にこ舟道中 「より道 ぶろぐ」
少し寄り道、さらに奥地へーー。
寄り道「にこ舟道中」では、
旅ブログ本編に含めると長く長ーくなりすぎる!!
でもどこかに残しておきたい!
そんな内容を寄り道ブログにしました。
※新たに分かったこと、訂正など随時更新いたします。
ア行の巻
善知鳥神社/新潟県佐渡島

右に曲がる

新潟県佐渡市相川下戸村
佐渡市相川の総鎮守。
社殿の創始は1600年(慶長5年)、勧請は1151年(仁平元年)といわれる。
Googleマップでは千畳敷、戸河神社付近に「善知鳥神社元宮」と表示されるが、相川に祀られる以前の社地は不明。
ご祭神は善知鳥明神、御神体は住吉大明神(調べます)
<例祭>
10月19日 相川祭りは400年続く善知鳥神社の例祭。集落の祭りとしては島内最大級。神社で祭式を行った後、神輿は町内を練り歩き、豆まき翁の舞う太鼓組、獅子舞などが門付けして回ります。
京都の祇園祭の影響を受けており、本祭りでは鳥居に張られた注連縄を勢いよく切り、町内を門付けしてまわります。長刀で注連縄を切るところも祇園祭と似ています。
<名称の由来>
青森市の善知鳥神社から来ており、海鳥の「ウトウ」から名称がついた説がある。青森の善知鳥神社の御祭神は宗像三神、相川は住吉神のため青森からの勧請ではないと思われる。
『にいがた地名考』長谷川勲 著より
「うど、うとう、ぶ(う”)どう」などは土地の窪みを表し、海鳥ウトウも横穴を巣をつくる。そのためウトウは海蝕洞を由来としていると考察しています。宮崎県日南市の「鵜戸神宮」は鵜戸崎の大洞窟の中に営まれているため、「うど」は大洞窟からついた名ではないかとのこと。
こちらは資料がないのでメモ程度ですが、シュメール文明の太陽神「ウトゥ」から来ている説もあります。シュメール人は、ウトゥが天空を渡る時、世界で起こることをすべて見たと信じていました。妹のイナンナとともに、ウトゥは神聖な正義の執行者でありました。夜になると、ウトゥは冥界を越えて日の出の準備に東に行くとされています。(Wikipediaより)


1本ツノがはっきりしている

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乙羽池の伝説/新潟県佐渡島
『佐渡の民話 佐和田国仲の伝説と世間話』児玉 宗栄 著より 抜粋要約
むかし、一人の女遍路乙羽という娘が、講議所 長福寺に宿を乞うて泊まった。寺でも手伝いの人手がほしかったのと、乙羽も行くあてもなかったので、そのまま下女として住み込み幾年かの歳月が流れた。
ある日、蕗を採りに乙羽は奥山へ入った。その時ちょうど女のさわりになって腰巻きを汚してしまった。乙羽は誰も見ていないと思って池でそれを洗った。
するとその時、湖面の水が大きく渦巻いたかと思うと、中から大きな蛇がぬかっとかま首をもたげて言った。
「娘よ、よくぞ参られた。長い間待っておったぞ。わしはこの池の主だが、おまえのような美しい娘がわしの妻になってくれるとは、ありがたい。長い間待ったかいがあった。」
乙羽は、あまりに驚き腰を抜かし「わたしは蕗を採りに来ただけで嫁に来たのではありません。和尚さんが心配するので帰らせてください。」と言うと、大蛇は「おまえがわしの嫁になる因縁を和尚に聞いてみるがよい」と一旦帰してくれた。
大蛇の話を聞いた和尚は、大粒の涙を流して乙羽に詫びた。
百年前、大旱魃があり、人々は瀕死の状態だった。かくなる上は、山の池に行って主に頼んで雨を降らせてもらう以外に手がないということになり、村人は山へ登り一心に頼んだ。
すると大蛇が「今は大蛇だが、ゆくゆくは竜になって広い天空を駆け巡りたいと思っている。大蛇が竜になるには人間の娘を妻にしなければならぬ。村の娘を一人くれるなら雨を降らしてもよいぞ」と言った。
村人は雨ほしさに承諾し、大雨で村は潤ったが、どこの娘を大蛇のところにやるかで折合いがつかず、連日連夜けんかのような談義が続いた。
結論が出ないので、講議所の和尚に村の娘を救ってほしいと頼んだ。和尚は一計をめぐらせて池の主に提案した。
「どこの娘をやったらいいか決めかねているので、この池で最初にお腰を洗った娘を嫁にするというのはどうか?そなたに気のある娘をもらったほうがよかろう」
まんまと和尚の計略にひっかかった大蛇は、上機嫌で申し出を受けた。「約束をたがえたら大洪水を起こして、村を一面の石原にしてしまうがよいな」 村人は娘たちに、池で「腰巻きを洗うな」と堅く戒めていたので、百年は安泰だった。
和尚は村の娘ではない乙羽に伝え忘れていたのだ。和尚から話を聞いた乙羽は、和尚と一緒に一晩泣いて夜を明かし、夜明けには、村を洪水から救うために嫁にいくことを決心した。
三日目の朝、和尚が読経をしていると本堂がきしむ音がして、驚いて外へ出てみると、大蛇が本堂を七巻半もして赤い舌をぺろっぺろ出して言った。
「長々とお経を読んでないで、さっさと乙羽を出せ」
頭に来た和尚は大蛇に怒鳴り返した。「大蛇のまま嫁を迎えに来るとは礼儀知らずにも程がある。人間の娘をもらうんだから、りりしげな人間の姿で出直して来い!」
それを聞いた大蛇は、明日また来ると言って山へ帰っていった。
翌朝、りりしげな若者が白馬に乗って乙羽を迎えに来た。乙羽は馬上の人となると和尚や村人に言った。「わたしが池の主になったら、村が水に困ることがあったら雨を降らせますから、いつでも雨乞いに来てください」
村人は泣く泣く乙羽に別れを告げ、念仏車まで見送ると、山には濃い霧がたちこめ二人の姿は見えなくなった。
次の日の夜明け、耳をつんざくような雷鳴をとどろかして、大蛇が金色の竜となって天を昇っていくのを村人は見たという。それは旧暦六月二十四日の朝だったという。
そのときから乙羽が池の主になり、年に一度六月二十三日(現在は七月二十三日)の夜、竜は乙羽に逢いに来て、池で乙羽と一夜を明かすのだという。
※伝説の冒頭に乙羽が池に沈んだと書かれており、他の文献でも入水と書いているものもあるため、人柱のような形をそこはかとなく匂わせてもいます。
カ行の巻
加茂神社の伝説/新潟県佐渡島
『佐渡の民話 佐和田国仲の伝説と世間話』児玉 宗栄 著より 抜粋要約
<鶏肉を食べない加茂氏子>
加茂神社を建てたとき、左甚五郎級の腕の立つ大工がいて、外桁と梁の端には前向きの雌鶏を、桁の端には雄鶏を対に横向きに作った。
鶏の出来栄えは申し分ないのだが、作るとき向かって右側(東)の雄鶏には手を焼いた。「四羽のうち、オレを最後に作ったのが気にくわん」と暴れ、首を作ったらくるっと横を向き、脚作ったらキューっと伸ばし、じっとしていない。
いざ取りつけようとするとバタバタ動いてどうにもならなかった。大工が困って氏子総代に相談し「なぁ、おまえも神さんの使い奴なんだから、そうわがまま云わんで、ちゃんとおってくれっちゃ。そんかわりおらちは、鶏の肉は食わせんと約束するさけぇ」と総代が言うと、それっきり木の雄鶏は動かなくなった。
そんなわけで、加茂神社の氏子は鶏肉だけは食べないことになった。
<変な時をつくる神さん鳥>
むかし、加茂神社の外桁の雄鶏が、変な時刻に鳴いて困ったことになった。問題の鶏は正面に向かって右側(東)の雄鶏である。
鶏は一羽鳴くとその声につられて他の雄鶏も鳴く習性がある。夜明け前なら問題ないのだが、丑三つ時(夜中3時頃)に鳴いたり、床につく戌の刻に「コケコッコー」と鳴くので、たまったものではない。
雄鶏は卵を産まないのだし時を告げるのが一番の仕事なのに、でたらめでは役に立たない。食べれば神さまのバチがあたるので、雄鶏をお宮へあげればいいのでは?と、氏子は家から雄鶏を持ってきてお宮へあげた。一時期はお宮の境内が雄鶏ばかりになった。
それでも神さん鳥が鳴くのをやめないので、氏子の一人が弓を引き、神さん鳥の目に当たった。それきり神さん鳥は鳴かなくなった。
(大工さん自身が神さん鳥の腹に穴を開けた話と二通りある)
<鶏が引っ張った手水石>
加茂神社の境内に鶏が引いてきたという大きな石の手水鉢がある。むかし、加茂神社には手水鉢がなかった。
岩ン沢だかどこかでいい石が見つかって石屋に彫ってもらった。大きな修羅(大木で作ったソリ)に乗せ、何日がかりで加茂の林を引いてきた。
やっと境内についたが、男たちがいくら引っぱっても押してもビクともせず、みんなくたびれてしまった。一人の男が「鶏が神さんの使いしめなのに、こんなときに手伝わんでどうする」と毒気づいた。
すると、「コココココココ」と鳴き声がし、社殿の桁から一羽の雄鶏が降りてきて、大きく羽ばたくと、牛の五十六倍の大きさになり、みんなオバケだと思い逃げ出した。
鶏は怒りながらもクチバシで綱を引っぱって、ズルズルと石を動かした。
今度はすーっと小さく元の鶏になり、またコココココ鳴いて社殿に戻り、桁にとまった。みんながビックリして追いかけると、二、三度首をかしげてこちら見て元の木の飾りに戻ってしまった。

奥には井戸も見える
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刻印(古拙文字/魔除け)
◼︎鉱山の魔除け
鉱山仕事は危険な作業のため、呪符が刻印されているそう。
・山口県長登銅山
奈良の大仏に用いる銅を算出
古い坑道前の岩塊に呪符が彫られている
(資料元の本を読んでね)
・山形県野辺沢銀山
排水用の疏水坑にまとめて彫られている
(資料元の本を読んでね)
・山形県佐渡金山
南沢疏水坑に十を□で囲んだ形と、逆卍の刻印がある。
疏水坑ツアーが以前行われていたが、現在は中止されている。
疏水坑は上部の尖った五角形をしているそうです。
(資料:かたちの謎を解く 魔よけ百科 岡田保造 著)
サ行の巻
鎮目市左衛門/新潟県佐渡島
関ヶ原の戦いでは徳川側につき、真田攻めでは七本槍の一人として活躍。合戦後、この功績により大番組頭に抜擢され、元和4年(1618)〜寛永4年(1627)には佐渡奉行として佐渡を統治した。佐渡金銀山の復興に力を入れ、鉱山に活気をもたらした名奉行と伝わっている。
(佐渡市ホームページより抜粋)
釣り好きの鎮目市左衛門が、吹上海岸で釣り中に大蛸に引きずりこまれそうになり、そのときの手の傷が元で亡くなった話。川鱒を獲りに行った際、川に飛び込みなかなか上がってこない奉行を探すと石の間に手がはさまっていた話などが「佐渡の伝説」に残っています。
(「佐渡の伝説」浜口一夫・吉沢和夫 著 参考)
鎮目市左衛門は、佐渡で病死されたようですが、この二つの話が猿田彦命の話に似ているのが気になるところです。
紀州から船を調達し、山伏もその船に乗って佐渡へ渡ったのでは?と前回の佐渡旅ブログ「佐渡は宝の島すぎる」にも書きました。 (資料:佐渡の風土と被差別民 沖浦和光著)
佐渡一宮御祭神の五十猛命、佐渡に「椿」の地名が多いこと、近くに二見の地名があること(猿田彦ゆかりの名称)などから、紀州(和歌山・三重県南部)と縁があるように思われます。
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縄文土器/新潟県佐渡島
佐渡の縄文土器には他の県との関わりが見られます。能登とのつながりが深く非常によく似た土器が出ているほか、福島県に多く出土する渦巻き模様や東北の土器も見られるそうです。縄文時代から海の交流があったということですね。
(資料:佐渡歴史民俗叢書Ⅱ まほろばの時代 発行:両津市郷土博物館)
タ行の巻
玉作り遺跡/新潟県佐渡島
弥生時代、佐渡では玉作りが非常にさかんでした。しかし佐渡ではあまり出土していないため、どこかへ流通していたようです。
佐渡の景勝地として有名な「夫婦岩」は緑色をしています。この火山灰と小さな岩石が固まってできた緑色凝灰岩は、当時のアクセサリー管玉に加工されていました。
佐渡の赤のつく地名にもなっている赤玉は鉄石英で、弥生時代〜現在でも「魔を払う」としてお土産で販売されています。
管玉作り遺跡は日本海側、山陰・京都・北陸に集中していますが、これは玉作りの石が産出されたのが日本海側だからではとのことです。
(資料:佐渡歴史民俗叢書Ⅱ まほろばの時代 発行:両津市郷土博物館)
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戸河神社/新潟県佐渡島
金銀山発見とともに急速に鉱山都市ができあがった頃、下相川に炭焼きの藤五郎が住んでいた。炭焼き稼業で世を渡り、心優しい働き者だった。貧しさのなかでも、あわれみの心がふかく、朝夕の食べ物を隣近所に分け与え、一家のごとくつきあっていた。人々は藤五郎の徳を慕い下相川に集まったという。
藤五郎の死後、人々は彼を神にまつり、藤五郎権現の祠をたてた。そして春秋に神事を行い、日照りになると雨乞い、疫病が流行ると退散を祈願した。
ところが、延宝(1673年-1681年)の頃訪れた神道者により戸川大権現と名も神名も改め、社も広く造りかえたという。するとなにを祈っても叶わなくなり、人々の敬いも薄れ、風光を愛で酒をくみかわす場所になってしまったという。
のちに戸川神社には百足山神社も合祀されました。
(「佐渡の伝説」浜口一夫・吉沢和夫 著 より抜粋)


と書かれた石碑
ハ行の巻
吹上海岸石切場跡/新潟県佐渡島
国史跡に追加指定された吹上海岸石切場跡は、相川市街地の北、下相川地内の海岸段丘崖下の海岸部石切場に残る矢穴にある、鉱山用石磨の石材切り出し場です。
(佐渡金銀山だより より)

