今、どっちの状態?クォーターライフクライシスの「2つの形態」|26歳の迷い②
こんにちは、みとさくらです。
このnote「てんと.せん_」は、思考の断片、問いの芽、調べたこと、試したことをそのままの自分として置いておけるサードプレイスです。
今日は前回の続き。「クォーターライフクライシス」の2つの形態である「ロックアウト・ロックイン」を手がかりに、自分が今抱えているモヤモヤを整理しつつ、自分の現在地について考えながら書いていこうと思います。
▼前回はクォーターライフクライシスの5つのフェーズをぐるぐる考えました。
ロックアウト・ロックイン:クォーターライフクライシスの2つの形態
さて「ロックアウト・ロックイン」について。
「クォーターライフクライシス」と検索して上位表示される記事では、前回考えた「5つのフェーズ」について解説されることが多い。これは、クォーターライフクライシス研究の第一人者であるオリバー・ロビンソン氏の2010年の論文の主題となっているようだ。
一方で同氏が2015年に発表した論文のキーワードとなっている、クォーターライフクライシスのもう一つの手がかりがこの「ロックアウト・ロックイン」だ。
このような危機(注:クォーターライフクライシス)には2つの形態がある。すなわち、ロックアウト型(大人の役割に入れないと感じる)と、ロックイン型(大人の役割に囚われていると感じる)である。
for the twenty-first century. In. R. Žukauskiene (Ed.) Emerging adulthood in a European context
訳:DEEPL
もう少し言い換えると、「ロックアウト」は「ちゃんとした大人になりきれていないと感じる」状態、「ロックイン」は「大人であることに囚われ、本当の自分を見失っていると感じる」状態と表現されている。
一口に「クォーターライフクライシス」と言っても、「大人」に囚われ過剰に役割を果たして自分を見失うパターンと、「大人」になれない自分を社会性の課題として悩むパターン?があるようだ。
「大人」になろう/あろうとして、悩むのも、クォーターライフクライシス
少し話が逸れてしまうかもしれないが、ゲスの極み乙女。の「オトナチック」という曲が描いているのはまさに、ロックアウト・ロックインに揺れるクォーターライフクライシス只中に有る人間の姿かもしれないな、と、ここまで調べてみてふと思った。
▼ゲスの極み乙女。「オトナチック」の歌詞
▼MV
あの曲が流行った頃ちょうど同級生と「大人とは?」というディスカッションをしたこともあり、私の中では今でも「大人って、何?」という問いが曲とともに心の隅にくすぶっている。
そうやって、大人ってなんだろう?と思い続けているから、「社会的に責任がある、立派な大人」にはなれそうもない。(ロックアウトに近い)
ただ精神的には大人になった(20代前半までよりは成熟した?)部分があるとも感じる。マダラな状態。
…こうやって考えていると、なんだかたぶん、「社会的に責任がある、立派な大人」なんてものはイデアであって存在しないのだろう…とも思えてくる。
こんな風に働いているから、生活してるから、発言しているから、行動しているから大人である…と自分の目には映る人たちも、別にすごい大人だということもなく、あまり「大人」であろうなどと思っていないのかもしれない。
あるいは、うまくいかない、味気ない日々にあっても、それも自分の総体として持っておけるのが(そういう状態を「自分は大人になりきれていない」と切り出さない)のが、大人に見える人?なのかも。
かといって目指さず楽な方向へ逃げるのは違うのでは?そのような大人を目指すべきでは?という考えも頭によぎる。(大人であろうとする、ロックインに近い考え?)
けれどこれは、「より良くあれ」という行動規範が強い故の認知のゆがみな気がするなぁ。「大人」を追い求めないことと、逃避するのは別?うだうだと、「大人とは?」と考え続けて大人になれない方が、逃避なのか。
「大人」になろうとして、「じゃあ大人って何?」と問えば問うほど、永遠に「大人」を目指すことになり、裏を返せば「ちゃんとした大人になりきれない」という「ロックアウト」の状態になるのではないか?
「大人」になろうとして人よりも考えているがゆえに「ロックアウト」に陥る…というトラップがありそうだ。
ロックインの方は、精神的に成熟して自己都合を抑えるという選択肢が自然に出てきて選べるようになった一方、いつの間にかそうやって他者を優先できてしているうちに自分が見えなくなる、、という感じだろうか。
この状態に折り合いをつけないと、後々、やっぱりあのとき自分の気持ちに正直になっていれば…と後悔しそう。
ロックイン状態私はあまりないけれど、ただ、「こんなことで悩んでも仕方ない」と大人になろうとすると、自分の悩みに蓋をしてしまって、自分が見えにくくなっちゃいそうな感覚はある。
そういうもんだ、みんなそんなことは考える暇があったらその時間で私よりも人の役に立っているんだ、私も自分にばかり目を向けていないでそうしようよ、と思おうとする。
けれど、腑に落ちないというか、心の奥で何かが燻っているというか、そんな心持ちになってしまう。
大人として働く、大人として人間関係に責任を持つ…こことの距離感が上手く取れないと、クォーターライフクライシスと呼ばれる状態になるみたい。
ロックアウト・ロックイン。どちらでしょうか?
これまで「ロックアウト・ロックイン」とはどのような状態か調べ、私なりの解釈を書き並べてきました。
より自分の状態に当てはまるのは、どちらでしょうか?
私の場合はロックイン状態を恐れている?ような、とてもロックアウトな状態です。
これは、「自分をしっかり持つことが大事!」と育てられてきたことが影響しているかもしれません。
先ほどまでも述べたとおり、大人になるとは。。。。といった問いは、自分の中でまだうまく折り合いをつけられない、未消化の問いだ。
逆に、「大人であるとは?」という問いに対するスタンスが固まって動けるようになったときが、大人である/自分である、の対立構造を抜け出し晴れやかになれる時なのかもしれない。
これから考える中で、そうなれるのかなあ。だといいなあ。
今はこのモヤモヤと向き合い行動した先が見えないけれど、きっと折り合いがつけられるようになると信じて。
私がクォーターライフクライシスを抜けていく過程は、今後もnoteで綴っていきます。
モヤモヤと折り合いをつけていく思考の過程が見れたら面白いだろうな。
これからもモヤモヤに飲まれず、前に進むため考えていくことを楽しもうと思います。
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このnoteは、
生活の中でふと立ち止まって考えたこと
自分自身の迷い
試行錯誤、学び
などを、少しずつ言葉にしていきます。
その過程で得た気づきや学びを、同じようなことを考えて検索している誰かにおすそ分けできたら嬉しいです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
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