ペナン島のユダヤ人──マレーシアは失われた共同体とどう向き合うのか
ディアスポラと国家シリーズ.Ⅰ
消えたジョージタウンのユダヤ人
かつてこの街にユダヤ人が暮らしていたことを、観光客はもちろん、多くのマレーシア人も知らない。
マレーシア・ペナン島のジョージタウンは、多文化共生の街として知られている。旧市街を歩けば、教会の鐘楼の向こうにモスクのミナレットが見え、少し先には中国寺院やヒンドゥー教寺院が並ぶ。異なる宗教と民族が共存する風景は、この街を象徴する光景として繰り返し紹介されてきた。
しかし、その物語の中でほとんど語られない人々がいる。ユダヤ人である。19世紀から20世紀初頭にかけて、ジョージタウンにはバグダード系ユダヤ人を中心とする小さな共同体が存在していた。人口は多くなかったが、共同体を維持するには十分な規模があった。彼らの居住地にはシナゴーグとユダヤ人墓地があった。「ユダヤ人通り(Jalan Yahudi)」と呼ばれる通りさえ存在した。
だが、その姿は今日ほとんど残っていない。通りの名は変わり、共同体は消滅し、シナゴーグも失われた。現在、ジョージタウンの一角に残るユダヤ人墓地だけが、この街に根付いていたユダヤ人社会の営みを静かに伝えている。

もちろん、墓地以外の痕跡も完全に消えたわけではない。ユダヤ人たちが礼拝所として使用していた旧シナゴーグの建物は、現在もナゴール通りに残っている。


ただし現地を訪れても、それがかつてユダヤ教の礼拝所だったことを示す痕跡はほとんど見当たらない。外観はジョージタウンでよく見られるショップハウスの一つに見え、内部からもユダヤ文化を読み取ることは難しい。
ジョージタウンには植民地時代の建物が数多く残っている。しかしユダヤ人の歴史は保存されることなく、建物や地名から静かに失われていった。ジョージタウンは「多文化都市」として記憶されているが、その多文化性を形作った人々の中には、歴史の表舞台から姿を消した集団もある。さらにその中には、ユダヤ人のように記憶からもこぼれ落ちてしまった集団もある。
興味深いのは、こうした歴史がマレーシア国内でもあまり知られていないことである。
ペナンのユダヤ人はなぜ消えたのか。そしてなぜ、その存在はこれほどまでに忘れられてしまったのか。本稿では、ペナンに残されたわずかな痕跡をたどりながら、イギリス帝国の港町に生まれた小さなユダヤ人共同体の歴史を追ってみたい。
かつて国際都市だったペナン
まず理解すべきなのは、ペナンにおけるユダヤ人の存在は決して特別なものではなかったという点である。
19世紀のペナンは、イギリス帝国のインド洋ネットワークに組み込まれた重要な港湾都市だった。インドと中国を結ぶ中継地として発展したこの街には、中国人、マレー人、インド人だけでなく、アルメニア人、アラブ人、パールシー、ヨーロッパ人など、多様な人々が流入していた。

今日の感覚では、東南アジアの島にユダヤ人共同体が存在したことは意外に映るかもしれない。しかし当時のペナンでは、ユダヤ人は数ある移民集団の一つに過ぎなかった。
共同体の中心となったのは主にバグダード系ユダヤ人である。彼らはインド洋交易ネットワークの一部として、ボンベイ、カルカッタ、シンガポール、香港を結びながら活動していた。ペナンへの定住も、その広大な商業ネットワークの延長線上にあった。

最盛期でも人口は100〜200人程度に過ぎず、決して大きな共同体ではなかった。しかし彼らは単独で存在していたわけではない。ペナン、シンガポール、香港、上海、ボンベイといった港湾都市に点在するユダヤ人社会の一部として機能していた。
言い換えれば、ペナンのユダヤ人共同体は一つの「村」ではなく、インド洋から東アジアに広がるネットワークの結節点だったのである。
国際都市の終わりとともに
ペナンのユダヤ人共同体が消滅した理由を、一つの出来事だけで説明することはできない。
まず根本的な問題として、共同体そのものが非常に小規模だった。最盛期でも人口は100〜200人程度であり、結婚相手の確保、宗教教育、宗教儀礼の維持などを長期的に続けることは、不可能ではないが容易ではない。大規模なユダヤ人社会を持つ都市とは異なり、共同体を内部で再生産する余地は限られていた。
さらに第二次世界大戦は、このような小規模共同体に大きな打撃を与えた。1941年末、日本軍がマラヤへ侵攻すると、多くの住民が避難を余儀なくされる。戦後に戻ってきた人々もいたが、一度途切れた生活基盤が完全に回復することはなかった。
しかし、それ以上に重要だったのは、戦後の世界そのものの構造変化である。ペナンのユダヤ人たちは、もともと一つの土地に定住する共同体というよりも、インド洋から東アジアへ広がる商業ネットワークの中に位置する移動的な存在だった。彼らにとってペナンは唯一の故郷ではなく、シンガポール、香港、ボンベイ、ロンドンと並ぶ複数の拠点の一つにすぎなかった。戦後になると、より大きな経済機会や強固なユダヤ人社会を持つ都市へと生活の重心が移り、移住先はシンガポール、オーストラリア、イギリス、アメリカ、さらには1948年に建国されたイスラエルへと分散していく。
その結果、共同体はある日突然消滅したのではなく、ネットワークの再編の中で徐々にその輪郭を失っていったのである。迫害や追放によって消えたわけではない。より大きな共同体へ人々が移り住み、結婚し、生活の拠点を移した結果として、ペナンのユダヤ人社会は自然に解体されていったのである。
ある意味で、これはペナンという都市の変化そのものでもあった。かつて世界各地の商人や移民を引き寄せた帝国の港町は、戦後になるとシンガポールなどより大きな中心地の影に隠れていく。ユダヤ人共同体の消滅は、その変化を象徴する出来事の一つだった。
なぜペナンのユダヤ人は忘れられたのか
共同体の消滅そのものは、歴史の中では珍しい出来事ではない。しかしペナンのユダヤ人の場合、より興味深いのは「消滅」ではなく「忘却」である。
現在のジョージタウンは多文化都市として知られている。世界遺産地区を歩けば、中国人商人、インド人移民、アラブ商人、ヨーロッパ人、さらにはアルメニア人など、多様な人々が築いた歴史が観光資源として紹介されている。例えばアルメニア人共同体は、ペナンにおいて決して大きな存在ではなかった。それにもかかわらず、現在もアルメニアン・ストリートという地名が残り、その存在は都市の歴史の一部として記憶されている。

一方で、ユダヤ人共同体の痕跡は驚くほど少ない。
かつて存在したユダヤ人通り(Jalan Yahudi)は1980年代にザイナル・アビディン通り(Jalan Zainul Abidin)へと改名された。もちろんこれはユダヤ人だけを対象にした措置ではなく、独立後のマレーシア各地で行われた道路名整理の一環だったと考えられる。しかし結果として、「ユダヤ人」という言葉そのものが都市空間から姿を消したことも事実である。

なぜこのような違いが生まれたのだろうか。理由の一つは、共同体そのものが完全に消滅したことである。アルメニア人やユーラシアンなどの小規模集団も人口は減少したが、地名や建物、家系などを通じて何らかの形で記憶が継承された。一方、ペナンのユダヤ人は戦後の移住によってほぼ完全に姿を消した。記憶を語り継ぐ当事者そのものがいなくなってしまったのである。
さらに独立後のマレーシアが形成した国家の歴史観も影響した。現代マレーシアはしばしば、マレー人・華人・インド人という三つの主要集団によって説明される。この枠組みは政治制度や教育制度にも深く組み込まれており、それ以外の小規模共同体は歴史の中で目立ちにくくなる傾向がある。
もちろん、これはユダヤ人だけの問題ではない。しかしユダヤ人の場合、そこにもう一つの要因が加わった。イスラエルとパレスチナをめぐる国際政治である。
マレーシアは独立以来、一貫してパレスチナを支持し、イスラエルを承認していない。こうした立場の中で、「ユダヤ人」という言葉はしばしば現代の中東問題と結びつけられて理解されるようになった。
しかし、植民地時代のペナンに暮らしていたバグダード系ユダヤ人たちは、現代のイスラエル国家とは全く異なる歴史的文脈の中で存在していた人々である。
にもかかわらず、多くの人々にとって両者を切り離して考えることは容易ではない。
その結果、ユダヤ人共同体の歴史は積極的に消されたわけではないが、積極的に語られることもなかった。
ペナンのユダヤ人は追放されたわけではない。彼らは移住によって共同体を失い、その後、国家の歴史叙述の外側へ押し出され、さらに現代政治の影の中で語られなくなっていった。
だからこそ現在のジョージタウンでは、アルメニア人やアラブ人、インド人の痕跡は比較的容易に見つけることができる一方で、ユダヤ人の歴史は墓地の中にのみ、ひっそりと残されている。
ローカルヒストリーとしての再発見
もっとも、ペナンのユダヤ人が完全に忘れ去られたわけではない。2000年代以降、ジョージタウンの歴史に対する関心の高まりとともに、この小さな共同体の存在は徐々に再発見されるようになった。世界遺産登録後のジョージタウンでは、植民地時代の建築や街路だけでなく、かつてこの街を構成した多様な人々にも注目が集まるようになったのである。
その中で、ユダヤ人墓地や旧ユダヤ人通り(Jalan Yahudi)の歴史は研究者や歴史愛好家によって掘り起こされ、英語の書籍やウェブメディアなどで紹介されるようになった。
近年には、マレーシア人研究者によるペナンのユダヤ人史に関する書籍も出版されている。これは、この歴史が完全に忘却されたわけではなく、むしろ新たな関心の対象として掘り起こされつつあることを示している。
しかし同時に、その語られ方には特徴がある。こうした研究や出版の多くは英語で行われている。しかも大手出版社ではなく、地域史や文化史を扱うインディペンデント系出版社や小規模な研究ネットワークを通じて発信されることが多い。読者もまた、歴史愛好家、研究者、都市文化に関心を持つ人々などに限られている。言い換えれば、この歴史はマレーシア社会全体の共有された記憶として復活したわけではない。
英語圏の知識層にとって、ペナンのユダヤ人史は主に三つの文脈で理解されている。
第一に、植民地港湾都市の多様性である。中国人、インド人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人などが共存したペナンの国際性を象徴する事例として語られる。
第二に、インド洋交易ネットワークの歴史である。ペナンのユダヤ人はボンベイやシンガポール、香港を結ぶ広域的な商業ネットワークの一部であり、近年関心が高まっているディアスポラ研究の対象ともなっている。
第三に、ローカルヒストリーの再発見である。現在では見えなくなった小規模共同体の痕跡をたどることで、ジョージタウンという都市の多層的な歴史を読み解こうとする試みである。
ここで語られるユダヤ人史は、政治的論争の対象というよりも、「興味深い過去」として扱われることが多い。現代の中東問題やイスラエル・パレスチナ問題との結びつきは比較的弱く、植民地時代の都市史や文化史の一部として安全に位置づけられている。
しかし、その再発見には明確な限界もある。英語の書籍を手に取る読者や歴史イベントに参加する人々の間では知られていても、多くのマレーシア人にとってペナンのユダヤ人史は依然として馴染みの薄い存在である。ペナンのユダヤ人は確かに再発見された。だが、その記憶はまだ広く共有されているとは言い難い。
共同体が消えた後、歴史もまた長いあいだ忘れられていた。そして現在、その歴史は再び語られ始めているものの、なお一部の知識層や歴史愛好家の間に留まっているのである。
歴史は誰に届くのか
ペナンのユダヤ人史が現在も限定的な範囲で語られているのは、単に関心を持つ人が少ないからだけではない。重要なのは、その多くが英語によって語られていることである。
英語で書かれた歴史書やローカルヒストリーは、主に都市部の知識層や歴史愛好家、研究者たちによって読まれる。彼らにとってペナンのユダヤ人史は、植民地港湾都市の多様性やインド洋交易ネットワーク、あるいは失われた共同体の記憶を考えるための題材である。そこではユダヤ人は、アルメニア人やアラブ人、パールシーなどと並ぶ「かつてこの街を構成した人々の一つ」として理解される。
しかし、もし同じ内容がマレー語で広く流通した場合、その意味は大きく変化する可能性がある。まず到達する読者層が変わる。都市部の英語話者だけでなく、公教育を受けた大多数のマレーシア人、地方都市の住民、宗教学校出身者など、これまで英語圏の歴史消費から距離のあった層にも届くことになる。その結果、ペナンのユダヤ人史は一部の歴史愛好家の関心事ではなく、より広い国民的な記憶空間の中へ入っていく。
だが、そこで生じるのは単なる認知度の上昇ではない。マレーシア社会において、「ユダヤ人」という言葉は歴史上の少数民族を意味するだけではない。多くの場合、それはイスラエル、パレスチナ、ガザ、あるいは中東政治と結びついた言葉として理解される。
そのため、英語圏では都市史や移民史として読まれる内容であっても、マレー語圏では異なる文脈で受け取られる可能性がある。同じ史実であっても、英語では「植民地都市の歴史」として読まれるものが、マレー語では「現代政治とも関わる歴史」として理解されるかもしれないのである。
もちろん、だからといってマレー語話者が一様な反応を示すわけではない。実際には少なくとも三つの反応が考えられる。
第一は、歴史として受け止める人々である。この層にとって重要なのは、ユダヤ人そのものではなく、ペナンという都市の成り立ちである。彼らは「かつてのペナンは想像以上に国際的な港町だった」という事実に関心を持ち、多文化社会の歴史の一部として理解するだろう。
第二は、政治的・宗教的な文脈から解釈する人々である。ここでは植民地時代のユダヤ人共同体という歴史的事実よりも、「ユダヤ人」という言葉そのものが持つ現代的な意味が前面に出る。イスラエル・パレスチナ問題との関連で理解しようとする読者も現れるはずである。
第三は、無関心な多数派である。おそらく実際には、この層が最も大きいだろう。ペナンのユダヤ人史は興味深い話ではあっても、自らの日常生活や社会問題と直接結びつくものではない。結果として、「昔この街にそんな人々もいたらしい」という程度の知識として受け流される可能性が高い。
興味深いのは、この違いが必ずしも知識の多寡によって生じるわけではないことである。同じ歴史を読んでも、人々はそれぞれ異なる社会的文脈の中で意味を与える。英語教育を受け、世界遺産や都市史に関心を持つ人々と、宗教教育や国民教育の中で歴史を学んできた人々とでは、同じ「ユダヤ人」という言葉から連想するものが異なる。
つまり変化するのは歴史そのものではない。歴史を受け取る枠組みなのである。ペナンのユダヤ人史は、そのことを示す興味深い事例と言えるだろう。
消えたユダヤ人、残った華人とインド人
ペナンのユダヤ人史を考える上で、もう一つ興味深い視点がある。それは、現在の華人やインド系住民がこの歴史をどのように受け止めるのかという問題である。
マレーシアでは、華人やインド系はユダヤ人やイスラエル問題に対して比較的ニュートラルだと言われることがある。しかし、ここで重要なのは現代政治への態度そのものではない。むしろ注目すべきなのは、彼ら自身もまた植民地時代に形成された移民共同体の末裔だという事実である。19世紀から20世紀初頭にかけてのペナンには、中国南部から渡来した華人、南インドからやって来たインド人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人など、多様な移民集団が存在していた。
その意味では、ユダヤ人共同体は決して特別な存在ではなかった。むしろ華人やインド系と同じように、帝国の海上ネットワークによって形成された数多くの移民社会の一つだったのである。
違いは、その後の人口規模だった。華人やインド系は十分な人口を維持し、学校や宗教施設、経済ネットワークを発展させながらマレーシア社会の主要な構成要素となった。一方でユダヤ人共同体は小規模だったため、戦争や移住の波の中で次第に解体されていった。言い換えれば、両者の出発点はそれほど違わない。結果が違ったのである。
そのため華人やインド系の視点から見たペナンのユダヤ人史は、「遠い異国の歴史」であると同時に、「起こり得たかもしれない自分たちの歴史」でもある。もし移民の流れが異なっていたら。もし人口がもう少し小さかったら。もし教育機関や宗教施設を維持できなかったら。現在の華人社会やインド系社会もまた、歴史の中に痕跡だけを残して消えていたかもしれない。
その意味で、ペナンのユダヤ人史は単なるユダヤ人の歴史ではない。それは植民地港湾都市に生まれた移民共同体が、どのようにして存続し、あるいは消滅するのかを示す事例でもある。
今日のジョージタウンには、中国寺院も、インド寺院も、モスクも残っている。しかし、その風景の中にはかつて存在したユダヤ人共同体はほとんど見えない。だからこそ、ペナンのユダヤ人史は「彼らの歴史」であるだけでなく、「残った共同体が自らの過去を考えるための歴史」でもあるのである。
結論 ペナンのユダヤ人が残した問い
ペナンのユダヤ人共同体の歴史は、一見すれば小さな移民集団の消滅を描いた地方史に過ぎないように見える。実際、その人口は最盛期でも100〜200人程度にとどまり、マレーシアの歴史全体から見ればごく小さな存在だった。
しかし、その軌跡をたどると、そこにはペナンという港町の歴史だけでなく、マレーシア社会そのものを考えるための複数の問いが浮かび上がる。彼らはなぜこの島にやって来たのか。なぜ共同体は消滅したのか。そしてなぜその存在は長く忘却されていたのか。
共同体は戦争や追放によって断絶したわけではない。人口規模の小ささ、移住先の分散、都市構造の変化などが重なり合い、時間をかけて解体されていったものである。
むしろ重要なのは、その後に起きた「忘却」である。ジョージタウンは今も多文化都市として語られ、中国人、インド人、アラブ人、アルメニア人などの痕跡は街に刻まれている。しかしその中で、ユダヤ人の存在はほとんど可視化されていない。それは単なる人口規模の問題ではなく、独立後の国家がどのように歴史を選び取り、何を記憶として残すかという問題でもある。
近年、この空白は研究や出版によって少しずつ再発見されつつあるが、その広がりは限定的である。そしてその過程で浮かび上がるのが、「何語で語られるか」という問題である。英語で語られるとき、それはインド洋交易圏における移民史として理解される。しかしマレー語や現地的文脈で語られるとき、その意味は宗教や国家的記憶、さらには現代的な政治の想像力とも結びつきうる。
つまり変化しているのは過去そのものではない。過去に与えられる意味である。歴史とは事実の集積であると同時に、その解釈を通じて初めて立ち上がるものである。
ペナンのユダヤ人史が突きつける最大の問いは、「なぜ消えたのか」だけではない。「なぜ忘れられたのか」「なぜ再び語られ始めたのか」、そして「同じ過去がなぜ異なる意味を持ちうるのか」という問いである。
その意味で、この小さな共同体の歴史は、単なる地方史では終わらない。ジョージタウンの片隅に残るユダヤ人墓地は、消えた共同体の痕跡であると同時に、歴史とは何か、記憶とは何かを問い続ける装置として、今も静かに存在している。
エピローグ 最後のペナンのユダヤ人

墓石の上に置かれた小石は、ユダヤ教における追悼の習慣である。共同体は消滅したが、今もなお誰かがこの場所を訪れ、故人を記憶していることを物語っている。
ジョージタウンのユダヤ人墓地を歩くと、一つだけ比較的新しい墓石が目に入る。そこに眠るのは、モルデカイ・デイヴィッド・モルデカイ。2011年に89歳で亡くなった彼は、しばしば「最後のペナンのユダヤ人」と呼ばれる人物である。
彼の父デイヴィッド・モルデカイは1895年にバグダードからペナンへ渡り、イギリス領海峡植民地の商業社会の一員となった。モルデカイ自身もまた、ペナンを代表する名門ホテルであるE&Oホテルのマネージャーを務め、後にはカスアリナ・ホテルでも働いた。
興味深いのは、彼の人生そのものがペナンという都市の歴史を映していることである。E&Oホテルはアルメニア系移民のサーキーズ兄弟によって創業されたホテルであり、植民地時代の国際都市ペナンを象徴する存在だった。そこに勤めたバグダード系ユダヤ人のモルデカイは、まさに多民族・多宗教の港町が生んだ一人だったのである。
共同体そのものは、彼が亡くなるよりずっと前に消滅していた。しかし最後の一人は、この街に残り続けた。ユダヤ人墓地は過去の遺跡ではない。そこには、ほんの十数年前まで生きていた人の人生が眠っている。
だからこそペナンのユダヤ人史は遠い異国の歴史ではない。つい最近までジョージタウンの日常の一部だったのである。
