すぐれた人と凡人の違い。その追いつき方【取材・執筆・推敲 古賀史健】
前回からの続き
ようやく、第1章【取材】に入る。
これまでテキスト【取材・執筆・推敲 古賀史健】を読んできて、【取材】への布石はいくつか見られた。
【情報の希少性において、ライターはみなが[知っていること]と[知らないこと]を知ること。】
【ライターは『からっぽ』。だから、聴くということ、つまり取材をする】
ライターは対象ありきの存在であり、ゆえに取材が絶対的に存在する。その【取材】の範囲は広い。
本書で扱う取材は、インタビューに限らない。誰かの話を聞くことはもちろん、本を読むことも、映画を観ることも、街を歩くことも、電車の車内アナウンスに耳を傾け中吊り広告を眺めることも、すべてが取材だ。
なにかを「知ろうとすること」はすべて取材だ。
すべてが取材対象であり、すべてが執筆対象。
取材とそうでないものを分けるとしたら、「知ろうとすること」と先生は言う。
いわば姿勢であり、態度。取材相手に対してどれだけの興味と敬意を抱けるかが書くことを左右すること、と。
取材じゃないものとは、質問がないことなのかもしれない。
取材者にとっての「世界」とは、開かれた一冊の本である。
取材者は、一冊の本を読むように「人」を読み、そのことばを読まなければならない。
取材者は、一冊の本を読むように「コト」を読み、その奥底まで読まなければならない。
取材者は、一冊の本を読むように「世のなか」を読み、その流れを読まなければならない。
【読む】のだ。
読むといえば「本」が思い当たるが、ぼくたちはその本をどのように読むだろう。
表紙を読んで、目次を読んで、あとがきから読むかもしれない。
1ページ目から順に1文字1文字を目で追って、ことばの意味を捉えながら読んでいく。分からないことばが出てきたら調べるか、前後の文脈から推測するかもしれない。そのことばたちの意味を汲み、その群衆がまとまった本そのものの意味を読んでいく。
【読む】とは「知ろうとすること」が内包されている。
本を読むのは知りたいからである。
その本に何が書かれているのか、どんな意味があるのか、どんな面白い物語があるのかを知りたいのである。
すぐれた書き手たちはひとりの例外もなく、すぐれた取材者である。
みな読んでいるのだ。
その対象の深いところまで、その対象が意図しているところまで、そしてその対象の想像し得ないところまでを、すぐれた取材者は読んでいる。
「目」がすぐれている。
黒澤明、宮崎駿、北野武、(テキストの引用に出てきた書籍の筆者)は総じて読む「目」がぼくたちのそれとは次元が違う。
一流の画家たちに見えているものが見えておらず、浅はかなレベルでしか対象を見ていないから、すぐに描き上げてしまうのだ。
すぐれた取材者と、ぼくたちとはそもそも持っている「目」が違うのだ。
視力2と、0.01と置き換えたら想像しやすい。
はっきり見えている世界と、ぼんやり見えている世界、どちらが描きやすいかと聞かれれば、はっきり見えている方に決まっている。
視力はいくら鍛えても鍛えられないが、作品を読む「目」は違う。
読む視力を上げるには、「読む」しかないのだ。目を養うには、読むしかない。
そして、視力が0.2、0.8と上がってきたとき、書かずにはいられなくなる。書くことがはっきりしてくる。
ぼんやりしたものを書くのはむずかしいが、はっきり見えているものを書くのは簡単だ。そして、見えているのに書けないときに「書くこと」のむずかしさや重要性がわかるのだと思う。
まずは「読者としての自分」を鍛えていこう。本を、映画を、人を、世界を、常に読む人であろう。あなたの原稿がつまらないとしたら、それは「書き手としてのあなた」が悪いのではなく、「読者としてのあなた」が甘いのだ。
次回へ続く
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すごい勇気をありがとうございます。