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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

最近読んだ本

※性的・暴力的な話を含みます。


シェハン・カルナティエカ「マーリ・アルメイダの七つの月」/権力から遠いどこかで

ガルシア・マルケス「百年の孤独」やサルマン・ラシュディ「真夜中の子供たち」の系譜に位置する、マジック・リアリズム(《超常的な出来事/天使・幽霊……》を現実的に描写する手法)を駆使した作品。
なんと本作はスリランカの小説。
筆者も生きている間にスリランカの方の作品を読む機会に恵まれるとは思わなかった。

本作の主人公はマーリ・アルメイダ。ゲイの戦場カメラマン。冒頭で死んでいて、与えられたリミットは七日間(七カ月ではないので注意)。
この七日間の間に、マーリ殺人事件の真相が解き明かされ、四つの軍事組織の入り乱れるスリランカの惨状が語られ、三ページに一度はジョークが挟まる。ついでに全編二人称。

(死後に行く場所についてマーリは尋ねている)「〈光〉って?」
「ひと言で言うと、あなたが必ず行くべき場所。詳しく説明するなら、詳しく説明する時間はありません」

p20.

個人的にはテロの跋扈する描写に、バルガス・リョサ「シンコ・エスキーナス街の罠」中の「この国に盗聴されない通信回線は存在しない」(不正確な引用)を思い出した。(嫌すぎる)
また、種明かしするとマーリを殺めたのは恋人DDの父親にして青年問題省大臣のスタンリー・ダルメンドランだが、その前の口論でマーリは「あの子をケンブリッジに行かせたのは、帰国早々、変態からエイズをうつされるためではない」(p252.253.)とゲイであることを理由に侮辱を受ける。
(牽強付会かもしれないが)ここで筆者は大江健三郎「同時代ゲーム」の「僕」が全身に化粧の薄紅を塗りたくり、「天狗のカゲマ(※男娼の意)」と村の笑い者になるエピソードを想起した。
天皇制は家父長制に依存する父権的な権力である。
ゆえに「僕」の性的な境界線の侵犯行為は、「僕」の「壊す人」との一体化への希望も含め、「同時代ゲーム」の一つの主題である《天皇国家主義と拮抗する別種の共同体・個人の成立可能性》として読めるはずだ。
本作においても、作中を通して権力の軽薄な嘘が人々を蝕む様が語られ続け、またそれが男性的な権力構造に依拠する点で、マーリとDDの同性愛は父権的権力に回収され得ない個人の可能性として読み解くことが可能ではないか。

DDの顔が見えた。改めて見ると、その顔は父親とはちっとも似ていなくて、彼は飛行機に乗って、どこか太陽がさんさんと降り注ぐ場所に降り立つのだった。お前は汚染された井戸を浄化する彼を写真に撮り、彼が微笑む白昼夢を見た。お前がずっとそうしてきたように彼もまた意味のない大義に人生を預け、二人して幸せになるところを思い描いた。人はみな意味のない大義を見つけては、それに人生を捧げずにはいられない。でなきゃ、息を吸って吐くなどという面倒なことをとうして続けていられるだろう?

「第七の月」p258.

リリー・ブルックス=ダルトン「世界の終わりの天文台」/壊れた家族の下に生まれて

ポストアポカリプス(世界崩壊後)を扱ったSF作品。
本作は二人の主人公、オーガスティンとサリーの物語が交互に進行する。
先に種明かしすると、孤独な老学者オーガスティン【第一主人公】は数多くの女を一方的に袖にしてきた。
彼の振ったジーンという女性の娘のサリー【第二主人公】は現在、地球からの通信が途絶えた木星探査船の内部にいる。
彼らの接触は物語後半に、それも互いに父娘とは判らないまま、呆気なく終わる。

本作の見どころはむしろ両者の機能不全家族に生まれたトラウマの回復のプロセスにあるだろう。
オーガスティンの母親は、おそらく重篤な双極性障害(躁うつ病)であり、安定した愛着関係をオーガスティンとの間に結べなかった。父親は恒常的に妻に暴力を振るい、オーガスティンに対しても攻撃性を示し続ける。
サリーも義父との間に親密な愛着は抱けず、母親とは前触れなく死別し、夫とは離婚している。
機能不全家族で育った子どもが成人後、適切な家族関係を作れず、暴力に依存したり愛着を絶ったりしてしまう負の連鎖が、彼らの生を蝕んでいる。

だが、オーガスティンはハシバミ色の目の少女アイリスと出会い、ついにはスノーモービルで新天地を求め旅立つ。
頑迷な彼がアイリスの絡まった髪を櫛で解くシーンは、静かな癒しの気配を漂わせて印象深い。
サリーも、険悪になっていた宇宙船のパイロットたちと信頼関係を取り戻し、再び他者との関わりを持とうと決心する。

正味、話にやや出来過ぎの感はある(幼少期の逆境体験は個人の意思を越え深い傷と欠落を遺す)が、世界中を旅した経験のある作者らしいイキイキした描写―例えば北極圏の動物たち(アジサシが巣を護るためオーガスティンを襲う場面は笑わない方が難しい)―は、本作の読後感を世界終末SFにもかかわらず明るくしているだろう。

なお、ポストアポカリプスものだと、筆者は他に
カート・ヴォネガットのユーモア溢れるSF(中国人がミニチュア化し人々の鼻に入る)「スラップスティック」やコーマック・マッカーシーの破滅的な暴力性に満ちた(幼神と庇護者のキリスト教ヴァージョンとして読むのも面白い)「ザ・ロード」の二作を思い出した。
どちらも滅びた世界で、老人と孫息子・娘たちが生きる共通点を持つ。
ちょっとずれるが、宮崎駿監督の(話が破綻しているがアニメーションは凄まじい)「崖の上のポニョ」もそうである。
滅び果てた世界は年老いた彼らの内面のメタファーだろうか。

―天皇・〈利用される神の末路〉―鈴木邦男・大江健三郎・三島由紀夫・謡曲・閑吟集など―

一水会の鈴木邦男氏の著書「右翼は言論の敵か」を読んでいたら、右翼少年の山口二矢の名が出てきたので再読した。
その後の「風流夢譚」事件は関係ない家政婦などにも怪我を負わせたのに対し
「山口二矢は社民党委員長の浅沼稲次郎のみを堂々殺め、潔く自決した。」
と、当時の右翼学生間で半ば伝説化されていたそうだ。
筆者はテロリズムも暴力も―きっと阿弥陀仏がお悲しみになるから―認めないが、しかし「私」を超えた存在を希求する姿勢には多少、共感する部分がある(それだけに手段が短絡的な暴力と結びついた点は悔やまれてならない)。
(追記:私の言葉足らずによる誤解を防ぐため追記すると、鈴木邦男氏はテロなどの暴力による革命の可能性についてはっきり否定しておられる。
皓星社から出ている紙礫シリーズの「テロル」後書きに詳しい、興味のある方はぜひ)

こうして、背景を知って「セヴンティーン」「政治少年死す」の連作を読むと思わず口にしてしまう―
「大江さんよくぞご無事で」
山口二矢をあからさまに模した少年を徹底して笑いのめし(いきなり自慰と恥垢の話から本作は始まるのだ)、最後の死まで非神秘化するこの連作短編は、多くの―右翼に限らず―人々にグロテスクな感覚を抱かせただろう。
だが、ここで何より笑われているのは恐らく、天皇という―結果的に「超越者もどき」となった―神の存在なのだ(私は、最大の悪は天皇そのものではなく周辺の「愛国者もどき」と思うが)。
大江さんはその後も、「みずから我が涙を拭いたまう日」(主語は「天皇陛下」)や前述の「同時代ゲーム」・晩年の仕事レイト・ワークの「取り替え子チェンジリング」や「水死」を通じ、前者では天皇制・父権的権力をパロディー化し、後者では拮抗する周縁的世界を生み出していく。


筆者は鈴木邦男氏も含めて、もちろん、右翼思想には賛同できない。
ただ、確かに日本国民は日本という国がどのような国か―平和憲法の国か、天皇を戴く国か、アメリカの植民地か―きちんと考えず、偽りの民主主義と経済至上主義の間で、体を引き裂かれるように生きてきた。
(筆者もその一人である。「日本とはどういう国ですか」と聞かれても、とても答えられない)
そうしたあいまいな国家認識の継続は、結果的に国家を《私たち国民が自由に作り変えていく共同体》として捉える視点を喪わせた。
そして硬直した愛国主義者による国家観の簒奪を容易としただけでなく、左派的な民主共同体と右派的な天皇理想国家の妥協点を求めることすら困難にさせ―当の日本国に確たるイメージがないのだ―、結果的に個々人が個々人なりの国家観を深めることも妨げる負の循環を引き起こし、日本という国家の未来像をも奪った。


話が少し逸れるがドストエフスキーの「悪霊」を読んで、無神論者はむしろ強く神を求めると感心した記憶がある。
牧師が悪魔の恐ろしさを説き聞かすうち悪魔崇拝者の熱烈さを帯びるように、熱心な無神論者はヨブの切迫を帯びるようだ。
では、本当に神を求めない者は誰か。それは、神を利用しようとする者ではないか。「苦しい時の神頼み」―いざという時だけ神を欲し、それが終わればケロリと忘れてしまう。

そして筆者は、歴代の天皇についても似たことが言えるように思うのだ。
天皇の戦争責任を否定するつもりはない。
が、右翼の言葉を借りるなら、天皇は常に奸臣に―神をほしいままにしたがる人々に―囲まれていたのも事実ではないか。
筆者は太平洋戦争を巨大台風の被害同然に捉え、日本国民の戦争責任から目を逸らすのも、悪辣な軍部に国民が騙された結果と捉えるのも、等しく欺瞞と思っている。
実際は、私たち日本人はずっと神を―天皇に代表される超越者や超越性を―苦しい時だけ都合よく利用し、そして使い棄ててきたのではないか。雨乞いが上手くいかないとき水源に牛の死体を放り込み、水神を怒らせ雨を降らせようとするように。

以下、阿満利麿氏の「日本精神史」を参考に話を進めたい。
日本において、中世における無常観は近世において―民衆の生産力の向上などを背景に―現世至上主義へと姿を変えた。
阿満氏はここで十五世紀の「閑吟集」を引用しその刹那主義的発想に言及される。

うき世は風波ふうは一葉いちようよ(中略)たゞ何事もかごとも ゆめまぼろしや水のあわ さゝの葉にをく露のまに あぢきなの世や 夢幻や 南無三宝 くすむ人(注:まじめくさった人)は見られぬ ゆめのゆめのゆめの世をうゝつがほして なにせうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ

p223.

ただしこの時点では平安末期の今様を収録した「梁塵秘抄」の仏教色の強い今様、例えば

われらは何して老いぬらん
思えばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の
弥陀の誓ひを念ずべし

同様、「南無三宝」(※「三宝」は「仏、法、僧」、「南無」は「帰依する」の意)―彼岸の超越性を希求する言葉が(ただし意味を持たないつなぎ言葉という説もあるが)現れてはいる。
(追記:なお、同じく中世の謡曲には数多の死者の痛切なあり様が残されている反面、死者が生者に死後の供養を望む一方的「弱者」として固定化される傾向があるのも事実であり、それはひいては死者の声を固定化する暴力性(太平洋戦争末期の「英霊」のように)を帯びている。
一説では享受対象であった上級武士たちの殺生の苦痛を緩和する目的があったともされる。)

だがこの刹那主義は、例えば「好色一代男」で女護の島―かつての補陀落渡海の成れの果てだろうか―を描いた井原西鶴、死後の世界を人はただ悲しみつつ受け入れる他ないと言い切った本居宣長、仏はバラモン教を乗っ取った詐欺師で我々はただ美味いものを食い四季を楽しめばそれでよいと謳った宣長の弟子平田篤胤など、江戸期の世俗・現世主義的な言論に回収されていく。
以下は阿満氏の本居宣長についての発言を借りる。
これらの発想は「日本の現世主義のいたりついた姿であって、(略)荒廃した精神を感じてやまない。」
そしてこうした思想の下では死、巨大な暴力、説明を拒む恐怖など様々な「不条理に納得する道が閉ざされることになる(略)」。
(追記:ただし仏教がひたすら苦痛に満ちた六道の輪廻転生から抜け出る道を示し得ず(葬式仏教化の弊害として起こる他界観の劣化)、人々の生死を受け止めるだけの内実を喪った際、特に平田篤胤の楽観的な死生観が民衆にとって一つの救いとなっていた可能性は否定できない。)

そしてこうした根深く現世を至上と見なす思想が、明治政府による人工的な一神教(天皇崇拝)をそのまま受け入れるはずもない。
明治期の人工的な天皇崇拝は、大日本帝国という国家の成り立ち同様、西洋的な一神教の稚拙なパロディーに過ぎなかった。
その空疎な実態を覆うため、大がかりな儀式だけが周辺に、とめどもなく配置されていく。
一方で、そうした人工性は現実を生きる個々の人々の心の拠り所たり得ない(靖国神社が最たる例だ)。
結果、民衆の心性は江戸期の延長線上にある現世主義を一段と強め(明治政府による神道の国家神道化と廃仏毀釈が拍車をかける)、他方、超越者である天皇の存在は空疎な儀式と国家という暴力装置の元、神棚に上げられる。
そのため軍部という権力が天皇の存在を建前に人々を弾圧した際、民衆の側が抵抗する根拠となる固有の超越性・超越者が存在せず、その結果、国民は地上的な権力の隠れ蓑としての《超越者・天皇》の支配下にたやすく置かれる。
そもそも、天皇の超越性とは薩長閥による《クーデター/武力による不正な権力の奪取》を正当化する恣意的な装置でしかない以上、建前として後付け的に見つかる根拠は「記紀神話」という荒唐無稽なファンタジーと「万世一系」の二つしかない。
(追記:「万世一系」は中国の易姓革命論(為政者が悪政を敷いた場合は天が為政者を改める/ならば天皇の万世一系は天皇が常に善政を敷き続けてきた証拠である/辻田真佐憲氏「「戦前」の正体」より)を前提に初めて意味を持つ。それが西洋近代的な国家モデルを参考に成立した大日本帝国で単なる茶番なのは言うまでもない)
そのため仮に天皇の権力の根拠を無理に求めるなら
「神聖不可侵であるゆえに神聖不可侵」
―同語反復の空虚な言葉以外では言い表せない。

この、《権力を支える根拠の不在性/権力の中空構造》は現代日本でもしばしば見られる。
いじめの構造である。
そこで《なぜいじめるのか》《なぜいじめられるのか》という問い、またその問いに対する答えは、あらかじめ禁止されている。
いじめとはそうした問いや答えを禁ずることによって成立する硬直した権力に依存する関係性であり、それゆえその内部にいる人間は、一度関係性に取り込まれてしまえば問う権利と答える権利を―加害者であれ被害者であれ―手放す他ない。(この論は劇作家別役実氏の「ベケットと「いじめ」」から多くの示唆を頂いている)
特に太平洋戦争下の大日本帝国は、さながら国民総出でいじめを行っていたようなものだと筆者は認識している。
誰も権力・天皇の起源を問うことなく、共犯的に《虚ろな中心/単なる建前》を《超越的な意味/本音》に見せかけ続ける共同体。
誰もその実態は不在であると気づきつつ―「非国民」「反日」「共産主義」―外部からその不在を指摘するものには《敵》のレッテルを貼り、内部の結束はますます強固になる。
その最も致死的な欠陥は、共同体に本当の超越性が訪れ得ないことにある。
雲の上の《畏れ多い天皇陛下》は、聖書の神のように厳しくも人と対話することもない。阿弥陀仏の―私のように下等な凡夫さえお見捨てなさらない―慈悲もない。
信じるに能わない《超越性・超越者》は、単なるハリボテと化す。 
そして共同体の構成員は虚ろな建前/《超越者・天皇》の有する権力の下に、自己の世俗的な欲望をいたずらに満たし出す。
その先にはとめどないエゴと、自己愛に従う欲望への隷属がもたらす、魂の自己幽閉の闇のほか何もない。

ここから少し作家の話に移る。
三島由紀夫の、挫折する革命青年を扱った「奔馬」、天皇への呪詛と希望とが入り混じる「英霊の聲」、天皇を日本文化の保護者として体系づけた「文化防衛論」といった著作を読んだことのある方は、どこか空回りの印象を受けたのではなかろうか。
個人的にその理由を辿るなら、恋焦がれられ、呪われ、また期待される《天皇・超越者の存在》が(公と私の死の融和が艶やかな「憂国」を例外として)ハリボテ同然のためだ。
三島由紀夫は戦後日本に深く絶望し、激しく超越性を希求した作家だが、その最後に選ばれた天皇の存在の虚ろさは見るに堪えないものがある。
人間の醜い権力欲を満たすため恣意的に操られ、雨乞いに失敗すれば首を刎ねられるてるてる坊主のようになみされ続けた神を、そもそも作家一人の力で蘇らせるのは始めから不可能だったろう。
結局、中身を欠いた―「大御心」「赤心」「英霊」―格式ばった言葉だけが、人間の欲望に食い漁られた跡の白骨のように転がるばかりだった。

三島由紀夫の確かに切実な魂の試みが、しかもついにベニヤ板のハリボテにしか行きつかなかった事実に、筆者は日本における超越性・超越者を志向する精神の働きの貧しさの末路を見る思いがする。
(※1.遠藤周作が戦時中の人体実験を書いた「海と毒薬」や長崎の隠れキリシタンを書いた「沈黙」にも同様のテーマが見られる。
ただ、遠藤周作においては《日本/西洋》という図式的な構図に話が留まり、日本固有の精神構造を突き詰めて問う前に、ともすれば感傷的な嘆きが先走るきらいがあった。
また、筆者は遠藤周作が作品内で示す、「日本人固有の超越者・超越性への感覚の弱さ」など存在しないと認識している(それは短絡的な民族主義のもたらす思考停止ではないか)。
どの国でも起こり得る特定の時代や状況の連続が、結果的には日本において超越者・超越性探求への道筋を絶った、とするのが実情ではないか。)
(※2.大岡昇平「俘虜記」の、(終戦前四日間の死者のためにも)「天皇は有害である。」と断言する記述に見られる天皇制への批判は確かに切実だが、反面―その境遇からすれば当然だが―天皇を「仮想敵」として過剰に攻撃する側面も否定できない。
天皇という一者に戦争責任を負わせる思想は、その背後の軍部は元より、当時の日本国民全体の負う戦争責任を不透明化する危険がある。)
(※3.この点、日本共産党(後に除名されたが)党員の中野重治「五勺の酒」中の記述「どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙じゅうりんされた個があっただろう。」の一文は、天皇制を当時の「アカハタ」に代表される共産主義者の硬直した攻撃対象から解放し、その上で存在を問いただす思想的な深さを帯びている。)
(※4.大江健三郎「宙返り」中の記述「―(略)オレハ、神ナシデモ、rejoice(筆者注:喜びを抱け!)トイウヨ。自分ニ、マタ……」)の記述は、超越者不在の個人の可能性を追うものとして興味深い。
ただし、十分な根拠も示さず言うが、ここには天皇制に見られる《擬似宗教の帯びる権力構造の垂直性》に対抗する《個々人の魂の水平性》の優越を示したものとして、「燃え上がる緑の木」から継続する主題が扱われていると認識するが、そこでは反面、他ならぬ一個人において働く権力と断絶した宗教性について、十分深められていないのではないか。)

最後に坂口安吾の「続堕落論」から引用する。

藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、おおむねそれを支持している。

こうして書いて、改めて思う。天皇が神であった試しなど一度もないのではないか。
薩長閥や軍部、ときに愛国者や保守主義者を名乗る連中―何であれ権力を欲する集団―によって批判を封じ込める中空構造の権利保障書として担がれ続ける《利用される神スケープゴート》。それが大日本帝国/日本国における天皇ではないか。

例えば明治天皇はこんな歌を読んでいる。

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

一般的には日露戦争開戦前、戦争の回避を願った歌と解釈される。昭和天皇も太平洋戦争開戦前に引用した。(保阪正康氏の著作に詳しい)
平成天皇は平成十三年、

桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。

宮内庁ホームページより引用

と述べている。
こうした歴代天皇の平和を求める信条を、時代時代の権力者は(強い言葉になるが)常にレイプしてきた。

筆者はこれまで―特に昭和天皇の存在から―天皇という存在を再び国家主義的な暴力を誘引する火薬庫のように捉えてきた。
だが、実際には天皇は《利用される神》として、権力を志向する人々の欲望に常に蝕まれ続けた存在ではないか。
そして、その《超越性・権力》の中空構造の危うさ(例えば現憲法の「日本国の象徴」という言葉の曖昧さにそれは残っている)を、私たち一人一人も突き詰めて考えようとはしてこなかった。
《利用される神》の空虚に甘んじ続けた私たちの精神は現在、死後の不安と生の苦しみの拠り所を見失ったまま、静かに滅びつつあるのではないだろうか。

なお、鈴木邦男氏の著作はどれも面白い。ぜひお勧めする。右翼の人々の思想の一端が伺え、面白い。
特に社民党の福島みずほ氏との対談は記憶に残っている。下手な二時間ドラマより波乱万丈の内容である。

さすがに話が逸れすぎているので、以下は読まなくてもいい。
これも阿満氏の受け売りだが、天皇制は浄土真宗における門主制と相似形である。
例えば真宗教団は―もちろんその他宗派もそうだが―積極的に戦争協力を推し進めた。例えば、
「大谷派では(略)戦闘機パイロットの養成まで実施していた。実際に練習機二機を購入し、法主が「翔鸞」、総務総長が「飛鸞」と命名した。」(鵜飼秀徳氏「仏教の大東亜戦争」)
(ただし竹中彰元など阿弥陀仏の御心に従った僧侶も(僅かにせよ)いた。碧海寿広「近代仏教とは何か」)

人は野球の中継を見たり、歯医者の治療を待ったりしながら南無阿弥陀仏と念仏を唱え続ければよく、抹香臭い寺やら門主やらは本来不要な付属物だが、しかしそうした《儀式的なるもの》が、親鸞本来の超越者《阿弥陀仏》への切実な希求性に、安物の絵の具のように塗りたくられてしまった。上記の戦争協力はその最たる例だ。
ただ実際、真宗教団不在では親鸞は法然の一弟子として仏教史の片隅に留まっていた可能性も否定できず、また人々が阿弥陀仏という超越者より親鸞とその血筋という具体的なリアリティを伴った「生き仏」の存在に生の苦しみを慰められていた部分は否定できない。
だから今から話すことはそうした人々を余計に悩ませるかもしれず、また―誰とであれ―論争が目的ではないので他言はしないでほしい。
いくら親鸞の血筋を引こうが、門主とて凡夫―クソバカ、その一点で、私やあなたと何一つ違いはない。
阿弥陀仏の前において、人間はすべて等し並に凡夫である。天皇も、どこかの国の大統領も、人殺しも、放火魔も、私も、あなたも、等しく凡夫である。


天皇という存在を本当の神、人の都合次第で人にされたり神にされたり忙しい操り人形の神もどきではなく、真実の超越者として体系づけようとする右翼の神学者がいるのは筆者も知っているし、そうした人々に私の物言いは耳障りであったと思う。
ただ、私の信じる阿弥陀仏教(こんな言葉はないが、筆者は血筋や権力ではなくただ阿弥陀仏のお誓いのみに帰依するのでこの造語を使う)が門主制という権力構造に取り込まれたように、天皇教も天皇を現人神として戴く以上、利用しようとする地上の権力が必ず忍び寄ってくるだろう。
超越者を求める心性は人間の生に不可欠だから、右翼の天皇教創設を―それが大日本帝国下でそうあったように宗教であることを表向き否定する狡猾な暴力装置となり、他者の信仰の自由を脅かし、また日々を生きる人々の生を無闇に損なわない限り―私は否定しない。
ただ、もし本当に天皇という存在を神として祀る―絶対的な一者として体系づける―なら、無数の空疎な儀式と権力欲が強姦魔のように訪れ、必ずそこにあるはずの真実や美を血まみれになるまで犯しに来る。
その危険は―阿弥陀仏の教えが真宗教団の下で歪められ、人殺しの動機に成り下がったように―常に忘れてはならない。
超越者への帰依は常識的な判断の停止でもある。それゆえ人は超越者の前では無垢となる。そして子どものようにたやすく騙せる。

もし天皇教の成立が難しそうなら、ぜひ阿弥陀仏教へ見学に来てほしい。そのまま入信してくれれば、阿弥陀仏がお喜びになる。

近松門左衛門「心中天の網島」/損なわれゆく彼岸性 

江戸期に超越性・彼岸・死が等しく見失われていった―さながら現代の似姿のように―ことを阿満氏の「日本精神史」の内容をお借りして述べたが、ここではもう一つの例を示したい。
近松門左衛門の「心中天の網島」は、ダメ男治兵衛と甲斐甲斐しい妻のおさん、遊女の小春の三角関係が、最終的に治兵衛と小春の心中で決着する心中物だ。
(※谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人の女」や宇野千代の「おはん」を思いだす)
タイトルの「天の網島」は、この二人の心中の舞台「網島」と、二人の死が阿弥陀仏の請願の網(天の網)に救われたことの掛け言葉となっている。

近松の心中物なら、「曽根崎心中」の

この世の名残。夜も名残。死ににゆく身をたとふれば 仇しが原(注:墓所)の道の霜。一足づつに消えてゆく。夢の夢こそ あはれなれ。

「新潮日本古典集成」p97.

が名文として名高いが、「心中天の網島」にも、

問へば分別のあのいたいけな貝殻に。一杯もなき蜆橋しじみばし。短きものはわれゝが。この世の住居。秋の日よ(略)

「新潮日本古典集成」p308.

と、負けず美しい一文がある。

以下、諏訪春雄氏「聖と俗のドラマツルギー」収録「道行・やつし・他界」の内容をお借りする。
諏訪氏は近松の心中ものに「道行」―場所の移動―がクライマックスの「心中」直前に置かれ、かつ「道行」が他界への移行を示す象徴性を帯びていることに言及される。
確かに前述したどちらの文にも、この世の無常を詠嘆し、《心中・死・彼岸》へ向かう指向性を確認できる。

ところが、時代が下るにつれこの「道行」が形骸化していく。
近松半二が「心中天の網島」を改作した、約五十年ほど時代を下る作「心中紙屋治兵衛」中の文を、諏訪氏の著作から孫引きになるが、引用したい。

「外へ来たるは小春じゃないか。」「治兵衛様か。さぞ憎かったでござんせふ。段々のいひわけ。」「何にもいやんな女房どもに様子は聞いた。」「生きて居られぬ二人が身の上。」「そんならお前も。」「ヲ、覚悟はよいサアおじや。」と。(略)今ぞ此世の離れ際。既に刀を抜き離す。

「聖と俗のドラマツルギー」p232.

近松の切実な道行と比べたとき、本作のそれは単なる茶番でしかない。
また、本作はタイトルに心中と銘打つものの、最終的に治兵衛と小春の心中は食い止められ、原作とは異なりハッピーエンドで終わる。

この間、確かに江戸幕府による心中物の取り締まりがあった影響も否定し得ない。
しかし著者の諏訪氏の言を借りれば、
「何事も現世の人間の力で解決できると傲慢な自負を持つようになったとき、文学や芸能から道行き(筆者注:他界/浄土への通路)が消えていく。」
その影響を見るべきではないか。

(※1.江戸の現世主義と相反する部分が近松門左衛門の戯曲には見られる。松尾芭蕉の俳諧や上田秋成の諸作品など含め、確かに江戸においてすべての芸術が現世主義に与したわけではないだろう。
だが、近松の戯曲において死の不条理性は心中―それも身の自由のない職業娼婦との―の感傷的な詠嘆に留められ、それを乗り越える超越者・超越性の兆しが見られないのも事実ではないか)

死を見失ったとき、人は生をも等しく見失う。その後は冷え固まった油脂のような、虚ろな生の他には何をも持ち得ない。
筆者は現代、明白に文学―芸術の力が衰退している現状に、江戸の再来を見る気がするのだ。
死が人々の間から見失われ、人は老いてなお生きようとする。生と死の不条理を受け止める他界はとうになく、暴力的な現状肯定論が虚しい力を持つ。
私たちは私たちの魂を、今緩やかに殺めながら生きているのかもしれない。

三島由紀夫「橋づくし」/他界はもはやどこにもなく

その「心中天の網島」の「道行」にあたる「なごりの橋づくし」から着想を得たのが三島由紀夫の短編「橋づくし」。エピグラフには引用した近松の文が掲載されている。

三島由紀夫がこの短編を書いた一九五六年時点で、日本ではすでに他界が見失われて久しい。
ゆえに近松の道行の有する彼岸性も、本作では生の卑俗に侵されざるを得ない。

満佐子、小弓、かな子ら三人の芸者に女中のみなが加わり、口を噤んで七つの橋を渡りきれば願いが叶うという俗信を試すが、結局渡りきれたのは下っ端のみな一人だけだったという、本作単独では三島のよくある皮肉なコントの一つとしてしか読めない本作は、しかし近松の道行を重ねて読むとき、その猥雑化に見るに堪えない感がある。
近松においては、曲がりなりにも彼岸への通路だった橋は、「橋づくし」では金や「好い旦那」が欲しいといった、三人の芸者の卑俗な欲望を満たす場所に落ちぶれている。
また、作中では冒頭から小弓の激しい空腹が語られ、かな子は途中で激しい腹痛に襲われ、満佐子は警察に腕をつかまれ強い痛みを覚える。
律儀に三人の肉体的な感覚が語られているのは、彼岸を求める魂を欠いた戦後日本において残るのは虚ろな肉体の存在感のみだという、一つのアイロニーとして深読みすることもできなくはない。

本作の謎は、浅黒い「弾力のある重い肉」の持ち主であるみなが橋の道行で何を願ったか、だ。
「「一体おまえは何を願ったのだい」
そうきいても、みなはにやにや笑うばかりで答えない。」
これは作中に明記されていない以上推測するしかないが、おそらく、みなは何も願わなかったのではないか。
もし人間の生の目的が明日も生き続けることだけなら、ことさら何かを願う必要もない。
動物的な印象の残るみなは、戦後日本の他界なき世界において、尊厳を失い、動物と化していく「エコノミックアニマル」の先取りだったのではないか。
筆者の深読みのしすぎかもしれないが。

その他読んだもの(高山羽根子「パンダ・パシフィカ」安堂ホセ「デートピア」井戸川射子「この世の喜びよ」平野啓一郎「息吹」三島由紀夫「黑蜥蜴」江戸川乱歩「宇宙怪人」カーソン・マッカラーズ「哀しいカフェのバラード」ドストエフスキー「死の家の記録」シュテファン・ツヴァイク「ジョゼフ・フーシェ」)

高山羽根子「パンダ・パシフィカ」:途中出てくるパンダの雑学だけ面白い―何でも我らファッキン・ジャップの真珠湾攻撃のせいで中国からアメリカへのパンダ輸送が危ぶまれたそう。

安堂ホセ「デートピア」:死人が出たテラスハウスを連想させる恋愛リアリティショーを扱った作。人種問題の問題提起が強すぎ啓発パンプレットと化している。
すでに社会問題化している課題を扱うときはその作家固有の視点がないとNHKのドキュメンタリーで終わってしまう。

井戸川射子「この世の喜びよ」:子育てを終えた母親が高校生の少女と会って他愛ない話をしつつ育児経験を総括する。
感想としては終わった「母」という役に主人公の女性がいつまでしがみつくか不安になる。
筆者は、子がある程度成長したなら母は(もちろん父も)「母」や「父」、「親」を辞めていいと思う。
無理に続けても辛いだけだろう、子も、親も。
本作の話に戻ると、子供の遊ぶ砂場にカッターが混入していた匿名の悪意の冷ややかさと、対照的に子どもが遊ぶ間は暇でマンションの洗濯物を眺めるくらいしかやることがない育児のユーモアが、それぞれ記憶に残った。

平野啓一郎「息吹」:抹茶かき氷を食ったかマクドナルドを食ったかで生死が別れる並行世界を生きる男の話。
平野氏の作は「着想が見えすぎる」(元は蓮實重彦氏がクリストファー・ノーランの映画について言っていた感想)のが苦手だが、本作の抹茶かき氷の「甘さへのアイロニーみたいな苦味」という描写は素敵だ。読んでて舌がピリリと苦くなった。
一度誰かに言ってみたい、「ふふ、まるで甘さへのアイロニーみたいな苦味だね、なんちゃって、ふふふふふ」

三島由紀夫「黑蜥蜴」:江戸川乱歩の原作は「僕」が一人称の女賊黑蜥蜴のケレン味や、ちゃっかり「人間椅子」のアイデアを再利用する辺り「大人の童話」として楽しいが、三島由紀夫は戯曲化に当たって黑蜥蜴と明智探偵の非凡な愛に焦点を当てた。
三島は芥川龍之介「地獄変」も戯曲化し、そちらは(理知の勝った作家同士ということもあり)成功しているが、江戸川乱歩の愛すべき稚気を欠いた本作はやや原作に劣る。
それでも椅子の中の明智探偵を縛りあげ、水底に放り投げた(つもりの)黑蜥蜴の以下のセリフは実に三島。

黑蜥蜴:夜光蟲があんなに光つてゐる。
(筆者注:手下である)松吉……。
黑蜥蜴:この世界には二度と奇蹟が起らないやうになつたんだよ。

江戸川乱歩「宇宙怪人」:歌人穂村弘氏のエッセイ「整形前夜」から。宇宙怪人(実は怪人二十面相)が地球に襲来し、人々をさらう。氏の言う通り、確かに謎が解かれた後の世界は少し味気なくても構わない。夜の美しい夢の後、真昼など常に醒めているものだ。

カーソン・マッカラーズ「哀しいカフェのバラード」:村上春樹氏の新訳。山本容子氏の銅版画が美しい。
あらすじ:あるやり手の女性ミス・アミーリアのもとに一人の「せむし」(※現代では差別用語。背骨の湾曲した人間の意)カズン・ライモンがやってくる。彼らは不可思議な恋に落ち、素敵なカフェを始める。
ところがミス・アミーリアにとことん殴りつけられ(比喩ではない)た不幸な元結婚相手のマーヴィン・メイシーがやってきてから、その幸福は狂い始める。「彼(※マーヴィン・メイシー)はライモンに対し異様ともいえるほど強い影響力を行使し、ライモンとアミーリアの関係をあっさりと裂いてしまう。」
アミーリアは精神的に破滅し、ライモンとメイシーは街を去っていく。
この不可思議な寓話で、特に作品全体を照らし出す一部を書き写す。

まず第一に愛とは(略)愛するものがいて、愛されるものがいる。(略)往々にして「愛されるもの」とは、(略)「愛するもの」の内に静かに蓄積された、愛のすべてに対する一個の刺激物に過ぎないということがある。そしてすべての「愛するもの」は(略)そのことを承知している。自分の愛は孤立したものなのだと、心の底で感じている。(略)それゆえに苦しむ。だから「愛するもの」にとってなすべきことはひとつしかない。それはできるだけしっかり、愛を自分の内奥に閉じ込めておくことだ。(略)
(略)どんな異様な人物であれ、愛の刺激物になり得るのだ。(略)とことん凡庸な人間が、沼地の毒性の百合のように野性的で絢爛に美しい愛の対象になるかもしれない。善良な人が暴力的で下劣な愛の刺激物になるかもしれない。戯言ざれごとを喋りまくる狂人が、誰かの心に優しく素朴きわまりない田園詩を呼び込むことになるかもしれない。(略)どのような愛であれ、その愛の価値と内容は「愛するもの」その人によってのみ決せられるのだ。
(略)愛されるものは愛するものを恐れ憎むが、それにはもっともな理由がある。なぜなら愛するものは、愛する相手を剥き出しの裸にしようと、永遠に試み続けるからだ。愛するものは愛する相手とのあらゆる関係性を切望する。たとえその体験が本人に苦痛しかもたらさないとしてもだ。

p53.54.55.

ドストエフスキー「死の家の記録」:米川正夫訳。ドストエフスキーの小説にはしばしばタイムマシーンの使用疑惑がある。

向こう見ずな人間について語るのは困難である。(略)ある種の犯罪にいたっては、きわめて初歩的な観念さえ持つことができないような場合があるのだ。(略)わが国の下層民の間では、きわめて驚くべき原因から、ある種の殺人犯が生じるからである。(略)その男は静かにおとなしく暮らしている。苦しい運命を背負いながら、じっと辛抱している。かりにその男を百姓としてもよし、邸づとめの下男としても、町人、兵隊としてもよい。とつぜん、心のいとでもぷつりと切れたかのように、彼はたえきれなくなって、自分の敵であり迫害者である人間を、短刀でぷすりと刺してしまう。(略)それはもちろん、悪いことではあるが、話はわかっている。そこにはちゃんと動機があるのだから。ところが、それからあとは、(略)手当たり次第の人間を斬るのだ。(略)目つきが気に喰わんとか、数を丁度にするためだとかいって、人を斬るのだ。(略)あらゆる掟や権力を一挙に飛び越してしまい、思いきって放埒ほうらつな無制限の自由を享楽し、この恐怖に胸のしびれるような感覚を味わいたくて、しじゅうむずむずしているような具合である。(略)のみならず、彼は恐ろしい刑罰が自分を待ち受けていることを知っている。(略)ちょうど人が高い塔の上から足下の深淵に吸い込まれそうな気がして、ついにはいっそ自分から真っ逆さまに飛び込んでしまいたいと思う、あの感覚に似ているかも知れない。(略)彼らは自ら一種の絶望(筆者注:絶望に強調点)を装う。(略)この付け焼刃の絶望(前同)を身に着けているのが(略)たえがたくなって、ひと思いに(略)やってもらおうという気になるのだ。(略)こうした付け焼刃のから元気は、多くの場合、(略)笞刑むちけいがすむと、ぷっつり断ち切ったようになくなってしまう(略)。まるで、(略)定められた法則によって、何か一種正式な期限が指定されてでもいるような具合である。(略)笞刑の場ではめそめそして、人々に赦しを乞いなどするのである。やがて、監獄へ入って来るところを見ると、(略)鼻たれ小僧よろしくの男で、(略)『いったいこれが五人も六人も人殺しをしたという当人なのだろうか?』と呆れ返るくらいなものである。

p121.122.

シュテファン・ツヴァイク「ジョゼフ・フーシェ」:フーシェはナポレオンさえ追い詰めた恐るべきマキャベリストだが、現在ではほとんど忘れ去られている。
フランス激動期の、あるときは絶対王政、あるときは立憲君主制、またあるときは共和制、またあるときはナポレオンの帝制と目まぐるしく移り変わる政治体制をのらりくらりと躱し、秘密警察と陰謀を張り巡らして、フーシェは権力の座にあり続けた。
しかし、最後は自らが招いた復古王政がトドメを刺す。
それはルイ十八世の姪っ子、アングレーム公爵夫人だった。
彼女はあのルイ十六世とマリー・アントワネットの実の娘。彼女が、かつて父と母を殺めた仲間のフーシェを赦す義理などあるはずもない。
策士策に溺れる。稀代の策略家フーシェは、最後は自らの招いた王によってドレスデンの閑職に追いやられ、かつての金と地位で手に入れた若妻も寝取られ、無様に死んだ。

……とツヴァイクは(辛口のユーモア込みで)書いているが、どの程度まで客観的な記述かは疑わしい。
あのナポレオンさえ手玉に取った狡猾な男が、己の妻の浮気だけは気がつかないことなどあるだろうか。
しかも晩年、フーシェは彼が握っていた様々な書状―あらゆる立場の人間にとって枕が低くなる類の―を一律に処分した。ツヴァイクの記述では、この行動の動機が不分明ではないか?
フーシェは、長らく政治の世界に身を置くにつれ権力の虚しさに気がついたのではないかと筆者は身勝手に想像している。
あの太陽も落とす勢いのナポレオンは惨めに落ちぶれ、誰も彼もギロチンの血錆と化けていく。
そんな時代を生き延びて、晩年のフーシェは厭世者や世捨人の域に入っていたのではないか。妻の浮気も知っていたが、承知の上で見逃していたのではないか。
そんなことを思った。かわいそうなフーシェ。かわいそうでもないか。

追記:父権的権力に潰される女性たちの神

浄土宗・浄土真宗が父権的権力に与するに従い、本来男女の別なくお救いになる阿弥陀仏の教えも歪められていった。
そもそも、知恵あるものも無知なものも、富める者も貧しきものも、善人も悪人も等しくお救いになる阿弥陀仏が、なにゆえ男女の違いだけにこだわるだろう。
阿弥陀仏は誰一人をも差別せず、等しくお救いになる。誰一人、そのお誓いから排除なされない。

少し話がそれる。
明治政府は国家神道を天照大御神―天皇の系譜において構築したが、その前には出雲大社の大国主と伊勢大社の天照大御神のどちらを主神とするかで一悶着あった。
それだけではなく、江戸の多様な神道―富士講に代表される山岳信仰など―を、国家・父権的権力として集約するため、そのいくつかを排除する必要があった。
そのため、神道と国家神道は似て非なるものである。
前者は原始的な自然宗教(その定義は阿満利麿氏の著作に詳しい。大まかには具体的な創設者を持たない宗教)、後者は国家の暴力を正当化する擬似宗教である。
この違い―特に国家神道が暴力の正当化装置であること―を覚えてほしい。

中山みきはもともと浄土宗の信徒だったが、その女性蔑視的な教義に満足せず神がかりを起こし、天理教を創設した。
天理教は神道系の宗教と見なされているが、その教義は明治政府による国家神道の硬直性と比べたとき、きわめてユニークである。
同様に、出口なおも神がかりを起こし、やはり神道系とされる大本教を興した。
彼女たちの創設した宗教は―迷信的な部分があったのは事実だが―農村の父権的権力の下で喘ぐ女性たちの魂の解放として、日本の精神史・宗教史において小さくない出来事だと筆者は考えている。

だが、前述の《暴力装置―国家神道》が彼女たちの宗教を弾圧していく。
その結果、大本教、天理教ともに、本来の革命性を喪失し、戦争協力―父権的権力への従属―を余儀なくされていく。
この一連の出来事に、筆者は日本という国家の根深い病理を見る。
即ち父権的権力が女性たちの魂を抑圧し、犯し、殺めていく―それは現代も、その本質において何一つ変わっていない。

日本では、本来は人を差別から解放するはずの宗教が、神道・仏教ともに女性蔑視を正当化する論理(血の忌、「変成男子」に見られる成仏の困難)の形成に力を貸し、その後は《天皇制・家父長制》が女性たちの魂を抑圧し続けた。女性たちの創設した宗教は、前述の通り父権的権力が破壊した。
その結果、戦後日本において女性たちが精神的な拠り所となる超越者を見出すのは、特に困難だった。
新興宗教の洗脳の下、その労働力や金銭を搾取された主婦層の存在が、その何よりの証明であろう。
女性たちが真に信ずるべき宗教の不在は、この国における父権的権力に拮抗する思想性・宗教性の弱さと、女性蔑視の正当化の歴史を物語って余りある。

本来、宗教は人間を此岸の差別と暴力から救うはずのものだが、それが日本においては差別と暴力に汚れ、女性を貶め続けた。
男性として、拳銃のように暴力を振るえる体を抱え生きている私が言えることではないが、このことは私たち一人一人が重く受け止めなければならない。女性たちがその心身に男性の性的・暴力的な干渉を受けることから免れた安全な場所は、今この国のどこにもない。


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