【古書紹介】時空を超える健康のバトン。江戸時代のバイブル『養生訓』
こんにちは。
しんしょうの、
『暦皆庭(こよみなてい)』へようこそ。
本日も、お立ち寄りいただきありがとうございます。
一冊の古書との出会い
ーー序文の秘密
このたび、私の元へとやってきてくれた一冊の古書があります。
それが、江戸時代の健康バイブル『養生訓(ようじょうくん)』です。
ブログでは今後、「ひめくり養生訓」コーナーとして、この本に込められた知恵を1項目ずつ大切に紐解いていきたいと思います。
まずは初回として、この古書がたどってきた、時空を超える壮大な旅についてご紹介させてください。
三百年を旅してきた「健康のバトン」
この一冊の内容は、何百年もの時をかけ、多くの人の手を渡って私の元へと届きました。
まずは序文をどうぞ!

大正時代【原文】
序
貝原益軒先生は近世の大儒にして、博學多識、世人みな知るところなり。そのあらはし給ふ書、數百卷世に行はるゝ中にも、養生訓はもつとも愚蒙を教ゆるの意に切にして、先生日夜の起居、座立、動止、語默等、身みづから行ひ試み給ふところの實事を述べ給ふもの故に、かりにも浮華説はなし。實に世の珍寳と稱して可なり。何を以てその實敷をしるとなれば、身みづからこれを行ふて、終に百歳に近き上壽を保ち給ふ。これこそ養生の術の然らしむるところにして、先生の書の人を欺かざるを見つべし。云々。
右は、文化九年、石見醫生杉本義篤なる人の、養生訓を讃したるものゝ一節
【現代語訳】(意訳)
序
貝原益軒先生は、近世(江戸時代)の高名な儒学者であり、広く学問に通じ、知識が極めて豊富なことは誰もが知る通りである。先生がお書きになった書物は数百巻も世の中に広まっているが、その中でもこの『養生訓』は、知識のない一般の人々を教え導こうとする熱意が最も切実に込められたものである。
先生が日々の生活における起き伏し、座る・立つ、動く・静止する、話す・黙るなどの際、ご自身で実際に試して実践された事実を述べておられるため、そこには少しの浮ついた綺麗事(机上の空論)も含まれていない。まさに、この世の貴重な宝物と呼ぶにふさわしい書である。
何をもってその効果が本物であると知るかといえば、先生ご自身がこれを実践され、最終的に100歳に近い長寿(享年85歳・当時は最上級の長寿)を全うされたことである。これこそが養生の術がもたらした成果であり、先生の書物に嘘偽りがないことの確固たる証拠である。云々。
以上の文章は、文化九年(1812年)に石見国(現在の島根県)の医者である杉本義篤という人物が、『養生訓』を称賛して書いたものの一節である。これをもって(本書の)序文の代わりとする
💡 補足ポイント
「百歳に近き上壽(じょうじゅ)」:益軒は満84歳(数え年で85歳)で亡くなりましたが、当時の平均寿命から見れば文字通り「100歳に近い」と言えるほどの驚異的な大往生でした。
「浮華説(ふかせつ)」:中身のない華やかさ、つまり「口先だけの理屈」や「実践の伴わない空論」という意味です。益軒の徹底した現場主義・実践主義を高く評価しています。

なり。以て序に代ふ。
大正十四年六月
編者識
【現代語訳】
(~の一節である。)これをもって、本書の序文の代わりとする。
大正十四年(1925年)六月
編者 しるす(記す)
💡 補足ポイント
「以て(もって)~に代ふ(かふ)」:漢文訓読調の表現で、「~の代わりとする」という意味です。
「識(しるす)」:文章の最後によく使われる言葉で、「書き記す」「記録する」という意味があります。ここでは「編者がこれを書いた」という署名のような役割を持っています。
この本の編者が、大正14年に江戸時代の古い推薦文を見つけて感激し、「これ以上に本書の素晴らしさを伝える言葉はない」と、自らの序文代わりに引用したことがよく伝わる結びとなっています。
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養生訓の 後記

後記【原文】
養生訓の後記
右にしるせし所は、古人の言をやはらげ、古人の意をうけて、おしひろめしなり。又、先輩にきける所多し。みづから試み、しるしある事は、臆説といへども、しるし侍りぬ。是、養生の大意なり。其の條目の詳なる事は、説きつくしがたし。保養の道に志あらん人は、多く古人の書をよんでしるべし。大意通じても、條目の詳なる事をしらざれば、其の道を盡しがたし。愚生、昔、わかくして書をよみし時、群書の内、養生の術を説ける古語をあつめて、門客にさづけ、其の門類をわかたしむ。名づけて頤生輯要(いせいしゅうよう)と云ふ。養生に志あらん人は、考へ見給ふべし。こゝにしるせしは、其の要をとれるなり。
【現代語訳】
ここに記した内容は、昔の賢人の言葉を分かりやすく(和らげて)表現し、その意図を受け継いで、私なりに発展させて広げたものである。また、優れた先輩方から教えていただいたことも多い。自分自身で実際に試してみて効果があったことは、たとえ科学的な根拠の乏しい私説(臆説)であっても、そのまま書き記しておいた。
これが養生の基本的な心得(大意)である。その具体的な項目(条目)の細かな点については、すべてを語り尽くすことはできない。健康維持(保養)の道を志そうとする人は、多くの古書を読んで自ら学ぶべきである。基本方針が分かっていても、具体的な細かい実践法を知らなければ、その道を全うすることは難しいからだ。
私が昔、若かりし頃に書物を読んでいた時、多くの本の中から養生の術を説いた古い言葉を集めて門下生に与え、それらを部門ごとに分類させた。
それを『頤生輯要(いせいしゅうよう)』と名付けている。養生に心を注ごうとする人は、ぜひこちらも参考にしていただきたい。ここに(『養生訓』に)記したのは、その中から特に重要な要点を抜き出したものである。
正徳三年(1713年)癸巳(みずのとみ)正月吉日
八十四歳の老人、貝原篤(益軒) 記す
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👉 時代を超えて受け継がれる健康の知恵を、AI(Gemini)の力で現代語訳として鮮やかによみがえらせました。日々の心身のセルフケアに、ぜひご活用ください。※本文の書籍画像は、AI補正を施したものを掲載しています。
歴史的背景
約300年前(江戸時代・1700年代初頭)
貝原益軒(かいばらえきけん)先生が、自らの体で実験を重ねて『養生訓』を執筆。
約200年前(文化9年・1812年)
石見の医師・杉本義篤(よしあつ)氏が、益軒の「病気を未然に防ぐ」思想に大共鳴。自ら解説を加えた新装版をプロデュースし、江戸時代の大ベストセラーへ。
約100年前(大正14年・1925年)
「次の世代にも残したい」という熱い想いから、金子専一郎氏らにより金属活字本として復刻。
古いページをめくると、時代を超えて大切にバトンされてきた知恵の重みが、じんわりと手に伝わってくるようです。
何百年もの間、先人たちが「どうか健やかで幸せに生きてほしい」と願い、命がけで繋いでくれてきたこのバトン。
今度は私が受け継ぎ、令和の時代を生きる皆さまへ、そっと届ける架け橋になれたら嬉しく思います。
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ここからは少し、この本を繋いでくれた先人たちの「熱いドラマ」を覗いてみましょう。
【歴史コラム・前編】
💡『経験方』をプロデュースした熱い医者・杉本義篤
「この本には浮ついた議論は一切ない。すべて先生が自分で試した『事実』だからだ!」
江戸時代後期、そう大絶賛して一冊の医学書の新装版を世に送り出した人物――それが石見国(島根県西部)の漢方医・杉本義篤(すぎもと よしあつ / 1780~1826年)です。
1. プロの医者が、アマチュアの「事実」に震えた
町医者として「教科書通りの理屈では目の前の患者が治らない」と悩んでいた義篤。そんな彼が出会ったのが、約100年前に書かれた本でした。
驚くべきことに、その著者はプロの医者ではなく、あの『養生訓』で有名な儒学者・貝原益軒。
しかしそこには、小難しい理屈ではなく、益軒が自ら試して本当に効果のあった「生きた事実」だけが並んでいました。本物の医療を追い求めていた義篤は、この立場を超えたリアルな知識に魂を揺さぶられたのです。
2. 「世の中の宝」をみんなの元へ
「自分一人で独占してはいけない。広くみんなに読ませたい!」
感動した義篤は、独自の解説を加えた新装版(『経験方』)を文化8年(1811年)に出版。彼の熱い情熱が込められたこの本は、義篤の没後も再発刊を繰り返しながら、長く多くの命を救う道標となりました。
この「経験を重視する」という益軒のスピリットが、のちの『養生訓』の普及にも大きな影響を与えていくことになります。
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🌐 おすすめの参考サイト紹介
今回の記事は、益軒のご子孫であり外科医の貝原信明先生によるコラム「養生訓余話」を参考にさせていただきました。「益軒は医者ではない」というリアルな裏話など、深く面白い解説が満載です。ぜひご覧ください!
👉 医学書院:週刊医学界新聞「養生訓余話」(貝原信明 氏)(2026年7月閲覧)
👉以下の文献も参考にさせていただきました。
九州大学
[九州大学リポジトリ:貝原益軒の〈障害〉認識 : 養生論との関連から]
高野 信治 氏
(https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/7420029/08_p013.pdf)(2026年7月閲覧)
ありがとうございました。
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【歴史コラム・中編】
💡文化九年と大正十四年、2つの「転換期」
『養生訓』が時空を超える中で、特に重要なフシ目となった
「文化九年(1812年)」と「大正十四年(1925年)」。
実はこの2つの時代には、共通する大きな特徴がありました。それは、どちらの時代も「社会がガラリと変わる、大きな人生の転換期だった」ということです。
1. 文化九年(江戸後期):成熟と不安の狭間で
杉本義篤先生が新装版をプロデュースした文化九年。この頃の江戸社会は、町人文化がパッと花開いた華やかな時代でした。
しかしその一方で、外国船が日本近海に現れ始め、どこか心の奥に「これから社会はどうなるんだろう」という不安が広がり始めた時期でもあります。
激動の予感の中で、人々は「外の環境がどうあれ、まずは自分の身を守り、健やかに生きるための本質(=養生)」を、心の拠り所として求めたのです。
2. 大正十四年(大正末期):激動からの再生
それから約100年後、『養生訓』が活字本として復刻された大正十四年。この時代は、まさに日本が「近代化」という大激変の真っ只中にありました。
さらに、この2年前(1923年)には「関東大震災」という未曾有の大災害が起こり、人々は身も心も大きな傷を負っていました。
古い価値観から新しい時代へと移り変わる激動と、災害からの復興。そんな、命の尊さや生き方について誰もが深く見つめ直さざるを得なかった人生の転換期に、「この大切な知恵を絶対に絶やしてはならない」という強い願いを持った人々によって、『養生訓』は再び呼び起こされました。
【歴史コラム・後編】
💡文字に込められたメディア革命
もう一度、上記写真画像を見返してみると、一文字一文字がとても美しく、規則正しくきれいに並んでいることに気づかされます。
実はこの「並びの美しさ」こそが、大正時代に定着した新しい印刷技術「金属活字による印刷(活版印刷)」の姿でした。
本が「手から手へ渡る貴重品」から、「誰もが読める宝物」へと変わった、メディア革命の歴史がここにあります。
🪵 江戸時代の「木版(もくはん)印刷」
杉本義篤先生たちが活躍した江戸時代(文化九年)の『養生訓』は、木の板に1ページ丸ごと文字を反転させて彫り込む「木版」という方法で刷られていました。
職人さんが文字を直接木に彫るため、当時の本は流れるような「崩し字(筆文字)」が中心です。
手書きの温かみや独特の味わいがありますが、すらすらと読むには専門的な知識が必要な、少しハードルの高いものでもありました。
⚙️ 大正時代の「活字印刷」
それが大正時代(大正十四年)になると、一文字ずつ金属で作られた「活字」と呼ばれる文字のハンコを、パズルのように四角い枠に並べて版を作る技術が主流になります。
この技術革新によって、本のあり方はガラリと変わりました。「誰にでも読みやすい均一なフォント」になったことで、崩し字が読めない人でもパッと見て意味が伝わるようになったのです。
大量に、そして正確に、誰にでも読める形で言葉を届けることができる。この大正時代のメディア革命があったからこそ、江戸時代の知恵はマニアックな古書として埋もれることなく、現代を生きる私たちの元まで真っ直ぐに届くことができました。
規則正しく並んだ大正時代の文字の向こう側には、「一人でも多くの人に健やかになってほしい」と願った、当時の人々の熱い想いと技術の進歩が息づいています。
おわりに
何百年もの間
先人たちが命がけで繋いでくれた、
健やかに生きるための
「健康のバトン」。
このブログ「暦皆庭」では、これからこの愛おしい古書のページをめくりながら、現代の私たちの暮らしにもすぐに活かせる知恵を、一歩ずつ丁寧にお届けしていきます。
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新コーナー!記念すべき第1回「ひめくり養生訓」はこちらから👇 毎日のヒントになるお話をお届けします。ぜひ遊びに来てください!
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本日も健やかで心地よい一日をお過ごしください。

日々の暮らしの合間に
ゆるりとお付き合いくださいね
ブログ『暦皆庭』しんしょう
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