人は思想で好きになるのではない――浅田次郎と百田尚樹に感じる「人間」の匂い
私は以前から、作家・浅田次郎氏の作品が好きだった。
特に『蒼穹の昴』を読んだ時の感動と衝撃は、今でも忘れられない。
清朝末期という激動の時代を舞台に、宦官となった青年の数奇な運命を描くこの作品は、中国史の壮大さ、人間ドラマ、日本との歴史的関係まで織り込みながら、一級のエンターテインメントとして成立していた。
私は元々、『項羽と劉邦』や『三国志』など、中国古代史を扱った小説が好きだった。
中国という国には、現代日本にはないスケール感や人間臭さがある。
実際、個人的に付き合いのある中国人の友人たちにも、日本人にはないおおらかさや生命力を感じることがある。
だからこそ、現在の中国共産党体制には、複雑な思いを抱いている。
中国文明への敬意があるからこそ、現在の中国が見せる強権的姿勢や対外的な振る舞いに違和感を覚えるのだ。
私は以前から、
「中国文化を愛してきた知識人だからこそ、現在の中国について語って欲しい」
という思いを持っていた。
浅田次郎氏は、かつて三島由紀夫に憧れ、自衛隊に入隊した経歴を持つ人物でもある。
そのため私は、彼の国家観や歴史観に興味を抱いていた。
しかし考えを重ねるうちに、私はあることに気づいた。
私は別に、「浅田次郎に政治運動をして欲しい」のではなかったのだ。
むしろ私が感じていたのは、
「保守的立場の人間だけが、過剰に政治的存在として扱われる空気」
への違和感だったのかもしれない。
その流れで私は、作家・百田尚樹氏についても考えた。
『永遠の0』『海賊とよばれた男』など、数々の傑作を生み出した彼は、本来非常に優れた大衆エンターテインメント作家だった。
さらに彼は、『探偵!ナイトスクープ』のメイン放送作家として、長年テレビ業界で活躍してきた人物でもある。
だから私は時々思う。
百田氏本人のキャラクターにも当然理由はあるだろう。
しかし同時に、周囲の扱いや時代の空気が、彼をより過激な方向へ押し出していった側面も、決して否定できないのではないか――と。
もちろん、これは単純な被害者論ではない。
ただ現在の社会には、一度「右派」「保守」というラベルを貼られた人間が、その瞬間から“政治的存在”として消費されてしまう傾向があるように感じる。
私はその構造自体に、不公平感を抱いているのだと思う。
しかしだからといって、私は浅田次郎氏に失望している訳ではない。
知識人にも様々なタイプがいて良い。
政治的に前面へ出る人もいれば、人間や歴史を描くことに徹する人もいる。
それぞれに役割がある。
そして考えを重ねながら、私は改めて気づかされた。
結局私は、思想や立場そのものより、「人間」に惹かれているのだ。
浅田次郎にも、百田尚樹にも共通して感じるのは、インテリ臭さだけではない、もっと泥臭い「人間の匂い」である。
庶民感覚。
不器用さ。
義理人情。
弱さ。
矛盾。
それでも自分なりの筋を通そうとする姿勢。
私は、そういう人間が好きなのだと思う。
そして人生には、それぞれ黙っていられない理由がある。
百田氏にも、彼なりの信念や危機感があったのだろう。
それを外野が簡単に断罪する資格など、本来誰にもない。
人間はそんなに単純ではない。
だから私は今日も、思想より先に、「人間」を見ていたいと思うのである。
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