ド文系でもわかるオーディオ批評(5):一般家庭でできる『モニタリング耳』の育て方
──いい音を求めると、耳は退化する
文・武智倫太郎
前回、なぜプロは有線しか使わないのか、という話をした。理由は単純だ。プロは『気持ちいい音』を聴いていない。間違いに気づくための音を聴いている。
ここで必ず出てくる疑問がある。『それはプロだからできる話ではないのか』『一般家庭では無理なのではないか』という疑問だ。
結論から言う。思っているより簡単にできる。なぜなら、難しいのは機材ではなく、姿勢だからである。
モニタリング耳とは何か
まず言葉を整理する。
モニタリング耳とは、音楽を楽しむための耳ではない。音の異常、歪み、違和感、欠落に気づく耳である。これは才能ではない。訓練でしか身につかない。
そして重要なのは、この能力が音楽専用ではない点だ。編集者が原稿の違和感に気づく感覚、プログラマーがバグに気づく感覚、研究者がデータの異常に気づく感覚。全部、同じ種類の能力である。
要するに、これは『趣味』ではなく『検知能力』だ。気分を良くする装置ではなく、破綻を見つける装置である。
まずやるべき、たった一つのこと
一般家庭でモニタリング耳を育てる第一歩は、これだけだ。有線のモニタリングヘッドフォンを一つ用意する。高級である必要はない。重要なのは、Bluetoothを使わない、ノイズキャンセルを使わない、音を盛らない。この三点だけである。
ここで多くの人が勘違いする。『いいヘッドフォンを買えば、耳が良くなる』。逆だ。耳を鍛えるとき、音はつまらなくなる。これが最初の関門である。
なぜなら、モニタリングとは『気持ちよくさせない』ための技術だからだ。ワイヤレスや補正機能は、あなたの耳の代わりに判断してくれる。その瞬間、あなたの耳は失業する。
『いい音』を探し始めた瞬間、失敗する
モニタリング耳の訓練で、やってはいけないことがある。それは感動しようとすることだ。
感動は、脳内の『補正アルゴリズム』が最大出力になる状態である。見たいものを見て、聞きたいものを聞いて、都合よく繋げてくれる。訓練とは真逆だ。
代わりにやるのは粗探しである。声が近すぎないか、サ行が刺さらないか、低音が膨らんでいないか、音が一塊になっていないか、定位が安定しているか。『好きか嫌いか』はどうでもいい。『おかしいか、おかしくないか』だけを見る。
冷酷に聞こえるかもしれないが、プロの現場ではこれが普通だ。気持ちよさは最後に作る。最初に求めると崩れる。
音楽より先に、音声を聴け
ここがド文系向けの最大ポイントだ。モニタリング耳の訓練に、いきなり音楽を使う必要はない。寧ろ避けた方がいい。
代わりに使うのは、ニュースのアナウンサーの声、YouTubeの雑談配信、Zoom会議の音声、自分の録音した声である。理由は簡単だ。日常音は誤魔化しが効かない。音楽は演出で誤魔化せるが、人の声は誤魔化せない。
声には逃げ場がない。録音が悪ければすぐ分かる。圧縮が強ければすぐ分かる。歪めばすぐ分かる。つまり、声は『テスト信号』である。音楽より先に、まず人間の声を聴けばいい。
差分を聴け。感想は禁止
次にやるのは聴き比べだ。同じ音源を、スマホスピーカー、ワイヤレスイヤホン、有線モニターヘッドフォンで聴く。
ここでも感想は禁止である。代わりに言語化するのは、何が消えたか、何が強調されたか、何が丸められたか。この三つだけだ。これは耳のデバッグ作業である。
多くの人は『良い悪い』で語ろうとするが、それは評価であって検知ではない。モニタリングは評価ではなく差分抽出である。差分を見つけられるようになった瞬間、耳は一段階上がる。
なぜ高価なハイレゾは不要なのか
ここで、オーディオマニアが怒りそうな話をする。モニタリング耳の訓練に、高価なハイレゾ音源は必要ない。寧ろ邪魔になる。
ハイレゾは気持ちよくする。欠点を包む。判断を代行する。そういう方向に働きやすい技術だからだ。訓練の目的は欠点を見つけることである。包まれた欠点は見つからない。
多少粗のある音源、中途半端な配信品質、古い録音。その方が耳はよく働く。荒れた道の方が足腰が鍛えられるのと同じだ。滑らかな床で転ばない歩き方は身につかない。
『居場所のない音楽』が最高の教材になる
象徴的な話をしておく。
オーディオマニアは、ジャンルごとに機材を選びたがる。クラシック向け、ジャズ向け、ボーカル向け。つまり『正解』を買う。だが、モニタリング耳の訓練に向いているのは、どのジャンルにも最適化されていない音楽だ。
居場所のない音楽、評価軸が定まらない音楽。そういう音は、再生環境の癖を容赦なく暴く。ジャンルの約束事に守られていない音は、再生機器の嘘を隠してくれない。
訓練の目的は最適化ではない。露呈である。隠れた癖を表に出す音を使え。
モニタリング耳は、人生にとって不便である
最後に、正直なことを書いておく。
モニタリング耳が育つと、世界は少し生きづらくなる。雑な音に気づく。雑な編集に気づく。雑な説明に気づく。気づかなくていいことに、気づいてしまう。
だが、それが代償だ。代償なしに検知能力は手に入らない。逆に言えば、気づけないまま生きる快適さは、誰かがあなたの代わりに判断してくれている快適さでもある。
結論
モニタリング耳とは、世界が『おかしくなった瞬間』に気づく耳である。
いい音を求めると、耳は退化する。間違いを聴こうとすると、耳は育つ。
これはオーディオの話ではない。判断を他人や機械に委ねないための訓練の話だ。
次に音が『気持ちよくない』と感じたら、それは失敗ではない。訓練が始まった合図である。
そして、ここまで読んだ人は気づくはずだ。モニタリング耳の訓練に必要なのは『良い音』ではない。『正解のない音』だ。ジャンルの約束事に守られていない音、完成度で欠点を隠してくれない音、再生環境の癖をそのまま露呈させる音。そういう『居場所のない音楽』だけが、こちらの耳の甘えを容赦なく破壊する。
次回予告
次回は、その『居場所のない音楽』の代表として、Pink Floydの『Atom Heart Mother』を取り上げる。シド・バレット脱退後の迷走期、プログレにもクラシックにもロックにも居場所がない、ジャンルの迷子。だからこそ、この曲はモニタリング耳の最終試験になる。高価なハイレゾである必要すらない。中途半端な配信音源で十分だ。寧ろ、その粗さまで含めて、再生環境の嘘が全部バレる。
つづく…
