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そして誰も育てなくなった 第4話:嫌だカード

名前は感染する。
結衣がノートに書いたその言葉は、すぐに証明された。
満里奈が成人自立支援センターで自分の名前を名乗った翌日、四年二組の子どもたちは、いつもより小さな声で出席を取られた。
立花先生は、出席簿を見て、少しだけ息を吸った。
「佐藤、歩太くん」
「はい」

教室の端末が青く光った。
【登録名と異なる呼称を検知しました】
【授業運営上の必要性を確認しています】

立花先生は端末を見なかった。
「菅野、満くん」
「はい」
「山崎、拓真くん」
「はい」
「森下、結衣さん」
「はい」

端末の青いランプは、呼ばれるたびに点滅した。
だが、先生は一度も見なかった。
それは、大人ができるいちばん小さな反抗だった。
二時間目の総合学習で、子育て連携支援員が来た。
名前は榊原。白いスーツに、雲のピンバッジ。笑顔は、角が丸い定規みたいに整っていた。

黒板に映ったタイトルは【早期家族形成支援】
「みなさんは、まだ小学生です。けれど、未来の家族について早くから考えることは、とても大切です」
スクリーンに、きれいな家族の絵が出た。
父。
母。
子ども。

その下に【ポイント循環モデル】
「十六歳になると、将来家族形成適性の確認が始まります。家庭に残る選択をするためには、将来どのように次の世代を支えるかを考える必要があります」

歩太は鉛筆を握った。
家庭に残るために、未来の子どもを予約する。
そんな言葉が、頭の中で形になった。

榊原は、プリントを配った。
問一:あなたが将来、安心して家族を形成するために必要だと思うことを書きましょう。
問二:家庭と社会に貢献できる子どもを育てるには、どのような心がけが必要ですか。
問三:まだ存在しない未来の子どもに、あなたは何を約束しますか。

歩太は、問三を見つめた。
まだ存在しない子ども。
まだ生まれてもいない。
まだ泣いてもいない。
まだ嫌だとも言っていない。
その子が、もう制度の中に席を用意されている。
歩太は、鉛筆を動かした。
まだ存在しない子どもを、僕の将来設計に使わないでください。

端末が鳴った。
【将来家族形成への不安発話を検知しました】
【家庭連携確認を推奨します】

榊原が歩太の机に近づいた。
「佐藤歩太くん。とても率直な気持ちですね。では、安心表現にしてみましょう」
歩太は黙った。

榊原は、タブレットに表示された変換例を読み上げた。
「【将来について、もう少し学ぶ時間がほしいです】にすると、同じ気持ちでも前向きに伝わります」
「同じじゃありません」
教室が静まった。

榊原は笑顔を保ったまま言った。
「どこが違いますか」
「僕の文には、使わないでくださいって入っています」
「強い否定語彙は、相手を不安にさせることがあります」
「不安になればいいと思います」

青いランプが黄色になった。
歩太は、初めて思った。
不安にさせないことが、いつも正しいわけではない。
帰りたいと言われて不安にならない場所の方が怖い。
痛いと言われて驚かない人の方が怖い。
嫌だと言われて止まれない制度の方が怖い。
その日の放課後、三倍子は学校から泣きそうな顔で帰ってきた。
ランドセルの横に、小さなカードをぶら下げている。
表には、安心ことばカード、と印刷されていた。
「歩太」
三倍子は、初めて兄を本名で呼んだ。
「これ、裏に書いていい?」

カードの表には、こう書かれていた。
【今は気持ちが向いていません】
【少し時間をください】
【別の選択肢を希望します】

歩太は聞いた。
「何を書きたいの?」
三倍子は、小さな声で言った。
「嫌だ」
歩太は、しばらく黙った。
「書こう」
「怒られる?」
「たぶん」
「ポイント下がる?」
「たぶん」
三倍子は、じっとカードを見た。
「じゃあ、強いね」
歩太はその言葉に、少し驚いた。
嫌だ、は悪い言葉ではなかった。
強い言葉だった。
二人は、台所のテーブルでカードの裏に書いた。
嫌だ。
三倍子の字は、少し曲がっていた。
でも、ちゃんと読めた。
母が帰ってきた。
カードを見ると、顔色が変わった。
「学校で書いたの?」
三倍子は身構えた。
「うん」
「怒られた?」
「端末が鳴った」
母は、しばらくカードを見ていた。
それから、三倍子の頭をなでた。
「その字、消さなくていい」
三倍子は驚いた顔をした。
「お母さん、嫌だって言っていいの」
母は少し迷った。
その迷いを、歩太は見ていた。
大人は、答える前に制度の方を見る癖がついている。
言っていいのか。
記録されるのか。
損をするのか。
支援対象になるのか。
その癖が、もう体の中に入っている。
母は、ゆっくり言った。
「言っていい」

端末が鳴った。
【強い否定語彙への肯定を検知しました】
【家庭安心対話モードを開始しますか】

父が帰ってきて、端末を見た。
それから、何も言わずに電源を切った。
家の中が、急に静かになった。
静かすぎて、冷蔵庫の音が聞こえた。
父は、三倍子のカードを見た。
「嫌だ、か」
三倍子はうなずいた。
「お父さんも言える?」
父は苦く笑った。
「言う練習をするよ」
その夜、家族は少し長く話した。
ポイントの話ではない。
将来家族形成の話でもない。
安心対話テンプレートでもない。
母が、子どものころ転んで膝に石が入った話をした。
父が、会社で「無理です」と言えなくなっている話をした。
三倍子が、ゼリーの味が嫌いなのに給食完食ポイントのために飲み込んだ話をした。
歩太は気づいた。
家庭には、ポイントにならない話がこんなにあったのだ。
翌日、古い自動販売機の前に、四人は集まった。
満は、満里奈からはまだ返事がないと言った。
「でも、通知は出た。効いてる」
拓真が言った。
「効いてるって言い方、薬みたいだな」
結衣は、ノートを取り出した。
「名前だけじゃ足りない。次は、言い換えられる前の言葉を集めよう」
ノートの表紙には、学校から配られた標語が印刷されていた。
未来のために、正しく育ちましょう。
結衣は、その下に鉛筆で書いた。
反語彙帳。
「なにそれ」
拓真が笑った。
「制度が言い換える前の言葉の辞書」

結衣は最初のページに、こう書いた。
嫌だは、嫌だ。

三倍子が続けて書いた。
痛いは、痛い。

満が書いた。
帰りたいは、帰りたい。

拓真が書いた。
やめては、やめて。

歩太は、最後に書いた。
沈黙は、同意ではない。

四人と一人の低学年は、しばらくそのページを見た。

これは、辞書だった。
大人が作った国語辞典ではない。
制度に奪われる前の言葉を、人間の側へ引き戻すための辞書だった。
背後から声がした。
「それ、いいノートだな」
八百屋のおじさんだった。
店先のシャッターを半分下ろし、古い帳簿を抱えている。
「見てたの?」
拓真が警戒した。
「見守ってはいない。見ただけだ」
おじさんは笑った。
「昔はな、ポイントの裏側にも、こういう帳簿があった。誰が困っているか、誰があとで払うか、誰の家に赤ん坊が生まれたか。数字だけじゃなくて、事情も書いてあった」

歩太は聞いた。
「おじさん、八百屋じゃないの?」
「今は八百屋だ。昔は地域ポイントの決済基盤を直してた。直した結果、こんな世の中になった」
おじさんは、少しだけ目を伏せた。
「技術は、人間のあいまいさを助けるためにあると思ってた。けど、いつのまにか、人間のあいまいさを消す道具になった」
古い技術者の声だった。
おじさんは、反語彙帳を指さした。
「それは、消さない技術だ。大事にしろ」

その日から、反語彙帳は八百屋の奥に隠されることになった。
野菜の段ボールと、古い帳簿と、壊れたレジスターの間。
シビュラ源内の地図には表示されない場所。
制度の外に、言葉の避難所ができた。

そして誰も育てなくなった 第5話:痛いは、痛いにつづく…

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