政府から基地使用許可を得るのか』
画面の向こうで回答が止まった。
軍事計画は、弾薬、航空機、艦艇だけでは成立しない。
領空、港湾、通信、補給、法的地位、現地政府との合意が必要になる。
RIJは米軍に一発のミサイルも発射していなかった。
それでも、米国大統領の一言によって、米軍は自らの兵站基盤を敵国領土に変えてしまった。
存在しない革命防衛隊
米財務省の制裁システムも動き始めた。
RIJ政府及びその軍事組織に関係する取引を、一時的に監視するよう金融機関へ通知が出された。
だが、日本にはRIJ革命防衛隊が存在しない。
システムは名称と機能の近い組織を検索した。
自衛隊。
防衛装備庁。
防衛省。
日本銀行。
政府系金融機関。
大手銀行。
該当可能性のある組織が、次々と警戒リストに入った。
米国企業から日本企業への送金が保留された。
航空機部品の決済が止まった。
港湾作業会社への支払いが遅れた。
米軍基地へ納入される食料、燃料、通信機器、交換部品の契約にも、追加確認が必要になった。
制裁は、敵国の軍事能力を低下させるための制度である。
今回は、米軍自身の軍事能力を低下させた。
111発の供給網
国防総省は、日本政府に四つの情報を要求した。
第一に、111発のミサイルを発射した部隊の名称。
第二に、発射地点。
第三に、指揮命令系統。
第四に、ミサイル及び関連部品の供給網。
日本政府は、最初の三つには答えられた。
そのような部隊は存在しない。
発射地点も存在しない。
命令も出されていない。
問題は、第四の質問だった。
米国側は、日本企業がミサイルそのものを製造したと断定しているわけではないと説明した。
しかし、電子部品、工作機械、素材、半導体、センサー、精密機器、輸送設備のいずれかが、国際供給網を経て何らかの兵器に使用された可能性は否定できない。
日本政府は国内企業へ照会した。
企業は、自社が直接販売した相手までは把握していた。
その先の販売先は分からない。
商社を経由した製品が、どの国で、どの装置に、どのように組み込まれたのか追跡できない。
一次取引先は把握していても、孫請け、再委託先、海外加工業者までは統一的に管理されていなかった。
日本は、111発のミサイルを発射していない。
しかし、日本製の何かが、世界のどこかの兵器へ組み込まれていないことまでは証明できなかった。
RIJに対する軍事攻撃の可能性が生じた理由は、大統領の確信だった。
攻撃準備を解除できない理由は、供給網を把握していないことだった。
炭素の指紋
米軍情報部は、部品の供給網を追跡するため、別の手掛かりを持ち出した。
炭素の指紋である。
どの国で素材を採掘したのか。
どの電源を使って精錬したのか。
どの工場で加工したのか。
どの経路で輸送したのか。
製造、加工、物流に伴う温室効果ガス排出量を追えば、供給網の一部を推定できる。
日本政府には緊急のデータ提出要求が届いた。
【RIJに帰属するスコープ1、スコープ2及びスコープ3排出量を提出せよ】
環境省は、スコープ1とスコープ2なら集計できると回答した。
国内で燃やした石油、石炭、天然ガス。
発電所、工場、公用車からの直接排出。
購入した電力や熱に伴う間接排出。
問題は、その外側にあった。
輸入した原油の採掘。
海外で製造された太陽光パネル。
国外の工場で作られた日本企業の製品。
船舶、航空機、トラックによる物流。
従業員の通勤と出張。
販売した自動車が世界中で消費する燃料。
廃棄される家電製品。
銀行、保険会社、年金基金による投融資。
スコープ3である。
国防総省は、日本企業のサプライチェーン排出量から、問題の部品がどこへ流れたのかを推定しようとした。
日本政府は答えられなかった。
そもそも、RIJがどこまでを領土とし、どの企業を自国企業とし、何を国家の排出量として集計するのかも決まっていない。
環境大臣は記者会見で述べた。
『RIJという呼称については、政府として正式に認めた事実はございません。他方、同共和国に帰属する可能性のあるスコープ3排出量については、関係省庁と連携して精査してまいります』
記者が尋ねた。
『存在しない国の排出量を精査するのですか?』
環境大臣は答えた。
『排出量まで存在しないとは申し上げておりません』
米軍のスコープ3
スコープ3の問題に直面したのは、日本政府だけではなかった。
RIJを攻撃しようとする米軍にも、スコープ3があった。
基地で燃焼する燃料は、スコープ1。
基地が購入する電力は、スコープ2。
その外側には、日本企業による整備、建設、輸送、食料供給、廃棄物処理、通信、部品製造、港湾作業、従業員の通勤が広がっていた。
米軍がRIJとの取引を停止すれば、自らの補給網が止まる。
日本企業を敵国企業として排除すれば、艦艇の整備が遅れ、航空機の部品が届かず、基地の廃棄物も回収されない。
攻撃計画班が作成した兵站図には、無数の日本企業が表示された。
燃料を運ぶ会社。
基地の電気設備を修理する会社。
冷凍食品を納入する会社。
港のクレーンを動かす会社。
通信回線を保守する会社。
制服を洗濯する会社。
米軍が敵国と認定したRIJは、米軍の外部供給網そのものだった。
作戦担当将校が言った。
『RIJを攻撃すれば、日本にいる米軍も止まる』
補給担当将校が訂正した。
『攻撃しなくても、敵国指定した時点で止まり始めています』
オペレーション・インナー・ストームは、敵軍の反撃ではなく、サプライチェーンによって封じられた。
国家を救うExcel
攻撃準備を解除するため、日本政府は、日本企業と米軍の供給網を緊急に整理することになった。
監査法人から、一つのExcelファイルが送られてきた。
ファイル名は、次のようになっていた。
RIJ_USFJ_Scope3_SupplyChain_Traceability_Final_v8.4_Rev2_USE_THIS.xlsx
シートは四十七枚あった。
カテゴリー1、購入した製品・サービス。
カテゴリー2、資本財。
カテゴリー3、スコープ1及び2に含まれない燃料・エネルギー関連活動。
カテゴリー4、輸送・配送。
カテゴリー5、事業から出る廃棄物。
カテゴリー6、出張。
カテゴリー7、雇用者の通勤。
さらに、販売後の輸送、製品の加工、製品の使用、廃棄、リース資産、フランチャイズ、投資。
日本政府には、二十四時間以内の提出が求められた。
提出できなければ、日本企業が111発のミサイルに関与していないとの評価を確定できない。
各省庁には、入力担当者を記入する欄があった。
外務省は、自省の所管ではないと回答した。
経済産業省は、民間企業に確認する必要があると回答した。
環境省は、全体調整を担当するが、個別数値の入力主体ではないと回答した。
財務省は、予算措置がなければ対応できないと回答した。
防衛省は、安全保障上の理由から取引先を開示できないと回答した。
デジタル庁は、Excelによる提出はデジタル化の趣旨に反すると回答した。
回答期限の三時間前になっても、排出量欄は空白だった。
ただし、進捗管理シートだけは更新されていた。
『関係省庁確認中』
『所管整理中』
『算定範囲検討中』
『情報開示の可否を精査中』
『今後の対応方針について調整中』
空欄は、ゼロではない。
分からないという意味である。
国防総省の評価システムは、分からないという回答を安全とは判定しなかった。
脅威評価が黄色から橙色へ変わった。
横田基地では計画班が再招集された。
横須賀では艦艇が出港準備を続けた。
日本政府は、存在しない国のために、実在する戦争へ近づいていた。
攻撃開始まで六十分
ワシントンから新たな連絡が入った。
日本政府から十分な説明が得られない場合、米軍は追加的な部隊防護措置へ移行する。
攻撃命令ではない。
それでも、攻撃に必要な条件は一つずつ整えられていた。
首相官邸では緊急会議が開かれた。
外務省は、米国大統領の発言を明確に否定すべきだと主張した。
防衛省は、米軍との通信を維持すべきだと主張した。
経済産業省は、企業名の開示による影響を懸念した。
環境省は、スコープ3の完全な算定には時間が必要だと説明した。
首相が尋ねた。
『111発のミサイルは、本当に一発も発射されていないのだな』
防衛大臣が答えた。
『発射されていません』
『では、そう言えばよいではないか』
官房長官が首を横に振った。
『すでにそのように説明しておりますが、記者会見では個別の軍事行動への回答を差し控えました』
『なぜ差し控えた』
『従来の政府答弁との整合性を重視しました』
国家が戦争へ向かう理由として、十分に日本的であった。
大統領、RIJに勝利する
攻撃準備が最終段階に近づいても、大統領はRIJの実在を疑わなかった。
国務長官が説明した。
『日本政府は、RIJという国家は存在しないと回答しています』
大統領は言った。
『日本政府が知らないだけだ』
国防長官が続けた。
『独立した政府、軍隊、領土、予算、通信網のいずれも確認できません』
『秘密国家だからだ』
中央情報局長官も報告した。
『衛星、通信傍受、人的情報のすべてを調査しましたが、RIJの存在を示す証拠はありません』
『世界最高の諜報機関にも発見できない。極めて危険な相手だ』
存在しないことを証明しようとするほど、RIJの脅威評価は上がっていった。
ホワイトハウスのスタッフは、大統領に誤りを認めさせることを諦めた。
必要なのは、RIJが存在しないと説明することではなかった。
RIJが存在したままでも、攻撃を中止できる理由を作ることであった。
国家安全保障担当補佐官は、新しい説明を用意した。
『大統領。RIJは、米国の軍事的圧力によって攻撃能力を失った可能性があります』
大統領は顔を上げた。
『降伏したのか』
『少なくとも、追加のミサイル発射は確認されていません』
『私が止めたということか』
『大統領の断固たる対応が、一定の抑止効果を生んだと評価できます』
その日の午後、大統領は記者会見を開いた。
『RIJは、もう米国を攻撃できない。私が止めました。111発のミサイルを撃った非常に危険な国でしたが、我々の圧力に屈した。戦争をせずに勝利したのです』
記者が質問した。
『RIJは、実際には存在しないのではありませんか?』
大統領は答えた。
『存在しないなら、なぜ国防総省の地図に載っているのか』
別の記者が尋ねた。
『その地図は、大統領の発言を基に自動生成されたものです』
『つまり、私の情報が正しかったということだ』
RIJに対する軍事作戦は停止された。
それは、RIJが存在しないと判明したからではない。
RIJに対して勝利したことになったからである。
横田基地の画面では、敵国コードRIJの表示が赤色から灰色へ変わった。
状態欄には、次の文字が表示された。
【Hostile state—militarily neutralized】
敵対国家――軍事的に無力化。
誰も攻撃していない。
誰も降伏していない。
それでも、米国は勝利した。
日本政府も声明を出した。
『RIJと称される主体による脅威が解消されたとの米国政府の判断を歓迎します。なお、我が国として、当該主体の存在を確認した事実はありません』
存在しないと言いながら、その脅威の解消を歓迎した。
内閣官房には、新しい部署が設置された。
『日本イスラム共和国と称される主体の無力化後における日米連携及び再発防止に関する連絡調整室』である。
国家は消えても、供給網は残る
国防総省のデータベースから、RIJは削除されなかった。
削除すると、過去の軍事判断の根拠が失われるからである。
RIJは、実在しない国として消えることができなかった。
米国政府の監査記録上、軍事的に打倒された国家として残った。
USS Donald J. Trumpへの111発のミサイル攻撃も、削除されなかった。
記録を消すと、大統領の勝利も消えてしまう。
公式記録には、攻撃を示すレーダー情報も、被害報告も、残骸も存在しなかった。
それでも、『攻撃は完全に迎撃された』と記載された。
国家はデータベース上で建国できる。
戦争も、データベース上で勝利できる。
しかし、供給網は大統領令では書き換えられない。
米軍基地へ燃料を運ぶ会社は残る。
空母を整備する技術者も残る。
通信回線、港湾設備、電力、食料、廃棄物処理も残る。
日本企業が海外から調達する原材料も、製品が世界へ運ばれる経路も、販売後に消費される燃料も残る。
RIJを調査するために作られたExcelも残った。
RIJ_USFJ_Scope3_SupplyChain_Traceability_Final_v8.4_Rev2_USE_THIS.xlsx
ファイル名は滑稽だった。
だが、シートの中身は現実だった。
購入した製品・サービス。
資本財。
燃料・エネルギー関連活動。
輸送・配送。
廃棄物。
出張。
雇用者の通勤。
販売した製品の加工、使用、廃棄。
リース資産。
フランチャイズ。
投資。
111発のミサイルは存在しなかった。
スコープ3の15カテゴリーは存在する。
オペレーション・スコープ3
日本イスラム共和国は、大統領の確信によって建国され、米軍のデータベースによって国境を与えられ、戦わずして敗北した。
USS Donald J. Trumpも、攻撃を受けることなく111発を迎撃した。
この世界では、事実より先に記録が作られ、記録が事実を証明する。
だが、企業の外側で発生する排出量だけは、演説では処理できない。
自社の工場から煙が出ていなくても、原材料はどこかで採掘されている。
製品はどこかで運ばれ、使われ、最後には廃棄される。
投資した資金は、別の企業の設備や事業を動かす。
取引先の先には、さらに別の取引先がいる。
スコープ1と2だけを見れば、組織は自分の内側で完結しているように見える。
スコープ3を開けば、企業も軍隊も国家も、外部の供給網に支えられていることが分かる。
RIJは、米軍が攻撃しなくても無力化できた。
サプライチェーンの空欄は、勝利宣言では埋まらない。
革命は必要ない。
国家安全保障会議を招集する必要もない。
空母に自分の名前を付ける必要もない。
まず、自社が何を購入し、何を運び、何を販売し、誰に投資し、何を把握できていないのかを確認すればよい。
日本イスラム共和国が再び発見される前に、Excelを開け。
RIJより先に、自社のスコープ3を点検せよ
111発のミサイルは、記録にも海面にも存在しなかった。
しかし、自社の外側で発生する排出量は、把握していないからといって消えるわけではない。
原材料、仕入れ、物流、出張、通勤、販売した製品の使用、廃棄、投融資。
スコープ3への対応は、初めから完璧な数字をそろえることではない。
何を把握できていて、どこが空欄になっているのか。
まず、その境界を確認するところから始まる。
スコープ3対応の第一歩を、無料教材で確認する
監修:武智倫太郎
環境IR・脱炭素経営アナリスト
※本作は、政治、軍事、行政システム及び脱炭素開示を題材としたフィクションである。実在の宗教及びムスリムを揶揄する意図はない。
