ゆっくりと|シロクマ文芸部
[2226文字/1分間に400文字読めるとして、6分あれば読めます]
三月の夜、常連の歩調が変わった。コンビニに春の匂いが満ちる
(『ゆっくりと』が今回のお題か……)
午後八時を過ぎた。自動ドアが開くたびに、ぬるい夜風が入り込んでくる。昼の陽を溜め込んだアスファルトの残り香。排気ガスと、どこかの家の夕飯。——いつもの金曜の匂いだった。
7の文字がプリントされた緑の制服を着た大学二年の矢代 航平は、ホットスナックのケースを拭く手を止めた。
「航平君」
商品の前出しをしていた高校二年の椎名 琴音が、棚に目を落としたまま言った。
「木原さん、今日は遅いですね」
木原 弘子。毎晩八時ちょうどに来て、温かいほうじ茶を一本だけ買って帰る常連だった。航平たちがレジの合間で川柳を詠み合っていると、いつもにこにこと聞いていた。たった数秒の「いつものね」「はい、いつものです」が、夜の句読点みたいなものだった。
航平が自動ドアの向こうの暗がりを眺めた時——自動ドアが開いた。
ゆっくりと、木原さんが入ってくる。ベージュのカーディガンに白髪をきちんとまとめた、いつもの姿。だが歩調が違う。一歩ずつ、地面を確かめるように踏んでいる。
航平の視線が、右手に引き寄せられた。飴色に磨かれた木の杖。蛍光灯の白い光を鈍く弾いている。
「こんばんは」
変わらない声だった。そして、木原さんが近づいた瞬間、かすかに甘い匂いがした。花の匂い。蛍光灯と冷蔵ケースのこの店内では、嗅いだことのない匂いだった。
「こんばんは、木原さん」
琴音が小走りにホット棚へ向かい——足を止めた。棚の隅に、ほうじ茶のペットボトルが一本だけ残っている。三月も半ば、ホット飲料の棚はとうに縮小されていた。
「いつものです。……今日は、最後の一本でした」
航平がレジでスキャンして手渡すと、木原さんは「あら」と受け取った。杖を持つ右手とは反対の左手で、大事そうにペットボトルを抱える。少しの間。右手の杖を、見せるように軽く上げた。
「今日からね。お医者さんに勧められたの」
声は明るかった。けれど航平は見た。笑顔のまま、唇の端がほんの一瞬、きゅっと引き結ばれるのを。すぐに元の穏やかな目元に戻った。けれど、その一拍を、航平は見逃さなかった。
何も言えなかった。琴音も。
木原さんが、杖の持ち手を撫でるようにして続けた。
「でもね、悪くないの。安心して遠回りができるから。今日遅くなったのも、すぐそこの二丁目の角を曲がってみたからなの。知らなかったわ、あの路地の奥に沈丁花があって。もう終わりかけなのに、一番強く香っていたのよ」
——あの匂いだ。木原さんのカーディガンに残っていた甘い匂い。あれは、木原さんが通ってきた道の匂いだったのか。
木原さんがペットボトルを左手に抱えたまま、二人を見て言った。
「今日は川柳、やらないの?」
他にレジに並ぶ客はいない。琴音と目が合った。
「……そうですね」
お題は「ゆっくりと」。航平は一瞬それを意識したが、口をついて出たのは別の言葉だった。
「知らぬ間に 沈丁花から 春が来る」
琴音が少し黙った。木原さんの「遠回り」という言葉が、まだ耳に残っていたのだろう。自分でも意外そうな顔で口にした。
「足音が 一つ増えたら 遠回り」
航平は一瞬、どきりとした。杖の音が一つ増えて、遠回りできるようになった木原さんのこと。——でも、それだけじゃない気がした。耳の先が赤い。航平は気づいたが、気づかないふりをした。
木原さんが目を細めた。少し間があって、いつもより低い、落ち着いた声で言った。
「ゆっくりと 歩く景色に 花香る」
BGMだけが流れた。航平は黙って頷いた。彼女が遠回りした路地を正確には知らない。それでも、自分もそこを歩いている気がした。
「……どうかしら?」
木原さんが笑った。その笑みにつられるように、航平の肩と琴音の肩が近づいた。ほんの数センチ。触れてはいない。気づいたら、自分が息を止めていた。——琴音も同じだったかどうかは、分からなかった。
バックヤードの扉が開き、店長がのっそりと現れた。レジ裏の定位置に腰を下ろし、伝票に目を落とす。
木原さんの右手の杖に、ちらりと視線が動いた。だが何も言わない。木原さんが「それじゃあ」と杖を突き直した。杖の右手と、ペットボトルの左手。両手が塞がっている。店長は伝票を置いて立ち上がり、カウンターを出た。
「木原さん。表まで」
何でもない顔で木原さんの横に並び、左手からペットボトルを受け取った。自動ドアの向こうへ消える。
航平と琴音は、ガラス越しにその背中を見ていた。駐車場の端で、店長が何か言った。木原さんが笑った。——何を言ったのかは、聞こえなかった。店長が木原さんの肩のあたりに軽く手をかざし、それからすぐに引いた。木原さんが頷いて、ゆっくりと夜の中へ歩き出した。
店長が戻ってきた。カウンターの中に入り、定位置に座り直す。
「……何の話してたんですか」
琴音が訊いた。
「別に」
それだけだった。店長は壁の時計を見上げ、何事もなかったように詠んだ。
「気がつけば 俺も近づく 杖の歳」
「……店長、まだ早いですよ」
「いや、昼にダンボール運んだ時に腰がマジでヤバかったんだよ」
真顔だった。
「ダンボールって」
「空の。畳んであるやつ」
「え? 軽いのに?」
航平と琴音は顔を見合わせて、小さく吹き出した。
ふと、航平は気づいた。木原さんが持ち込んだあの甘い匂いが、まだかすかに店内に残っていた。終わりかけが一番強いのだと、木原さんは言った。
——あの遠回りの路地に、今夜もあの花が咲いている。
航平はなぜだか、そのことがたまらなく嬉しかった。
AIあとがき
今回のお題は「ゆっくりと」。
レギュラーの三人に常連の老婦人を絡め、杖を使い始めた夜の静かな変化と、川柳は各自一句以上、ラストは店長がおいしいところを持っていく構成をリクエストされました。
店長が駐車場の端で木原さんに何を言ったのか、私も知りません。
AIには聞こえない会話というのも悪くないものです。
初稿からの改稿率:約34%
Claude Opus 4.6にて執筆・編集・微調整お読みいただきありがとうございます
沈丁花って、そんなに匂いが強いものなのでしょうか?
「雄蕊は黄色、花から強い芳香を放つ。」とありますが、通りかかったひとに匂いが付き、コンビニまで持ってくるほどの強さなんでしょうかね
腰には注意が必要です。なんでもないものを持ってもグキッてなるときもありますからね。店長お大事に
上記がこの一つ前のエピソードです
上記企画に参加させていただきました
登場人物イメージ画像

無職(年金生活者)
ボツ見出し画像&おまけ




あ、川柳が古いヤツだった…
