【企画参加】喜怒哀楽物語~『楽』
今日はみわからすさんの#喜怒哀楽物語の最終章『楽』に参加させていただきますん。
こちらからの続き。
「苦あれば楽あり」。三日にあげず文香の肌を、その手触りを、そしてその香りを幾度となく愛でてきた徳次にとって彼女がいないうだるような暑い夏の数日をたった一人で過ごすなど、人生の楽しみのほぼ八分は消えて無くなったようなもの。後の二分は酒とバラの日々、いやいや酒と泪と男と女。
うちへ帰ればやることは幾らでもある。東京は木場の材木商である父から家督さえ譲られてはいないものの、最近はそれを見越して大方の仕事を徳次に任せていた。一応父の手前、真面目に勤めてはいるものの少しでも時間を作っては、清澄の唄の師匠へ顔を出し、銀座をひとりぶ~らぶら、新橋で文香のいる店で腹ごなし、そのまま待合いで文香の柔肌を楽しむ。これも男の道楽なのである。悪い意味ではなく,読んで字のごとくの「道」の「楽しみ」なのである。手を染めると家が傾くとまで謂われた江戸の「三大道楽」と呼ばれるものに園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽があるが、清澄庭園でさえ、大名の石道楽でできた石庭である。それを思えば徳次の道楽など可愛いものである。道楽というよりは「人生の楽しみ」であると思いたい。好きな音楽、絵画、唄や句が日常に無くして何が面白かろう。ましてや好く女にも口を挟まれかねない。ゆくゆくは由緒ある家から嫁を貰い商売を続けるのではないか。
江戸に入り家康公が今の東京を整備し始めると、隅田川から東の小名木川辺りも開拓が始まった。徳次の祖先も角材を扱っていたらしい。その流れで明治に入ってからは材木問屋を営む家柄となった。海に面した木場へ落ち着いたころ、東海道に列車が走ったのも流通に拍車がかかった。
世界恐慌を経て、日清戦争が始まると商売も軌道に乗って不況を脱し、さらに日露戦争のころには木場の問屋数は164にも膨れ上がった。その頃、徳次の先代は、秋田杉でかなり儲けたらしい。山も手に入れた。
ただ大正三年に第一次世界大戦が始まると外地から米国輸入の木材が現れて価格が一気に高騰した。その数年後呪われたように大震災が追い打ちをかけると、東京には何もなくなった。そうなると頼みの綱は南方へ移る。徳次の家でも英領マラヤ(今のマレーシア)、インドネシア、フィリピンなどへ出かけて行っては扱いやすい広葉樹を安く買い付けた。徳次の父もマラヤ、サワラク王国、サンダカンのあるボルネオ(今のサバ州)の森林の様子を話して聞かせ、その土地で作られた美しい布地である更紗(バティック)を土産に持って帰って来た。
バティックとはインド起源の染色の技巧で、マラヤ・インドネシアの伝統工芸のひとつになった、いわゆるろうけつ染めの生地である。生地に蠟で防染をしながら柄を描き色を着けていく。マラヤのそれはインドネシアの物に比べると蝶や花を型どって色目も明るく華やかであった。一方インドネシアでは宗教上のモチーフを使い色目もやや落ち着いている。
いつもの待合いで、愛しい文香を待ちながら思い描くこれからはなんとなく楽しい。色々と目に見えない希望があるからこそ楽しいのである。そんな自分の人生のことをぼんやり考えながら、では文香はどうする、と独りごちた。これほどまでに愛しい女を差し置いて他から嫁など貰えるものか。好きな女と添えぬほど人生の苦しみなどあろうものか。人生さもありなん、とは父の世代の言い草で徳次の考えとは相反する。叶わぬならばいっそ駆け落ちか。駆け落ちすれば自由の身。しかし家からは勘当であろう。さりとて苦労してでも文香とふたり暮らしてゆけるのであればそれも本望。ただ手に職もないこのぼんちに何が出来よう。家の仕事も半人前、道楽と女の尻を追い回す毎日でこの先所帯など持てるのか。文香と!?そうなれば毎日でもあの求肥のような二の腕をもちもちもてあそんでいられるわけか。ちらちらと着物の間から覗く白いふくらはぎをふらふら横目で追いながら一日を過ごせるのか。そしてあのむっちりとした桃尻をいとも簡単にむんぐとこの手に入れることができるのか。もっともっと、と想像を膨らませ、徳次は一人楽しんでいた。
すると小さな待合いの急な階段を足早に上る音が聞こえ、薄い襖がさっと開いた。そこには息を弾ませ頬を桜色に染めた文香が立っていた。髪は乱れ胸元がやや崩れている。徳次の顔を見ると、感極まったようにみるみる涙が溢れ出て覆いかぶさるように自らの身を任せてきた。
「徳さんっ。」
「文香っ。」
暑く長い盆の一日はこれから幕を、いや裾を上げるのだった。
視覚的参考になるしんがパパさんの記事もご紹介。
🍆 🍆 🍆 🍆 🍆
あはん♥
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