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港町に刻まれたアルメニア人の記憶──ヤンゴン・ペナン・シンガポールを結んだもう一つのディアスポラ

ディアスポラと国家シリーズ.Ⅳ


消えた共同体、残った都市の記憶

シンガポール中心部を歩くと、「アルメニア通り(Armenian Street)」という名の通りに出会う。その先には東南アジア最古のアルメニア教会が建ち、近くにはサーキーズ兄弟が創業したラッフルズ・ホテルが今も世界的な名門ホテルとして営業を続けている。

ヤンゴンにもアルメニア教会が残る。現在は歴史的建造物として保存され、内部にはかつてこの街で暮らしたアルメニア人家族の歴史を伝える展示や、第二次世界大戦の犠牲者を追悼する記念碑が静かに置かれている。共同体はほぼ姿を消したが、その記憶は教会という空間に受け継がれている。さらに植民地時代を代表するストランド・ホテルもまた、アルメニア人サーキーズ兄弟が残した遺産である。

ペナンでも事情は似ている。かつてビショップ通り(Bishop Street)に建っていたアルメニア人教会は失われたものの、「アルメニア通り(Armenian Street)」の名は現在も街の中に残り、サーキーズ兄弟が創業したイースタン・アンド・オリエンタル・ホテルは、ジョージタウンを代表する歴史的ホテルとして多くの人々を迎えている。

こうした痕跡を見ると、この三都市には現在も大きなアルメニア人共同体が暮らしているような印象を受けるかもしれない。しかし実際には、植民地時代に栄えた共同体はすでにほぼ姿を消している。それにもかかわらず、その存在は地名や教会、ホテルなど、街のいたるところに刻まれ続けている。共同体は消えた。しかし都市は彼らを忘れなかった。なぜなのだろうか。

この問いは、私がこれまで取り上げてきた東南アジアのユダヤ人史とも対照的である。ペナンではユダヤ人共同体だけでなく、その記憶も長く忘れ去られた。ヤンゴンでは共同体は縮小したものの、シナゴーグを守る人々によって歴史が受け継がれている。そしてシンガポールでは、共同体そのものが現在も生き続けている。

それに対してアルメニア人は、共同体はほぼ姿を消したにもかかわらず、その足跡は街の中に色濃く残り続けている。なぜ、生きた共同体は失われたのに、その存在は都市の記憶としてこれほど強く受け継がれたのだろうか。

その答えを探ることは、東南アジアのアルメニア人史を知るだけにとどまらない。植民地時代の港町で活躍した移民たちが何を街に残し、なぜある人々は忘れられ、ある人々は現在も共同体として生き続け、そしてある人々は都市の記憶として受け継がれていくのかを考えることでもある。

帝国の港町を結んだアルメニア人たち

アルメニア人は、古代から南コーカサスに暮らし、世界最古のキリスト教国家の一つとして知られるアルメニア王国を築いた民族である。しかし、中世以降、周辺の大国に挟まれたアルメニアはたびたび戦乱に巻き込まれ、多くの人々が故郷を離れることになった。

特に17世紀初頭、ジュルファの強制移住によって、多くのアルメニア人商人が現在のイランへ移され、
新たに築かれたニュー・ジュルファにはアルメニア人商人が集められ、やがて国際商業の拠点として発展した。ここからアルメニア人商人たちはペルシャ湾、インド洋、東南アジアへと活動範囲を広げていった。

18〜19世紀になると、イギリス東インド会社の発展とともに彼らはインド各地へ進出し、さらに英領植民地の港町へと拠点を築いていく。カルカッタ、マドラス、ボンベイ、ペナン、シンガポール、ヤンゴン、香港、これらの都市は独立して存在していたのではなく、海によって結ばれた一つの交易ネットワークの中にあった。

シンガポールのアルメニア人の家族写真

この点で、アルメニア人は本稿で取り上げてきたバグダード系ユダヤ人とよく似た存在である。この時代のアルメニア人は、ユダヤ人と同様に自前の国家を持たないディアスポラ商人として各地の港町を往来し、言語や人的ネットワークを生かして交易を支えた。

もっとも、両者は同じではなかった。ユダヤ人が貿易や金融、仲介業など広域ネットワークそのものを支える役割を得意としたのに対し、アルメニア人は地域社会に深く根を下ろし、ホテルや商館、教会など都市の中に目に見える形の遺産を残していった。

旧英領植民地で活躍したサーキーズ兄弟

今日では東南アジアの港町にアルメニア人共同体はほとんど残っていない。しかし彼らの存在は、通りや教会、歴史的ホテルといった都市の風景の中に今なお刻まれている。

三都市に残るアルメニア人の足跡

東南アジアのアルメニア人共同体は、現在ではほとんど姿を消している。しかし、その足跡は三つの港町に今も数多く残されている。街を歩くと、アルメニア人の名は教会やホテル、通りの名前となって、植民地時代の記憶を静かに伝えている。

ペナン──通りの名とホテルに残る記憶

ジョージタウン旧市街を歩くと、「アルメニア通り(Armenian Street)」の名が目に入る。現在ではカフェや土産物店が並ぶ人気観光地となっているが、その名は19世紀にこの周辺へ暮らしたアルメニア人たちに由来する。

アルメニア通り

かつてはビショップ通り(Bishop Street)にアルメニア教会も建っていたが、現在では失われ、その姿を見ることはできない。

この辺りの区画
現在は銀行などが入る商業ビル

一方、海沿いには1885年創業のイースタン・アンド・オリエンタル・ホテル(Eastern & Oriental Hotel)が今も営業を続けている。このホテルを創業したのが、アルメニア人のサーキーズ兄弟である。

Eastern & Oriental Hotel

現在もペナンを代表する名門ホテルとして知られるこの建物は、共同体そのものは消えても、アルメニア人が街に残した遺産が今なお生き続けていることを象徴している。

シンガポール──街に息づくアルメニア人の遺産

シンガポールでは、アルメニア人の存在はさらに色濃く街に刻まれている。

中心部には現在もアルメニア通り(Armenian Street)が残り、その近くには1835年建立のアルメニア教会(Armenian Church)が建つ。これは現存する中では東南アジア最古のアルメニア教会であり、現在は歴史的建造物として保存されている。

アルメニア通り
この通りにあるプラナカン博物館もオススメ
The Armenian Church of Saint Gregory

そして世界的に知られるラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)もまた、1887年にサーキーズ兄弟が創業したホテルである。シンガポールを象徴するランドマークの一つとして、多くの旅行者を迎え続けている。

ラッフルズホテル

共同体はほぼ姿を消した現在でも、アルメニア人の名前は街の地図や建築の中に自然に息づいている。

ヤンゴン──教会が守り続ける共同体の記憶

ヤンゴンにも、植民地時代のアルメニア人の歴史が残されている。

市街地にはバプテスマの聖ヨハネ・アルメニア教会(St. John the Baptist Armenian Church)が建ち、現在も歴史的建造物として保存されている。教会内部には、かつてヤンゴンで暮らしたアルメニア人家族を紹介する展示や、第二次世界大戦で亡くなった人々を追悼する記念碑が設けられ、この街に存在した共同体の歴史を静かに伝えている。

St. John the Baptist Armenian Church
外観も内装もとにかく古い
当時の遺物と思われる品々も無造作に積み上げられている

かつて郊外にあったアルメニア人墓地は1980年代に姿を消したが、その記憶は教会へと受け継がれた。

さらに、ヤンゴンを代表する歴史的ホテルであるストランド・ホテル(The Strand Yangon)も、サーキーズ兄弟によって創業されたホテルである。現在も植民地時代を代表する建築として高い人気を誇り、アルメニア人がこの都市に残した足跡を今に伝えている。

ストランドホテル

三都市を歩いていると、一つの共通点に気づく。アルメニア人共同体そのものはほとんど姿を消したにもかかわらず、その存在は地名や教会、歴史的ホテルといった街の風景の中に、ごく自然に溶け込んでいる。

しかし、この光景は本稿で取り上げてきたユダヤ人史とは対照的でもある。ユダヤ人もまた同じ帝国の交易ネットワークを支えたディアスポラ商人だった。それにもかかわらず、都市に刻まれた記憶の残り方は大きく異なっている。なぜアルメニア人の足跡は街の風景として受け継がれ、ユダヤ人の痕跡はそうならなかったのだろうか。

街に残したものは、なぜ違ったのか

ここまで見てきたように、アルメニア人とバグダード系ユダヤ人には多くの共通点がある。

どちらも自前の国家を持たないディアスポラとして、イギリス帝国の交易ネットワークを利用しながら、インド洋から東南アジアへと活動範囲を広げた人々だった。ペナン、シンガポール、ヤンゴンをはじめとする港町に共同体を築き、商業を通じて都市の発展にも大きく貢献した点でもよく似ている。

しかし現在、三都市を歩くと両者の足跡はまったく異なる形で残されている。

ユダヤ人について思い浮かぶのは、シナゴーグや墓地、そして共同体そのものである。共同体が残れば歴史も残り、共同体が消えれば歴史も見えにくくなる。実際、ペナンでは共同体の消滅とともにユダヤ人の存在も都市の記憶からほぼ姿を消した。

一方、アルメニア人は違う。共同体はほぼ消滅したにもかかわらず、その名はアルメニア通りとして地図に残り、教会は歴史的建造物となり、サーキーズ兄弟が築いたホテルは現在も都市を代表するランドマークとして営業を続けている。

この違いは、彼らが都市の中で果たした役割の違いとも関係している。

バグダード系ユダヤ人は、広域交易や金融、不動産、仲介業など、帝国の交易ネットワークそのものを支える役割を担っていた。彼らの活動は非常に重要だったが、その成果は人や資本の流れの中に存在することが多く、共同体が消滅すると都市の風景からも見えにくくなりやすかった。

これに対し、アルメニア人はホテルや商館、教会など、人々が日常的に利用する都市施設を数多く築いた。とりわけサーキーズ兄弟が創業したラッフルズ・ホテル、ストランド・ホテル、イースタン・アンド・オリエンタル・ホテルはいずれも現在まで営業を続け、それ自体が都市の象徴となっている。

もちろん、この違いを単純化しすぎることはできない。ユダヤ人も建物や道路名を残しているし、アルメニア人も広域交易で活躍した。しかし結果として都市に残った「記憶の形」は対照的だった。ユダヤ人の歴史は、共同体が存在し続けることで受け継がれてきた。アルメニア人の歴史は、共同体が消えた後も、都市そのものが記憶を受け継いできた。

だからこそ現在の東南アジアでは、ユダヤ人史は「生きた共同体」を通して語られ、アルメニア人史は「街に残る風景」を通して語られるのである。

なぜ街だけが彼らを覚えていたのか

ここまで見てきたように、東南アジアのアルメニア人共同体は20世紀までにほぼ姿を消した。それにもかかわらず、アルメニア通りやアルメニア教会、そしてサーキーズ兄弟が築いたホテルは、現在も都市を代表する歴史遺産として受け継がれている。

その理由の一つは、アルメニア人が都市そのものに足跡を刻んだからである。

彼らが残したのは、共同体の内部だけで共有される宗教施設だけではなかった。ホテルや商館、教会、さらには街路名など、都市の日常と深く結び付いた空間の中に、その存在を刻み込んでいった。共同体が消滅しても、建物や地名は街の一部として残り続ける。その結果、アルメニア人の記憶もまた、都市の風景とともに受け継がれることになった。

その象徴が、サーキーズ兄弟である。彼らが創業したラッフルズ・ホテル、ストランド・ホテル、イースタン・アンド・オリエンタル・ホテルは、いずれも各都市を代表する歴史的ホテルとなった。これらは単なる宿泊施設ではない。建築史や観光史、植民地都市の歴史を語るたびに必ず登場する存在であり、その創業者であるアルメニア人の名もまた自然と語り継がれてきた。

さらに重要なのは、アルメニア人という存在が東南アジアの現代政治の中で大きく政治化されなかったことである。

例えばユダヤ人の歴史は、現在ではイスラエル・パレスチナ問題や中東政治と切り離して語ることが難しい場面も少なくない。そのため、「ユダヤ人」という言葉そのものが歴史的共同体である以前に、現代政治と結び付いて受け止められることがある。一方、アルメニア人は東南アジアでは主として植民地時代の移民共同体として理解されてきた。そのため、アルメニア通りやアルメニア教会といった名称も、政治的な意味を帯びることなく、歴史的景観の一部として受け継がれやすかったのである。

もちろん、それだけでは説明できない。シンガポール、ペナン、ヤンゴンはいずれもイギリス植民地として発展した港町だった。これらの都市では、都市の形成に貢献した人々や建築を「都市の歴史」として保存する傾向が比較的強い。サーキーズ兄弟が築いたホテルも、その価値はアルメニア人共同体の歴史を超え、それぞれの都市を象徴する建築として評価されるようになった。

つまり街が受け継いだのは、一つの民族の記憶ではない。都市そのものを形づくった歴史だったのである。

結論 街が受け継いだアルメニア人の記憶

東南アジアのアルメニア人共同体は、現在ではほとんど姿を消している。しかし、その存在は決して街から消え去ったわけではない。

シンガポールにはアルメニア通りと東南アジア最古のアルメニア教会が残り、ラッフルズ・ホテルは今なお世界中から人々を迎えている。ヤンゴンではアルメニア教会が共同体の歴史を伝え続け、ストランド・ホテルもまた都市を象徴する建築として受け継がれている。ペナンでも共同体は消え、教会も失われたが、アルメニア通りとイースタン・アンド・オリエンタル・ホテルは現在も街の風景の一部となっている。

その理由は一つではない。アルメニア人はホテルや教会、商館など都市そのものに深く関わる事業を築き、サーキーズ兄弟のホテルは街を代表するランドマークとなった。そして、「アルメニア人」という存在が東南アジアの現代政治の中で大きく政治化されることなく、植民地都市の歴史の一部として比較的自然に記憶され続けたことも、その背景にあったと考えられる。

このことは、私がこれまで取り上げてきた東南アジアのユダヤ人史とも興味深い対照をなしている。両者はともに帝国の交易ネットワークを支えたディアスポラだった。しかし、東南アジアに残したものは異なっていた。ユダヤ人は都市によって生きた共同体として受け継がれることもあれば、記憶だけを残して姿を消すこともあった。一方、アルメニア人は共同体そのものはほぼ消滅したにもかかわらず、街路や教会、ホテルといった都市の記憶の中に生き続けている。

その違いを見比べることで見えてくるのは、港町とは単に人やモノが行き交う場所ではなかったということである。そこは、移民たちが築いた共同体や、その記憶が、それぞれ異なるかたちで未来へ受け継がれていく場所でもあった。東南アジアのアルメニア人史は、共同体が消えた後も、人々の営みは街の記憶となって生き続けることを静かに教えてくれるのである。


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