和製カタカナ外来語が日本を滅ぼす(2)
第3章 英語のまま覚えた方が速い理由
1.プログラミング教育が示す『原語の即効性』
プログラミングを学ぶ学生が最初に出会うのは、『for』、『if』、『function』といった基本構文である。ところが日本では『日本語に優しく』という甘言のもと、これを撫子(『なでしこ』という日本語プログラミング言語)風に置き換える狂気の試みが繰り返されてきた。多くの人は、そんな言語が実在することすら知らないだろう。だが残念ながら、現実に存在するのだ。
撫子プログラミング言語では、コードは次のように書かれる。
3回、表示する (for → 繰り返す)
もしA=10ならば… (if → もし~なら)
手順 足すとは…ここまで (function → 手順)
一見すると『分かりやすい』と錯覚する人もいるかも知れない。しかし、もしここで『なるほど便利だ』と頷いてしまったなら、それは既に重症の英語アレルギー、或いは、論理的思考拒否症候群の末期症状である。分かりやすいと思った瞬間に、自分はプログラマーには向いていないと悟るべきだ。
なぜなら、本来『for』は『〜のために/繰り返し』、『if』は『もし〜なら』、『function』は『関数・機能』を意味する。いずれも生活言語と直結する単語であり、英語のまま学べば日常語から論理思考へと一歩で直結できるからだ。
ところが『繰り返す』『もし』『手順』といった日本語構文に逃げ込むとどうなるか。世界中の英語ベースの資料・サンプルコード・プログラミングQ&Aサイトの Stack Overflow の回答との接点が切り落とされるのだ。結果は明白である。『日本語言語の文法』+『実務用英語の文法』という二重学習コストが発生し、教育効率は著しく低下する。
要するに、『フォー文/イフ文/ファンクション』方式と同じく、撫子風の『繰り返す/もし/手順』方式もまた、英語アレルギーと論理的思考拒否症候群を温存どころか増幅させ、結果として国際接続性を自ら切り捨てる致命的な罠となるのである。
日本語プログラミング言語開発という狂気
私はマシン語やアセンブラの時代からコンピュータを扱ってきた、所謂、ゼッパチ世代だ。当時はCPUやレジスタ、メモリの挙動を直接理解していなければプログラムなど書けなかった。だが、BASICや、C言語などの登場によって『CPUの中身を完全に理解しなくても、初歩的なプログラムが書ける』時代が到来した。
その後、Java や Python をはじめ数十の高級言語が乱立し、職務経歴書には『経験言語リスト』を箇条書きするのが常態化した。しかし実務において本当に問われるのは『どの言語を触ったか』ではない。条件分岐・繰り返し・関数化といった抽象的枠組みを理解しているかどうか、そこにこそ力量の差が現れる。
細かく言えば、テーブルやデータベースの概念、アルゴリズムの基本、商品企画やユーザー要求の把握、デバッグの基礎、著作権やセキュリティへの理解、さらにはプロジェクト管理まで、必要な知識や経験は幾らでもある。だが、これらはプログラミング固有の特殊技能ではない。寧ろ広義の意味でのデスクワーク一般に通じる基礎的スキルに過ぎない。
デバッグと聞くと、コンピュータに特有の専門作業に思えるかも知れない。だが実際には『自分の仕事に不具合がないかを点検する』ことに他ならない。これはプログラマーに限らず、経理や法務、さらには調理師や塗装業者であっても同じである。
アルゴリズムも同様だ。この言葉には『広義』と『狭義』の二つの意味がある。広義では『物事を解決するための手順や段取り』を指し、料理のレシピや掃除の手順、運動会の進行表まで含まれる。誰もが日常で自然に使っている思考の道具である。対して、コンピュータ科学における狭義のアルゴリズムは『入力を受け取り、明確な手順で処理し、出力を返す仕組み』を意味し、数学的な厳密さや再現性、効率性が要求される。
ところが、日本語で『アルゴリズム』とカタカナ化された瞬間、それは狭義のプログラミング用語に押し込められ、広義の意味がほとんど忘れ去られてしまった。結果として『段取りや効率的な思考もアルゴリズムである』という視点が消え、思考の射程そのものが矮小化しているのである。
小学校の運動会を思い浮かべればよい。校長の退屈な挨拶に始まり、時間通りに競技を進め、事故や怪我があれば即座に対応し、予算の範囲に収める。これはまさにプロジェクト管理(PM)の実践である。さらにPMにはステークホルダーマネジメントも含まれるが、近隣住民からの騒音苦情への対応は、発電所建設での住民対策と本質的に変わらない。
プログラミングを特別視する必要はない。世の中の仕事は、規模や道具が異なるだけで、すべて同じ構造を持っている。計画を立て、手順を整理し、実行し、点検し、修正することの繰り返しでしかない。経理や法務、塗装や調理、イベント運営から大規模開発まで、根っこは同じ構造で動いているのだ。
だからこそ、私は論理的思考能力の欠如をリハビリする最も手軽で効果的な手段として、プログラミングを位置づけている。さらに、外国語学習もまた同じ意味で、論理の筋道を再構築する訓練になると考えている。両者はいずれも、抽象と具体を往復し、誤解やバグを修正し、他者に通じる形に整える作業だからである。
つまり、私にとってプログラミングと外国語学習は『論理を鍛える二つの杖』である。短期的な成果だけでなく、思考の枠組みそのものを作り直す点で、この二つほど安価で普遍的で再現性の高い訓練法は他にないと確信している。
つまり、プログラミングと外国語学習は『論理を鍛える二つの杖』である。短期的な成果にとどまらず、思考の枠組みそのものを再構築するという点で、この二つほど安価で普遍的で、しかも再現性の高い訓練法は存在しない。
本シリーズ『和製カタカナ外来語が日本を滅ぼす』は、単なる言葉の問題を超え、日本人の思考構造そのものを問い直す試みである。
カタカナ語が概念を劣化させ、教育に二重負担を生み、国際標準から切り離す。その帰結として、AI・プログラミング・外国語学習といった核心分野で、日本は構造的に遅れを取っている。
だが、解決は決して難しくない。原語のまま学び、世界の知と直結すること。そしてプログラミングと外国語という二つの『論理の杖』を使い、思考をリハビリすることこそが最善策である。本シリーズに一貫して流れるのは、この一点である。
言葉を正し、論理を整え、世界とつなぐ。それこそが、日本が『カタカナの殻』を脱ぎ捨て、再び思考力を取り戻すための最善策なのだ。
日本語プログラミング言語開発の失敗例とその本質
条件分岐(if)、繰り返し(for/while)、関数化(function)は、あらゆるプログラミング言語に普遍的に存在する。表記は多少異なれど、思考の筋道は同じだ。したがって『英語を日本語に置き換えれば分かりやすい』という発想は、教育的効果どころか混乱を拡大させるだけである。
にもかかわらず、『if』『for』『function』程度の単語にさえ拒否反応を示す人々のために、日本語プログラミング言語は繰り返し開発されてきた。これは冗談や都市伝説ではない。れっきとした歴史的事実なのだ。
日本語プログラミング言語開発の失敗例とその本質
1.Mind(マインド)
1980年代に登場。日本語的な構文で制御文を書けるよう工夫されていたが、当時すでにC言語とBASICが覇権を握っていたため、互換性のない Mind は即死コース。結局『教育用のオモチャ』で終わった。
2.なでしこ
2000年代に登場し、現在も教育用途では命脈を保っている。『表示する』『繰り返す』といった日本語構文で、初心者にやさしい顔をして近づく。
公式サイト:https://nadesi.com/top/
だが、本格的なソフト開発には全く向かない。国際OSSコミュニティや産業界に広がることは一度もなく、結果は教科書的失敗例となった。
3.ひまわり
『日本語で自然に書けるスクリプト』を掲げて登場。趣味や教育では一定の人気を得たが、英語圏ライブラリとの接続は困難で、開発者人口は右肩下がり。最後は『花は咲けど実はならず』で散っていった。
失敗の本質
一、世界中の資料・ライブラリは英語ベース
日本語独自構文は最初から孤立無援。資源を活用できず、ガラパゴス化まっしぐら。
二、教育用と実務用の乖離
『分かりやすい入口』が、社会に出た瞬間『再学習の急坂』に化ける。入り口で甘やかされ、出口で地獄を見る構造だ。
三、国際的な協調性の欠如
GitHubやStack Overflowは英語圏を基盤に成り立つ文化。そこに日本語プログラミング言語が参加できる余地は最初からなかった。
結局、日本語プログラミング言語は『善意の教育実験』どころか、存在価値ゼロ以下の弊害でしかなかった。学習者に二重負担を強い、誤解を拡散し、世界標準から切り捨てられるという百害あって一利なしの代物である。必要なのは『母語に翻訳された安心感』などという安物の慰めではなく、世界の知的資産をそのまま即時に活用できる英語の即効性である。
2.認知科学が指摘する『二重符号化の罠』
心理学の認知負荷理論が示す典型的な落とし穴がこれだ。
・英語のまま覚える → 意味と直結し、一次記憶で即座に処理できる。
・カタカナで覚える → 『音』+『意味』の二段階処理を強制される。
この余計なステップが、日本のICT教育を根本から蝕んでいる。結局、現場のエンジニアはいずれ英語を直接扱うしかない。カタカナ語は『教育現場を取り繕うための幻影』であり、幻影ゆえに有害なのだ。
3.実務の現場での二重翻訳地獄
マニュアル:英語の公式ドキュメント → カタカナ要約 → 技術者が再び英語に逆翻訳。
会議:御用学者や官僚が『エコシステムを形成』と唱える → 技術者が『要はAPIとデータ流通だな』と脳内で翻訳し直す。
つまり、英語 → カタカナ → 英語。この地獄の無駄サイクルが日常業務に組み込まれている。時間も意味も削られ、残るのは『働いた気分』だけだ。
4.松尾的『AIリテラシー』講座の実態(実際の演出を踏まえてさらに強化)
本来 literacy とは『批判的思考を伴う理解力』を意味する。しかし、松尾豊が展開する『AIリテラシー講座』は、それをまったく逆な方向へすり替えた。
石破総理っぽい演説原稿出力体験
『石破茂が生成AIに演説原稿を学習させれば、最も石破っぽい文章が生成される』──これをあたかも凄い『プロンプトの工夫』として披露する。誰しも予想できる内容を、わざわざ学びに見せる茶番だ。
歴代総理や閣僚を集めたパソコン教室化実演
2025年4月26日、東京大学に石破首相をはじめ城内経済安保担当大臣や防衛大臣らが招かれ、生成AIの体験講座を受講した。その様はまるで小学校のパソコン教室である。生成AIに原稿を学習させ、誰の口調に近いかを体験する茶番がニュースで大々的に報道された。
この体験を『リテラシー教育』として扱うのであれば、その欺瞞性は絶対に許されない。
言語処理の本質である『文脈』『構造』『論理』よりも、『誰の口調かの再現ごっこ』を優先するこの講座。これに参加した国のリーダーたちは、まるでサーカスの見世物を鑑賞した観客のようだった。
『ありきたりなプロンプト』の芸術化
誰でも試せる自己模倣プロンプトを『工夫』として見せる手法は、教育の名を借りた観賞会に過ぎない。
政治家を巻き込んだ見せかけの賢さ演出
マウスのクリックでAIが動くのを見て『目から鱗』と語るのは、一度もゴールを決めた経験のないサッカー選手にゴールのきれいさを絶賛させるような茶番だ。
思考を『操作手順マニュアル化』する罪深さ
『プロンプトの文言を工夫すれば楽しく使えるよ』と教えるなら、それは『理解』ではなく『操作方法』である。しかも、その操作ですら『誰でもできる』レベルなら意味はない。
このように松尾式『AIリテラシー』は、学生も社会人も、そして政治家さえも『AIを体験して拍手する観客』に固定する構造をつくっただけである。AIが社会を変えるかどうかは二の次で、観衆の雰囲気づくりこそが目的であったのだ。
これを『リテラシー』と呼ぶ欺瞞によって、学生も社会人も『学んだ気分』を味わう。しかし実際には、英語論文を読み、AIの仕組みを批判的に理解する力は一切育たない。リテラシーのカタカナ化は、教育の二重負担を増幅し、批判的思考を抜き去る装置へと変質した。
5.まとめ
・英語のまま覚えれば一次理解で済む。
・カタカナを挟めば二重負担が発生する。
・実務では『英語→カタカナ→英語』の往復翻訳が常態化している。
・松尾的『リテラシー講座』は、思考を奪った操作マニュアルでしかない。
結論は単純である。日本人がAI・ICTで世界に遅れる最大要因は、英語を松尾カタカナ語に再包装してから学ばされるという構造そのものにある。
つづく…
武智倫太郎

