ド文系でもわかるオーディオ批評(4):なぜプロは有線しか使わないのか
文・武智倫太郎
ワイヤレスイヤホンが当たり前になった時代に、なぜプロの現場からBluetoothは消えたのか。
スタジオ、放送局、映画音響の現場で使われているのは、いまも変わらず有線のモニタリングヘッドフォンである。
それは音質の問題ではない。『いい音』を聴くためではなく、間違いに気づく責任を放棄しないためだ。
本稿では、プロが有線しか使わない理由を、技術論ではなく『判断と姿勢』の問題として整理する。これはオーディオの話であり、同時に、仕事、文章、AI時代の意思決定の話でもある。
ワイヤレスイヤホンが当たり前になった。
ノイズキャンセル、空間オーディオ、AI補正。何も考えなくても『それっぽく良い音』が出る。技術としては見事だし、日常用途として否定する理由もない。
では、ここで一つ、素朴だが重要な疑問を投げてみたい。
本当に音を仕事にしている人たちは、何を使っているのか。
答えは、驚くほど地味である。
スタジオレコーディング、ミキシング、マスタリング。放送局、映画音響、現場の音響技師。彼らが使っているのは、ほぼ例外なく有線のモニタリングヘッドフォンだ。
Bluetoothではない。ノイズキャンセルも切られている。音は決して『気持ちよく』ない。
なぜか。
プロは『いい音』を聴いていない
まず、決定的な勘違いを一つ正しておく。
プロは『いい音』を聴くためにモニターヘッドフォンを使っているわけではない。寧ろ逆だ。プロが必要としているのは、『間違いに気づける音』だけである。
録音現場や編集作業では、音楽を楽しんでいる暇はない。彼らが確認しているのは、ノイズは混じっていないか、歪みは出ていないか、定位は崩れていないか、低音が膨らみすぎていないか、声のサ行が刺さっていないか、といった点だ。
これらは、『気持ちよく補正された音』では、ほぼ確実に隠されてしまう。
ワイヤレスが仕事にならない理由
ワイヤレスイヤホンがプロ用途に向かない理由は、技術的には単純だ。ここではド文系向けに整理する。
1.音は必ず遅れる
Bluetoothは必ず音が遅れる。これは仕組み上、避けられない。
人間の耳と脳は、数ミリ秒のズレでも無意識に違和感を覚える。音楽鑑賞なら誤魔化せるが、仕事では誤魔化せない。
ズレた定規で設計はできない。
2.音は必ず削られる
ワイヤレスは、音をそのまま送っていない。情報を間引き、不要そうな音を消し、耳障りな成分を丸める。そうして『聴きやすい音』を作っている。
だが、プロにとって重要なのは、まさにその耳障りな音そのものだ。失敗は、だいたい不快な音として現れる。
3.不安定な道具は仕事にならない
バッテリー切れ、接続不良、電波干渉。日常では些細なトラブルでも、現場では致命傷になる。
有線は古いのではない。失敗しないための技術なのである。
『プロ=音にうるさい人』ではない
ここで誤解されがちだが、プロは音マニアではない。
彼らは、音楽を味わいたい、感動したい、良い音に包まれたい、とは思っていない。彼らが求めているのは、自分の判断が正しいかどうかを確認できる環境だけだ。
だから音は乾いている。色気がない。冷たい。粗が目立つ。
モニタリングヘッドフォンの音が『つまらない』と感じるのは、それが正しく機能している証拠でもある。
有線を使うという態度
ここで、このシリーズの核心に戻る。
第1話で述べた『iPhone耳』。第3話で触れた『標準化された音による感覚の縮退』。ワイヤレスは『考えなくて済む音』を提供する。有線モニターは『考えざるを得ない音』を突きつける。
違いは音質ではない。姿勢の違いだ。
なぜこの話はオーディオの話に留まらないのか
プロが有線しか使わない理由は、音楽のためだけではない。
失敗に気づく。違和感を放置しない。判断を機械に委ねない。これは態度の問題である。
この態度は、文章を書くことにも、仕事をすることにも、AIと付き合うことにも、そのまま当てはまる。
結論
ワイヤレスは快適さの技術であり、有線は責任を引き受けるための技術である。
プロが有線しか使わないのは、音にうるさいからではない。自分の判断を他人に預けないためである。
次回は、その『プロの耳』を一般家庭でどうやって育てるのかを考える。高価な機材も、特別な才能も要らない。
必要なのは、気持ちよくならない勇気だけだ。
(つづく)
