トヨタの未来都市に感じた違和感――「便利さ」と「被験者」の境界線
静岡県裾野市で建設が進む、トヨタの未来都市「Woven City」が話題になっている。
自動運転、AI、水素エネルギー、スマート住宅――。
まるでSF映画のような未来都市構想に、多くの人が期待を寄せている。
しかし私は、そのニュースを見ながら少し違う事を考えていた。
「そこに住む人は、どんな気持ちなのだろう?」
という事である。
静岡県は、日本有数の災害リスク地域だ。
巨大地震が長年警戒され、富士山という休火山も抱えている。
もちろん富士山は美しい。
しかし日本人にとって富士山は、単なる観光名所ではなく、「噴火の記憶」を内包した山でもある。
実際、近年の静岡県では人口流出も話題になる。
その原因は様々だろうが、災害リスクへの不安も無関係ではないはずだ。
そんな土地に、トヨタは「未来都市」を建設する。
これは単なる企業開発ではない。
ある意味では、
「未来の日本社会を、ひとつの街で先行実験する」
という試みにも見える。
もちろん、あの街に住む人達は一般的に見れば恵まれている存在だろう。
トヨタ社員というだけで、日本では高い社会的信用を持つ。
高収入、安定、福利厚生――。
長年、「大企業社員」は日本社会の“成功モデル”の一つだった。
しかし私は、そこで少し逆説的な事を考えてしまった。
もしその恵まれた立場が、逆に「被験者」として利用されるとしたらどうなるのか。
未来都市という名の実験空間に、企業の方針で半ば組み込まれていく。
それは悲劇的でもあり、どこか喜劇的でもあり、決して笑えない構図に思えた。
もちろん、私はトヨタを悪意ある企業だと言いたいわけではない。
むしろ豊田章男会長などは、テレビなどで拝見する限り、現場感覚と他者への配慮を感じさせる人物に見える。
創業家出身でありながら、若い頃には現場の一兵卒として働き、組織の空気や現場感覚を体験してきた人物でもある。
だからこそ、私の不安は杞憂に近いのかも知れない。
しかし一方で、個人の善意とは別に、「構造」が別の方向へ進む事は歴史上珍しくない。
私はそこに、ジョージ・オーウェルの『1984』的なものを少し重ねてしまう。
もっとも、現代社会は単純な「監視社会」だけではない。
むしろ今は、
「便利だから従う」
という形で、人々がシステムへ接続されていく。
AIが健康を管理し、自動運転が事故を減らし、街が生活を最適化する。
それ自体は善意だ。
高齢化社会の日本にとって、必要な技術でもある。
しかし同時に、
移動
健康
消費
行動
人間関係
までもがデータ化されていく世界でもある。
そして人は、便利になればなるほど、それを拒否しづらくなる。
現代中国は、海外メディアでしばしば「テクノロジー管理社会」として描かれる。
顔認証、キャッシュレス、行動データ管理――。
もちろん実態はもっと複雑なのだろう。
だが少なくとも世界は今、
「便利さと監視は、非常に相性が良い」
という現実に向かっている。
そしてそれは、決して中国だけの話ではない。
日本でもまた、
「安全のため」 「効率化のため」 「高齢化対策のため」
という善意の積み重ねの先に、似た構造が生まれる可能性はある。
だから私は、Woven Cityを単なる未来都市として見る事ができない。
あそこには、
最先端技術
巨大企業
災害リスク
日本型組織文化
管理と快適さ
が同時に存在している。
ユートピアとデストピアは、案外同じ設計図から生まれるのかも知れない。
そして本当に重要なのは、
「その街に住む人が、“参加者”なのか、“被験者”なのか」
という事なのだと思う。
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