大数の法則とヴォネガット、いくつかの物語
大数の法則。
かつて学校で習ったそれは、かんたんに言えば、確率は収束するという概念のことだ。
サイコロを無限に振れば、やがてどの目も1/6の確率に落ち着く。
つまり、試行回数を重ねるほど結果は偏りを失い、本来の確率、すなわち理論値へ近づいていく。
これはどう見積もっても確率論の基本で、特筆すべきドラマなどない。
けれど、私は、この大数の法則がとても好きだ。
本来の確率というものがあり、そこに近づいていく過程そのものは、単なる数学的事象にすぎない。
なのに、私にはこの "収束" が、ただのありふれた出来事に思えない。
それはまるで、巨大な流れのようだ。
個々には意味を持たない偶然を飲み込んでいくその流れは、すべてを内包しながら全体としてひとつの意味になっていく。
その所業は、人智を超えた、運命的で宿命的なようすを帯び、物語の構造のようですらある。
おのずといくつかの作品たちが、私のなかで結びついてくる。
まず思い出されるのは、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』。
"そうなろうとする万有意志 (Universal Will to Become)" が、私にとってはおなじにみえる。
SFというジャンルからみて、本来は最近の脳科学などで議論されている「人間に自由意志は存在しない」というテーマのほうが近いかもしれない。
もし人間に自由意志がないのだとすれば、この世に起こるすべてのことには人間の意志が及ばないことになる。
そうなれば逆説的に、そこには宇宙の意志のようなものがみえてくる。
いわゆる冷たいSFの典型の裏に、まるでストーリーがあつらえられたかのように、うっすらとした運命論が息づいている。
その逆説が、私に大数の法則を思い起こさせる。
おなじように、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』もまた連想されてくるもののひとつだ。
こちらは一転してあたたかいファンタジーで、"前兆" が羊飼いの少年の旅路を助け、望む場所へと導いてくれるという物語。
大数の法則とは一見して結びつきづらいけれど、人間とはかけ離れた次元で必然と思える力がはたらくという点では、よく似ている。
本流を動かすのは人ではなくうねりそのものの意志である、と教えられる思いがする。
人知を超えているからこそ、人間はその物語が収束する一点に、ありふれた意味においてではない邂逅があるように感じるのではないだろうか。
最後にもうひとつ、ダニー・ボイルの『スラムドッグ$ミリオネア』にも触れずにいられない。
主人公の人生における苦難や出来事がすべて、まるでクイズに勝ち進むために起きたように、冒頭の「問題:なぜ彼は勝ち進めたか?」の問いには、「答え:運命だった」が用意されている。
或るひとつのことがらに向かって途方もない流れが注いでいく様を、"収束する" と言い換えても齟齬はないように思える。
映画であり物語である時点でドラマやロマンに溢れるのは当たり前だけれど、それを差し引いても人知を超えた万有意志の存在を無視することができない。
すべてが注ぐ場所がある。
そのことに、やはり意味を感じずにいられない。
私たちの日常にも、そのスケールはともかく、不可思議な偶然や奇遇はたしかに存在する。
その一回一回は偶然に思える出来事でも、大きくみれば或る一点へ向かうための布石かもしれない。
それをどこまでも重ねていったなら、思いもよらない結末へとたどり着くのかもしれない。
その見えない力のことを私が "収束" と呼びたくなるのは大数の法則を偏愛しているからだけれど、それだけではないといううっすらとした希望を私は持ちたい。
科学的でなくても、ロマンが過ぎてもかまわない。
仮に人間に自由意志がないことを認めるとしても、宇宙のどこかにはもっとべつの大きな意志があって、すべてがそこへ向かい収束していく。
そんなことを想像するだけで、私のこころはしずかに満たされる。
どの目が出ても、そうなるようにできている。
そう思えるのだから。
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