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映画『オオカミの皮をまとう男』を観て



はじめに

まず最初にお断りしておきたいのは、すでにこの映画を鑑賞した方を対象にして、本稿は書かれているということ。ネタバレ全開だが、あらすじなどは丁寧に書いていないので、それを期待された方は、ごめんなさい。

どんな映画なのかを、ざっくり言ってしまうと、スペインの人里離れた山奥の陋屋に一人で暮らし、罠猟師(トラッパー)としてオオカミなどの動物を捕り、その皮を麓の村で売って暮らしている孤独な男マルティンの嫁取りに始まる悲劇の物語である。

嫁取りというよりも、嫁買いと言った方が適切かもしれない。マルティノンが番犬が狼に殺されたという話を酒場の親父のセベリーノに伝えると、「じゃ、新しい犬を飼うか、嫁さんもらうかしたら」という話になって(おい、犬と嫁は等価値なのか? すごい思考回路だな)、村の老人から娘のパスクアラを嫁として買い取ることを決める。
彼との結婚生活は意思疎通の困難な獣との同居に近く、彼女はマルティンには人間らしく扱われることもなく、最後は死産の果てに亡くなる。マルティノンは一旦は丁寧に埋葬した妻の亡骸を掘り起こして父親に叩き返し、粗悪な欠陥品の嫁(別の男の子供を孕っていた、体の丈夫でない女)を騙されて買わされたと激怒し金を返せと父親を脅す。困った父親は返金はせずに妹のアデラをその代償として彼に差し出す。この二人の女はまるで毛皮の取引のように単なる商品としての価値でしかこの男たちからは見られていない。ここにあるのは冷酷な等価交換ゲームにすぎない

物語の後半は、このアデラのマルティノンへの静かだが壮絶な復讐編となっている。端的に言えば男性原理の支配に潰され死んだ女の妹が復讐を企て成功するという物語

物語の背景について - 家父長制という男性原理

物語の背景について簡単に説明しておこう。
場所はスペイン北部山岳地帯、マルティノンの家のあるあたりは既に廃屋の点在する廃村であり、彼はこの地区の唯一の住民であると思われる。時代については特に説明がされていない。一見中世のようにも見えるが、調べてみたところ実際には19世紀後半から20世紀初頭という設定らしい。これは、ちょうど第二次産業革命の時期にあたるから、彼のように山で猟師を続けている人間は、時代に置き去りにされ過去の価値観にしがみついて生きる当時の底辺層と見ることができるだろう。

詳しく調べてみたわけではないが、このような家族が関与した女性の人身売買というものも、当時はそれに類した行為はおそらく公然とではなくても、特に底辺層では実際によくなされていたと考えてもいいのではないか。背景には家父長制というヨーロッパの歴史の中では格別珍しくもない、男性原理が支配する社会という枠組みがある。この枠組みの中で、女性は一つの労働力として、また将来労働力となり、男児なら新たな家父長ともなる人間の再生産(出産)のための装置としてのみ、その価値が認められていた。なに、そんなに驚くことではない、つい最近までそれは世界でもこの日本でも普通のことだったのだから。

マルティノンの出自についても、この映画の中でほとんど説明はされていないが、おそらく長らく続いた家父長制という枠組みの中で先祖も両親も土地や因習に縛られて暮らしていて、彼も彼らからこの世界の生き方を何の疑問も感じずに学び受け入れたものと思われる。学校や教会などで教えられる知識とは異なる、生き延びることに機能を特化したいわゆる生活の知恵、野生の知恵というやつだ。彼のくちゃくちゃと汚く口を動かしてものを食べるという下品で動物的な仕草も、文明社会からの離反を象徴している。彼にとって社会とか他者というのは単にビジネスの相手にすぎず、それ以上のものではない。彼の女性を独立した人格としてではなく労働力と子孫維持のための装置として捉える価値観は、そのまま彼の父親の価値観であり、それが刷り込まれたのちは彼にとっては唯一の従うべき規範だったのだろう。この点は娘たちを売り飛ばした父親の価値観と全く同じものだと言える。ルールは共有されている。だからこそ、人身売買は取引として成立するのだ。

そうしてみると彼の女性の人間としての尊厳を認めず、家畜化し物扱いするという冷酷な態度も、彼にとってはただ家訓的規範に従っただけで、一切悪意の無いことと言える。過酷な環境の中で生きるには愛情を含めて諸々の人間的な感情なんてスッパリ切り捨てるのが一番コスパがいいからね。
こうした暗黙の目に見えない透明化した枠組みとその規範から逃れられる人はそう多くはない。現代に生きている私たちだって、100年後の人間から見れば、ずいぶんおかしな枠組みや規範に縛られた愚か者に見えるはずだ。ただ、その中に暮らしている間はそれにはまず気がつけない。でも、姉妹のような被害者が存在する以上、やはりそれは無知の罪と言えるだろう。マルティンもまた、そうした無知の罪を背負った人間の一人である。だから、彼同様に透明な檻の中にいる私にはマルティノンを責める資格はない。

今の時代でも、俺が稼いでいるから、お前たちは生活ができているんだ、つべこべ言わずに俺に従えと妻や家族を支配していた旦那が、定年退職した途端に妻から熟年離婚を迫られるというのも、構造的にはマルティノンのケースとあまり変わらない(マルティノンは山の掟を家庭に持ち込んだが、旦那は会社の掟を家庭に持ち込んでいる)。命を取られないだけまだマシだとは思うが。

オオカミの皮をまとう男、という言葉の意味について

スペイン語の原題は、『Bajo la piel de lobo(狼の皮の下で)』。ちなみに英語タイトルでは「The Skin of the Wolf(狼の皮)」これはおそらくは新約聖書の『マタイによる福音書』第7章15節にある「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(新共同訳)を反転させたものだと思われる。

つまり、「強く支配的な存在である狼が、無力で害のない存在である羊の皮を被って人を騙す」、という聖書本来の意味を、「人間的な心の弱さを持った子羊のような存在であるマルティノンが、強い男性という狼の皮をかぶって過酷な世界を生き延びようとしている」、と反転させたものだということ。

マルティノンは生存のために寡黙なマッチョを演じることを習慣化しているが、一皮剥けば弱々しい純粋な魂がその中で震えていると言える。嫁買いの動機には、もちろん先に述べたように、労働力確保と後継者獲得、という表の理由もあることは確かだが、同時に震える小さな魂が寄り添える相手を無意識のうちに求めていたという見方も可能だ。ようは、寂しいのに寂しいとは口が裂けても言えない強がりなんだな、彼は。しかし、彼の動物的で粗暴な自分だけが気持ち良ければいいという性行為を見ても分かるように意識の次元まではその感情は上がってきていない。意識の次元に上げるには彼の使える言葉があまりにも少なすぎるからだ。そもそも愛とは何かについて、その生活圏において彼は学ぶ機会がなかった(たぶん)のだから仕方がない。愛することも愛されることも、彼の直面している「支配と被支配の野生のゲーム」においては全て身を滅ぼす弱さとして封じられていた。この内なる弱さ、震える魂、あまりにも不器用すぎる生き方が後に彼を破滅へと導くこととなる。

名前にも意味がある

大体、西洋のこうした寓話的な物語に登場する人物の名前は、それぞれの立場を表しているということが多い。この物語もやはりその習慣に倣っている。
主要人物三名についてその名の意味を解き明かしてみよう。

アデラ(Adela)→「高貴さ」を意味する(語源はゲルマン語のadal)

パスクアラ(Pascuala)→辞書的語釈そのものではないが、結果として「犠牲」と「受難」を意味する(語源は聖書の「パスハ(Pascha/ 過越の祭り(ユダヤ教) 復活祭(キリスト教) ) これらの祭においては「生贄に捧げられる犠牲の子羊」が一つの重要な象徴としてあり、そこからこの言葉からは「犠牲」と「受難」という性格が読み取れる

マルティノン(Martinón)→「戦いの神」を意味する(ローマ神話の軍神マルス(Mars))のこと 

著者によるまとめ、もちろんこの関係性が定説というわけではない

つまり、マルティノン(世界を支配しようとする「男性原理の戦士」)が、パスクアラ(男性原理に蹂躙され「犠牲」となって死ぬ「生贄の子羊」)を搾取、その復讐を行うアデラ(人間としての「高貴」さを保ちつつ冷静に策略と毒をもって行う強い女)という役割が、それぞれに与えられた名前においてすでに示されているということになる。

犠牲となって消費され尽くすのか、そうはさせじと意志を強くもって気高く、相手の弱さもうまく利用して支配者を倒すのか。その選択が全てを変える。ちなみに「過越の祭り」も「復活祭」も、最終的には受難者の勝利(奴隷からの解放、キリストの死からの復活)へとつながる物語。パスクアラの犠牲がアデラの復讐によって最後は女性の勝利の伏線となるというこの物語の構造を明確に示しているというわけだ。

『神の子羊』 (1635-1640年作)フランシスコ・デ・スルバラン

マルティノンもまた犠牲者である

いいとこ無し、のように見えるマルティノンだが、時折人間らしい感情を垣間見せることもある。

必死に妻の看病をする姿、子供が死産で不要になってしまった揺籠を叩きつけて壊す時の怒りに満ちた悲しい姿、妻の亡骸を丁寧に白い布で包む時のその手つきの繊細さ。また、逃亡を図り罠にかかって瀕死の状態のアデラを家へと連れ帰り、自分の体で温めようとする姿や、罠にかかりどす黒く変色したアデラの足に丹念に薬を塗り込める時の優しい手つき、そこに人間らしい感情や彼なりの愛の形を見ることは容易だ。

そうした人間らしい温かな感情は無意識の次元ではちゃんと彼にもある。しかし一旦オオカミの皮をまとうと、それらは消え去って父親に妻の亡骸を叩きつけるような男性原理の冷酷な怪物になる。人間らしい感情を家父長制という制度が封じてしまうのだ。そういう意味で、彼もまた制度の犠牲者と言えるだろう。

彼のそういう弱い面を見抜いたアデラは、表向きは夫に支配される従順な妻を演じつつ、裏では密かに毒を盛るという冷徹な復讐を実行する。正面きっての戦いには挑まず、妻を支配できたと信じ込んだマルティノンの心の隙を突くのである。なんと賢い女性であることか。言葉少なく、感情を露わにはしないが、全てを目と息づかいで語るというイレーネ・エスコラルのミニマルな演技もアデラの高貴さ、冷徹さ、そして抑圧された感情をよく表現している。マルティノン役のマリオ・カサスも悪くはないのだが、ルックスが美男子過ぎてやや野生味にかけるところが残念。ジムで鍛えたのであろう筋肉はしっかりしているが、猟師のそれとは違うものだしね。もっと獣の匂いが漂うような野生味のある役者のほうが良かったかもしれない、と個人的には思う。彼から立ち昇るのは爽やかなオーデコロンの香りなので、ややリアリティに欠けるが、まぁ、そこも生々しい表現を控えたいという監督の意図もあるのだろう。

メーガス(Meigas)としてのアデラ

アデラは、とても強かな女性だ。スペイン北部には、移民(紀元前から始まる中央ヨーロッパからピレネー山脈を越えてのケルト系民族の移民で先住民族と混血している)の関係でケルト文化の影響が色濃く残り、キリスト教の布教以前から「メーガス(Meigas)」と呼ばれる呪術医や魔女などが存在して、彼らは薬草などの豊富な知識を持っていたと言われている。キリスト教の敵対者としての描かれるような邪悪な魔女(箒に乗って空を飛びサバトに集合するようなやつね)とは違い、自然の精霊と親しみ(アニミズムね)、薬草による治療や、時には予言なども行う「賢い女性」として彼らは存在していた。特別なコスチュームに身を包むわけでもなく、風体もごく普通のどこにでもいる庶民の女性の姿そのままであったとされている。

アデラは魔女ではないが、賢い女性であるには違いなく、やはり薬草についても詳しく、その知識を使ってマルティンを毒殺したと思われる。別名「狼殺し」と呼ばれるトリカブト(Matalobos)の毒があり、これが使われたとしたなら狼の皮をまとう男が狼殺しの毒で殺されるということになり話としてはかなり面白いのだが、残念ながらトリカブトは即効性なので、映画のようにじわじわ殺していくというやり方には向いていない。ヒ素は粉体だし薬草でもないので除外するとして、ジギタリス(これはスペイン北部には自生している)ならその目的に沿う薬草だけれどね。さて一体どんな毒が使われたのか。この辺のことは薬草学の専門家にぜひ聞いてみたいところだ。
閑話休題。支配し切れたと思った妻がまさか密かに魔女としての牙を研いでいたとは彼も思いもしなかったことだろう。日々の食事という生命線を握られた男の大いなる誤算である。気取った言い方をするなら脱構築的な手法による殺害。

アデラは去り、マルティノンは死ぬ

アデラとの生活の中で少しずつ人間らしい気持ちが芽生えてきたマルティノン(彼も彼なりに学習したのですね)は、裏切り者の彼女を罰することもなく、最後には彼女が山を降りることを許す。そして残されたハーブの缶の中身を確認して毒を守られていたことに初めて気がつき観念して、最後はベッドに横たわり静かに息たえる。支配したものから報復されるという因果応報、これは自然の摂理として野生の掟に生きる彼にも理解しやすいものだったかもしれない。魂が天に登っていくようなラストの上昇俯瞰のカメラワークは、それが彼にとっての一つの救済であったことを示唆しているようにも思える。

姉の復讐を完遂し、山を降りるアデラも勝利の喜びに満たされているようには見えない。怪物として姉を食らったマルティノンもまた制度の犠牲者(にして加害者)なら、姉も同じ制度の犠牲者。娘を売るような父親もやはり同じく制度の犠牲者(にして加害者)。彼女がこれから暮らすであろう麓の村の住人たちもやはり同じ制度に縛られているわけだから、この制度がなくならない限り、彼女にとっての本当の勝利は訪れることはない。生きている限り戦い続けるしかない。そうわけで、奇妙な虚しさしか残らない物語だ、少なくとも私にとっては。

また、この制度の残影がいまだ社会を支配していることを考えると、まだアデラの戦いは終わっていないと言える。監督もおそらく、これは遠い昔の物語としてではなく、今現実に起きている同じ差別に基づく弊害について気づいてほしいと考えて制作したのではないか。

ただ、もう少し視点のメタ度を上げ抽象化すると、ジェンダー格差の問題という枠ではなく、ただ過酷な環境を生き抜くために狼の皮というマイルールで武装して社会との関係を制限していた人間が、他者を受け入れることの困難さやうっかり見せた弱さによって他者にあっけなく潰される寓話として見ることもできるということも書き添えておきたい。自分でこれだけ書いておきながら現状世界に蔓延る過度なポリコレ的なものの見方にはいささかうんざりし始めているので(笑)
また、このフラットな視点をさらに推し進めていくと、山の秩序の中で頂点捕食者の狼を凌ぐ超頂点捕食者として生きているマルティノンが、麓の村から嫁を迎えることで人間の世界の秩序という異分子を持ち込んだことにより、山の秩序が崩壊していく自然環境破壊の文明論として、この物語を解釈することも可能だ。これは自業自得とはいえマノルティノンを被害者として位置付けるとても面白い視点だとは思うが、話が複雑になりすぎると思うので、今回はその可能性を提示するにとどめて、これについてはまた別の機会に書いてみたいと思う。

赤ずきんちゃんについて考える

「搾取する者としての狼VS搾取される対象としての女性」というこの構図から、童話の『赤ずきん』を連想する人は多いと思う。

『赤ずきん』においては、狼は赤ずきんちゃんを単なる肉の塊としてしかみていない。完全に捕食者とその獲物の関係である。『赤ずきん』にはペロー版とグリム版があり、ペロー版(1697年)では赤ずきんちゃんはあっさりと狼に食われてしまい「男は狼、気を付けなさい」という教訓話として終わるが、グリム版(1812年)では狩人(善の男性原理?)が登場して、彼によって赤ずきんちゃんは助けられる。いずれも男性原理の力は圧倒的に強く描かれている。
パスクアラはペロー版の食われてしまう赤ずきんちゃんに該当するが、アデラは誰の力も借りずに自らの知恵によって狼を退治してしまうわけだから、男性原理の力を借りて狼を退治したグリム版の赤ずきんちゃんのさらにその先を行っている。

こうして並べてみるとグリム童話の『赤ずきん』をベースにして、そこから男性原理を打ち破れるより強い女性像を導きだしたのがこの物語と言えるかもしれない。もちろんこれは例によってエビデンス無き私の勝手な妄想に過ぎないが。

19世紀イギリスの絵本黄金期に、ウォルター・クレインが描いた『赤ずきん』の挿絵


終わりに

支配し搾取するものは、いつかは支配されるものの仕掛けた罠に落ちて淘汰される。そういう立場の逆転を淡々と描いた作品。自業自得とはいえ、マルティノンへの幾分かの同情を禁じ得ないのは私が甘すぎるからだろうか。

支配ではなく共感、というのは誰も理想とするところだが、現実はそう甘くはない。この作品は、改めてそのことを考えさせられるとても怖い大人の童話だった。交わされる言葉が少なく、物語が映像によって展開されるところが多いという点でも、この映画は動く絵本と言ってもいいかもしれない。

Filmarksとかのレビューなどを読むと、「なんだかマルティンが可哀想、女は怖い」「そういう育ちなら結婚は絶対に無理、寂しくても嫁など取らずに一人で暮らしていればよかったのに」という趣旨の感想もよくみられるが、さてあなたはどのような感想を持たれたのだろうか ? 

最後に一つお断りを。
本稿は、例の如く私の妄想癖や専門的知識の欠如によって、かなり主観的、その場の思い付き的に書かれたものであり、学術的な正確さは一切担保されていない。なのでお気楽なエッセイとして読んでいただければ幸いです。えっ、最初からそんなことはわかっているって? それは大変失礼いたしました。