日本イスラム共和国②――ゴースト大統領の千発報復
死んだ大統領は、デッドマン命令を起動する
文・武智倫太郎
2026年7月10日、ドナルド・トランプ大統領は、自分がイランによって暗殺された場合に備え、1000発のミサイルを発射する命令をすでに出したと発表した。
その前々日には、イランを『日本イスラム共和国』と呼び、同国が米海軍の原子力空母に111発のミサイルを発射したとも述べていた。
さらに大統領は、敵が攻撃すれば米国は十倍強く反撃すると説明していた。
1000発。
111発。
10倍。
孫正義理論と同じで、数字だけは、すべてそろっていた。
翌7月11日、トランプ大統領の盟友であるリンゼー・グラム上院議員が、短期間の急病により71歳で死去した。
グラムは、かつてトランプを激しく批判し、その後は最も忠実な盟友の一人となった人物である。イランへの強硬策を支持し、米国の軍事力を積極的に用いるべきだと主張し続けてきた。
大統領は当初、グラムを真の愛国者と呼び、その死を悼んだ。
ここまでは現実である。
その七分後、二つ目の投稿が表示された。
リンゼーの死は、私に対する暗殺が成功した動かぬ証拠だ。
奴らは私を狙い、私を殺した。
したがって、私はすでに死んでいる。
ホワイトハウス報道官は、投稿の削除を試みた。
削除には大統領本人の承認が必要だった。
死んだと主張する本人に、削除の承認を求めることになった。
最高に美しいゴースト
翌朝、大統領はホワイトハウスの記者会見室に現れた。
自分の足で歩き、演壇に立ち、マイクの位置を直した。
少なくとも、肉体的には生きていた。
大統領はカメラを見つめた。
『リンゼーの死は、私に対する暗殺の動かぬ証拠です。彼は私の盟友であり、私の政策を支え、私の戦争を支持していた。リンゼーを殺すことは、私を殺すことと同じです』
記者席から声が上がった。
『大統領。あなたは現在、生きて、そこに立っておられますが』
大統領は質問者を哀れむように見た。
『あなたにそう見えているだけです』
『どういう意味でしょうか』
『RIJが見せている幻影です』
RIJ。
Republic Islam Japan。
日本イスラム共和国。
本来なら英文として成立していなかったが、大統領が命名したため、米国防総省のデータベースには正式な敵国コードとして登録されていた。
『本物の私は、リンゼーが死んだ瞬間に絶命しました。今ここにいる私は、国家の危機を救うために動いているゴーストです。おそらく史上最高に美しいゴーストでしょう』
記者が重ねて尋ねた。
『大統領は、ご自身が死亡した状態で職務を続けているとお考えなのですか』
『考えているのではありません。知っているのです』
大統領は胸元を指さした。
『肉体が動いているからといって、生きているとは限らない。ワシントンには、肉体が動いていても政治的には死んでいる人間が大勢います。私はその反対です。肉体は死んでいますが、政治的には誰よりも生きている』
記者会見は予定を三十分超過した。
ニューヨーク株式市場では、医療、生命保険、防衛、葬儀関連企業の株価が同時に乱高下した。
死人に国際法は適用されない
会見終了後、国家安全保障担当補佐官が大統領執務室へ駆け込んだ。
『大統領、ご自身が死亡しているという発言を撤回してください。市場だけでなく、軍の指揮系統が混乱しています』
大統領は首を横に振った。
『撤回しない。私は死んだ』
『しかし、目の前で会話をしています』
『ゴーストだからだ』
『イランへの報復命令は、大統領が実際に暗殺された場合を想定したものです』
『私は暗殺された。条件は満たされた』
『亡くなったのはグラム上院議員です』
『リンゼーは私の盟友だった。私の一部だった。彼が死んだのだから、私も死んだ。それほど難しい話ではない』
補佐官は、法律顧問から渡された書面を開いた。
『大統領が死亡すれば、修正第25条に基づき、バンス副大統領が大統領になります。軍事行動を決定するのもバンス大統領です』
『私は職務を続けている』
『死亡と在職を同時に成立させることはできません』
『できる。今、実際にそうなっている』
『それから、死者であっても、その命令を実行する国家には国際法が適用されます』
大統領は椅子にもたれた。
『死人に国際法は適用されない』
『国際法は、個人ではなく国家の行為にも適用されます』
『それなら問題ない。私は国家ではない』
補佐官は答えを失った。
大統領の中では、すべての論点が解決していた。
生存ステータス、死亡
国防総省の脅威情報処理システムは、大統領の記者会見をリアルタイムで解析していた。
自然言語処理モジュールは、大統領本人による死亡申告を高信頼度の一次情報として処理した。
国家指揮権データベースが更新された。
【対象】
ドナルド・J・トランプ大統領
【生物学的状態】
生存
【本人申告による状態】
死亡
【公的職務】
現職
【職務形態】
ゴーストとして継続中
【最高指揮権】
有効
【認証トークン】
有効
【修正第25条による承継】
保留
【保留理由】
対象者が継続的に命令を発出しているため
統合作戦センターの情報将校は、画面を三度見直した。
若い将校が上官に尋ねた。
『大統領のステータスが死亡になっています。修正第25条第1節に基づき、バンス副大統領が大統領になるべきではありませんか』
上官はホワイトハウスから届いた訓令を確認した。
『権限移譲は行わない』
『なぜですか』
『大統領の死亡は、報復命令を起動する目的では有効だが、大統領職を承継する目的では無効である、というのがホワイトハウス法律顧問の暫定見解だ』
若い将校は、もう一度画面を見た。
『つまり、大統領は、権限を失うには生きているが、ミサイルを発射するには死んでいるのですか』
『そういうことになる』
『法的に、死者に軍の最高指揮権はあるのでしょうか』
『システム上はある。パスワードも変更されていない』
生体認証装置も、大統領本人の顔、声、指紋を正常に認識していた。
肉体は生存している。
本人は死亡を申告している。
指揮権は有効である。
システムは、これを矛盾とは判定しなかった。
すべての欄に、何らかの値が入力されていたからである。
デッドマン命令
次に、システムは大統領が前日に発表した報復命令を検索した。
【発動条件】《イラン政府が、現職の米国大統領を暗殺または暗殺しようとした場合》
対象となる大統領の死亡ステータスは、本人申告により成立している。
暗殺主体は確定していなかった。
しかし、大統領は会見で『奴ら』と述べていた。
システムは、『奴ら』が誰を指すのか解析した。
候補1、イラン・イスラム共和国。
候補2、日本イスラム共和国、RIJ。
候補3、グラム上院議員を死亡させた正体不明の病原体。
大統領が直近一週間に敵対的発言を行った頻度から、候補1と候補2が優先された。
報復対象として、イランとRIJが登録された。
続いて、システムは発射数を計算した。
大統領が事前命令で指定した数は1000発。
一方、大統領が公表した報復原則は、敵が攻撃した場合には十倍強く反撃するというものだった。
RIJが発射したとされるミサイルは111発。
111掛ける10は、1110。
システムは二つの命令を比較した。
【事前報復命令】1000発
【十倍報復原則】1110発
より強い報復を求める大統領の過去の発言傾向を考慮し、1110発が採用された。
存在しない国が発射した、確認されていない111発のミサイルに対し、すでに死んでいると自己申告した大統領が、実在しないデッドマン装置を通じて1110発で報復する。
すべてが、ワシントンのデータベース内で整合していた。
USSドナルド・J・トランプ
RIJが攻撃したとされる空母は、USS Donald J. Trump、CVN-72であった。
かつてUSS Abraham Lincolnと呼ばれていた艦である。
艦名は変わったが、船体番号は変わっていなかった。
攻撃の映像はなかった。
レーダー記録もなかった。
残骸も、損傷も、負傷者もいなかった。
大統領は、被害がないことを空母の圧倒的な防御能力の証拠と解釈していた。
国防総省のシステムも、攻撃記録を次のように処理していた。
【敵ミサイル発射数】111
【迎撃数】111
【未迎撃数】0
【物的証拠】なし
【証拠が存在しない理由】完全迎撃されたため
迎撃の証拠がないことは、迎撃が完璧だった証拠になった。
RIJ領内の米軍
問題は、RIJの位置だった。
国防総省の地図上で、RIJの領土は日本列島と完全に重なっていた。
横田、横須賀、嘉手納、岩国、佐世保。
在日米軍の主要施設は、すべて敵国領内にあった。
1110発の報復目標を自動生成すると、候補地点には日本の自衛隊基地、官庁、港湾、通信施設、電力網とともに、米軍自身の基地が表示された。
USS Donald J. Trumpも横須賀に寄港すれば、RIJ領内の軍事目標として再登録される可能性があった。
空母への攻撃に報復するため、その空母を攻撃対象に含める。
計画担当者は、目標リストを手作業で修正し始めた。
削除した目標の代わりに、システムは別の目標を補充した。
一つ消すたび、新しい目標が現れた。
大統領が1110発と指定した以上、1110個の目標または目標配分を埋めなければならなかった。
空欄のままでは、作戦計画を保存できない。
霊的実体を保全せよ
横須賀基地の第7艦隊司令部に、新たな暗号電文が届いた。
《米軍各部隊は、RIJ領内において、合衆国大統領の霊的実体及び最高指揮権の継続性を保全せよ》
法務官は文章を読み返した。
『霊的実体とは何だ』
通信将校が答えた。
『定義は添付されていません』
『遺体はどこにある』
『ホワイトハウスで記者会見をしています』
『では、生存しているのではないか』
『本人は死亡していると申告しています』
『我々は何を保全すればよい』
『最高指揮権です』
『誰から』
『最高指揮官本人からではないでしょうか』
法務官は窓の外を見た。
基地の外には、日曜日の日本の街並みが広がっていた。
買物袋を提げた人々が駅へ向かい、自転車に乗った子供が横断歩道を渡っていた。
日本イスラム共和国の革命防衛隊は、どこにも見当たらない。
111発のミサイルも飛んでこない。
ホワイトハウスには、生きた肉体を持ち、死亡を主張する大統領がいる。
米軍はその命令を待ちながら、存在しない敵国の領内で、実在する同盟国を攻撃する準備を進めていた。
国防総省の画面では、赤い警告が点滅していた。
【最高司令官:死亡】
【最高司令官:職務執行中】
【デッドマン命令:起動】
【最終発射承認:最高司令官の入力待ち】
死者本人による最終承認が必要だった。
システムは、その矛盾をエラーとは判定しなかった。
最高司令官の仕様であった。
