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「電気羊は電気毛布の夢を見るか?(7月16日)」

昨日のお話: 
「AIとネコ型配膳ロボットのお話。」

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あなたは、SF(Science Fiction、空想科学)について触れられたお話や、その作品はお好きですか?
 
古いところでは、「地球最後の日(When Worlds Collide)」や「宇宙戦争(火星人襲来、The War of the Worlds)」。近年では「インディペンデンス・ディ(Independence Day)」や「デイ・アフター・トゥモロー(Day After Tomorrow)」など。

日本でも、高度成長期あたりまでは、こう言った科学的見地に裏打ちされたSF作品、有名どころでは日本のSF界の巨匠、小松左京先生の手による「日本沈没」がありますし、

つい数年前には、エヴァンゲリオンの庵野監督の手により再構成された映画『シン・ウルトラマン』、かつて『昭和レトロ』の一世を風靡したウルトラマンにも、「空想科学番組」というくだりがサブタイトルとして付いていました。

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「猫も杓子も」というブームで捉えるならば、日本のSF作品が盛んに取り上げられたのはその頃まで。

今ではすっかり下火になり、先に紹介したような海外作品に、日本のSFは席巻されているように思います。

もし、その命脈が続いているとすると、ライトノベルでの異世界転生、あるいは『葬送のフリーレン』などにSFの影を見つけることができますが、残念ながら、これらは空想ではあっても「ファンタジー」に分類されるのです。

海外作品で言うならば、トールキンの『指輪物語』や、海外での人気が後押しして日本でも一気に人気が高まった『ハリー・ポッター』シリーズも、やはりファンタジーです。
 
私の見るところ、どうも日本の土壌とSFとの相性は、必ずしも良いとは言えないのかもしれない。


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話を戻すと、タイトルにあげた「電気羊は電気毛布の夢を見るか。」は、
フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に対するオマージュで、

名作SFの原題は『Do Androids Dream of Electric Sheep?』です。

このタイトルは、人間とアンドロイドの違いや「命とは何か」という深いテーマを象徴しています。本物の動物が絶滅寸前の世界で、人間が人工の電気羊を愛おしむ姿が描かれています。


(それは、命の灯火か、ただの電流か。)


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ここで、noteの街に住む私たちクリエイターの日常へと視線を向けると、昨今、「AIを使って投稿作品を綺麗に仕上げよう」や、さらには効率化を図り、有料作品を規則正しく定期的に定量上げて、副業化を謳うコンテンツが目につきます。

私は、それらを頭ごなしに否定はしません。
けれども、行き過ぎたAI依存の将来には、
少々SFチックな世界観が見え隠れしているのです。

すなわち、丸ごと全てをAIが書いた作品が投稿されて、それらを読んで「スキ❤️」や、さらにはコメントを考えるのもAIに託されるという未来予想図。

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しかし、AIに丸投げして創作された『AI作品』には、たとえば文体に冗長な論理の繰り返しや、お話を大きく膨らまそうと分厚く塗られた贅肉の如くの"美辞麗句"や"過度な装飾"が見られて、  

すぐに「これはAIが書いたのね。」と感じられる特徴が出てしまうのですが、それらも個々の使い手(クリエイター)の調教、鍛え方次第で、ご本人の作風に近寄せられる。

けれどそこには、自分の五感、感性の全てを動員して時間と手間を注ぎ込み、
無から有を産み出すという芸術への喜びはなく、ただただ似た型枠で同じ製品を大量生産する工場の姿が垣間見えてしまいます。
  
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そして読み手側も、AIを使って、自動でnote界隈を観測し、片っ端から「スキ❤️」を押してゆく。 
 
先ほどの創作工程を、まるで、電気で動くモーター(A motor that runs on electricity)が、同じ原理で電気を産み出す発電機(A generator)として動くように、今度は作品の感想文を捻り出す。
 
最期にnoteにいるのは、私たち「人(ひと)」ではなくて、魂や感性を持たないAI「人工物」だけが走り回っているという未来が想像できてしまうのです。


(人間が消えた部屋で、言葉を交わす機械たち。)


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想像してみてください。
 
かつて生産性という効率ばかりを追いかけて、田畑に大量の化学肥料を投入し、爆発的に一時の生産性が上がった、その後に待っていた事。

楽して収穫量を上がったことに味をしめ、さらに強く化学肥料を投下。やがて無理をさせた分、土壌が痩せ衰え、放棄せざるを得なくなってしまった。

いささか「地球最後の日」の悲劇へ思考を向かわせ過ぎたかもしれないけれど、冷静に考えると、詰まるところAIを使って収益化を図るとは、そういうことではないの?

SF作品「地球最後の日」には、地球を破壊した遊星αに、双子星βがそばにあって、しかもそのβは幸運なことに、かつての地球に近い環境だったので、ノアの方舟よろしく、人類と動植物の種は生き延びた。
 
しかし、それこそがフィクションであるから、現実にはそんな都合の良いことはない。

 
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あなたの目の前には、分かれ道がある。
 
時間や手間も掛かるが、この世にただ一つのあなたの個性を持って生まれ、年月を経てアーカイブスとして、輝きを増して繰り返し愛読される逸品か、 
 
AIに丸投げして大量生産、一回限りで陳腐化、さらに同じ手法で辺りを埋め尽くす作品群の中に永遠に埋もれるを繰り返すか。


(あなたは今、どちらの道へ歩き出そうとしていますか?)


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私は、AIが良くないとは言わない。
執筆は全て私の手によるものだが、誤字脱字や言い回しのチェックはAIに手伝ってもらっていることはこれまでにも、あなたに言った通りです。

「よく切れる包丁」  
お料理を美味しく綺麗に整えてくれる包丁が使い方をあやまると、人を傷つけることと同じ道理。
つまり、AIの是非とは、すべて私たち使い手に掛かっているということです。

あなたは、どう思いますか?

今日も、良い一日になりますように。
(🎹MIYABI)

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