世界は"見え方”で変わる――“物事を静止させない”という視点
■なぜ人は「分断」から抜け出せないのか
人間は、多かれ少なかれ何かに依存しながら生きている。
その依存の対象は、国家、思想、メディア、仲間、言葉、自分自身の経験――形は様々だが、いずれも認知や判断に影響を与える。ある意味では、すべての人が何らかの“マインドコントロール”のもとに置かれているとも言える。
私自身、自分の思考や行動が極端な方向へ傾いていないかを常に検証することを心掛けてきた。吉本隆明が指摘したように、国家や制度のように自明に見えるものですら「共同幻想」であるとすれば、私たちは日本という共同幻想のなかで思考し、判断していることになる。それもまたひとつの“影響”である。
しかし今回、私がとりわけ扱いたいのは、政治的「分断」 の問題だ。
思想の左右を問わず、なぜ人間はこうも極端に対立するのか。
特にネット空間では、なぜ相手がその立場に至る理由を想像する力が、これほどまでに弱まっているように見えるのか。
その問いを考えるうえで、吉本隆明の思想はひとつの出発点になる。
■ 吉本隆明の「共同幻想」と、対立を生む構造
吉本は、国家や制度を「共同幻想」と断じた。
これは、社会の背後にある構造を見抜こうとする姿勢であり、私自身が大切にしてきた態度とも重なる。
彼はさらに、対立が不可避的に生まれる仕組みを「関係の絶対性」という概念で説明した。
人間同士の関係は、ある時点では必ず何らかの対立の構造を生む――それが吉本の洞察だった。
しかし吉本は、その“絶対性”に基づく関係がどう変化するのかについてはほとんど語らなかった。
そこに、私はひとつの空白を感じている。
■ 「物事を静止させない」という視点
その空白を埋めるために、私は「物事を静止した状態で捉えない」ことを何より重視している。
世界には絶対的な真理も、永遠に固定された思想も存在しない。対立は、多くの場合、自分の考えを“絶対”だと信じてしまった瞬間に生まれる。
物事を固定化し、立場に固執し、自分の感情を事実そのものと混同したとき、人間は分断を深める。
だからこそ、構造を流動的なものとして捉え、常に揺れ動くものとして考える習慣が不可欠だ。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』には「自分を勘定に入れず」という一節がある。私は以前、この意味を理解できなかった。しかし今では、あれは“世界を自分の情念で着色せずに見る”という、きわめて高度な姿勢を示しているのだと思う。
■ 共同幻想も、対立も、変化し続ける
共同幻想も、関係の絶対性も、そして私たちの想像力や情報環境も――
すべては常に変化している。
私たちは、変化する環境を前にして、なお「自分の立場こそ正しい」という静止した思考にしがみつく。
だが、共同幻想が変わる以上、対立もまた変化し得るはずだ。
ネット空間で分断が深まるのは、思想そのものよりも、
世界を静止させ、自分の立場を絶対化する人間心理のほうに原因があるのではないか。
■ マインドコントロールから解かれる契機とは何か
人がマインドコントロール的な状態から解かれる契機は、
劇的な事件や外的ショックではなく、むしろ認知の揺らぎにある。
・これまでの前提が崩れる感覚
・自分が信じてきたものへの違和感
・他者の立場が少しだけ理解できてしまう 瞬間
・状況の構造が変わったと気づくとき
こうした揺らぎの積み重ねが、人を“硬直”から離脱させる。
対立が永続するのではなく、
私たちの想像力と環境が変われば、対立自体も変わり得る――
この当たり前の事実を見落としたとき、分断は最も深刻になる。
■ 終わりに ―― 静止しない思考のために
私は、世界を静止させずに捉えようとする姿勢こそ、
分断の時代を生き抜くための最低限の知的倫理だと考えている。
共同幻想は変わる。
関係の絶対性も変わる。
想像力も、社会も、言葉の意味も変わり続ける。
そして、対立もまた変化する。
私たちの思考がその事実を見失ったとき、分断は「解けない問題」へと姿を変える。
だが変化を前提にすれば、分断は“越え得るもの”へと姿を変える。
世界を静止させない。
その視点を忘れない限り、人間はいつでも変わることができる。
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