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風の街にて #一枚の写真から文芸賞


風の街にて

 乾いた粉っぽい風景が大きな窓に広がっていた。遠くに教会の白い塔が見える。それ以外はぼんやり黄昏色に霞んでいるが、そこはオアシスの街に違いない。どれほどの大きさなのかは見当もつかない。
 昨日の夕刻、この同じ窓からは砂しか見えなかった。砂嵐だとここの女主人は言った。さほど驚いた様子もなかったところからすると、きっと茶飯さはんのことなのだろう。

 お昼過ぎ、窓から外を眺めながら女主人は紅茶を啜っていた。リビングに掲げてある写真そのままだ。そして私にはコーヒーを勧めた。女主人は「人を見ると好みがわかるの」と言った。
 そのカラクリはすぐにわかった。いかにも神秘的に見せようとするこのやり口は友人のルイの入れ知恵に違いない。

 ここには取材で来たわけでも、観光に来たわけでもない。パリで小さな観光雑誌を作ってはいるが、実のところ観光案内人みたいなものだ。
 保険の営業職のルイは何かとおかしな仕事を持ってくる。三ヶ月ほど前には、メキシコ人の旅行者の女に日本食を食べさせろと言ってきた。スペイン語なんてまるっきりわからないと言っても、そんなのお構いなしだ。幸い、お互いに片言の英語でなんとかなった。目的の日本食はお目当ての店が改装中であまり自信は持てないが、表向きは喜んでくれた。大人の対応ってやつだろうな、たぶん。
 今回もいわばルイにそそのかされて、単発の飛行機で海を越え、死ぬ思いをして着陸したのがここだったというわけだ。なんという国なのか、なんという街なのかも知らない。ただ女主人はアニスといった。

 翌日の夕食の席で魅惑的なアニスの瞳に向き合った。
「ここで働く気はない?」
 就労ビザがないと言うと、そんなものは必要ないと言う。不法就労なんて真っ平ごめんだ。
「ご存知のように、私はまだ若造だし腕っぷしも強くはない。地理も不案内でお役に立てるとは思えません」
 飛行機を降りて、膝がガクガクのままで荷下ろしを手伝ったのだ。
「そんなもの必要ないわ」
 何でもかんでも簡単に考えていやがる。捕まって痛い目に遭うのはこっちなんだ。どんな政治体制かもわからないときたら、命懸けだ。

 しかし食事はマトモだった。そんな軽口を叩いたら失礼なほどちゃんとしたものだった。ステーキは上等なラム。マスタードも酸味のしっかりした代物だった。デザートにはハイビスカスらしい花びらが浮いていた。ただのゼリーでも俺に文句はない。そこに花びらを浮かべるだけで、値段は二倍、いや三倍になると言ってもいい。

 結局ここに来た目的は何なんだ。ルイはまさかここで働かせようと思ったわけではないだろう。断るのは目に見えている。だいたいあいつが承諾しない。俺という人間がいなければ、安請け合いの彼の仕事は成り立たない。あいつの営業成績は俺を自由に使えることで成り立っていると言っても差し支えない。あいつは保険を売る。その代わりに俺が客の厄介ごとを聞いてやるというわけだ。解決するとは言ってない。まぁ俺もその恩恵にあずかっているからこそ、売れない観光雑誌なんぞ作って、ふんぞり返っていられるのだけれど。

 アニスは食事の時しか話す習慣はないらしい。それとも食事中なら懐柔しやすいとでも思っているのか。たしかに食事は美味いし、アニスは魅力的だ。しかしだからといって何でも首が縦に振られると思ったら大きな間違いだ。俺は不法就労はしないし、ここに住む気も毛頭ない。

 あれから既に三日になる。そこでこちらから餌を撒いてみることにした。
「あなたは何がお望みなのですか?」
 アニスはフォークに刺したトマトをジッと見つめて、忘れた頃に言った。
「引っ越すのよ。ここから」
「いいお宅に見えますが」
 たしかにここはいいところだ。二、三日滞在するにはもってこいだ。ただ、長逗留するには夜が寒すぎる。
 アニスはトマトを飲み込んでから口を開いた。
「あと2、3年もすればここは砂に埋もれるの。あなたも来た日に見たでしょ?」
「砂嵐ですね。では、どちらに?」
「そうね、そう遠くはないところ」
「あの窓から見える街ですか?」
「あの街はもう廃墟も同然よ。もう数十人、もしかしたら誰もいないかもしれない」
 まさかもうそんなところまで。たしかに教会の鐘を聞いた覚えはない。
 ここはおそらくサイプロスかマルタあたりだろう。だとするとこの国のどこに暮らそうがたいした違いはない。それよりも思い切ってギリシャに行った方がいくらかマシだ。
「そうなんですね、砂嵐で。しかし私も、ここであまりのんびりしちゃいられません。こうして一日を過ごす間に仕事が積み上がっているんです」
 そんなことはないんだが、このままズルズルというのが一番困る。
「何をすればいいのか、教えてください」
 アニスは肉にフォークを突き刺すと、ナイフで切り始めた。
「そうね、まずは私の夫になって。そしたらあなたの国に行けるわ」
 すーっと血の気が引いた。きっと外の景色と寸分違わぬ顔色だったことだろう。
    了   【1994字】



迷走中


花澤薫さま
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