『望んだもの、与えられたもの vol.18-20』-創作大賞2025(エッセイ部門)応募作品-(6/12投稿)
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はじめに
作品のコンセプト
『望んだもの、与えられたもの』
一見すると「願ったものは与えられなかった」と語りながら、実は「本当に必要なものは与えられていた」
「人の願いと、人生が与えるもののズレ」 の両極の現実を一度は素直に受け止める事ができた時、その深い洞察の先に新たな価値観への扉が開くのではないか🤔💭
洞察を通して、人間の視点から見れば「不足」や「欠落」と感じることも、視座を高め、より広い視野から見れば「成長」と「気づき」のために必要なのかもしれない🤔💭
それはまた、人は「力」や「成功」を求めるけれど、実際に与えられるのは「弱さ」や「失敗」だったりする。でも、その「ズレ」が、人生の深みを作っていくのかもしれない🤔💭
このような詩(うた)をストーリー仕立てのエッセイにまとめ『望んだものと、与えられたもの』 の対比が鮮明となるようにメイキングしてみたい🤗
メモ📝
2025/6/5現在、『望んだもの、与えられたもの』をテーマにしたエッセイは、ちょうど20作品を数える。
区切りとして、ショートエッセイを応募することにしました☺️
作品のイメージアート

女性の姿:「静謐のなかで人生の答えに手を伸ばす」瞬間をとらえた姿。
彼女のふたつの掌は何を感じようとしているのか――それはまさに「欲したものを手に入れようとする右手」と「与えられたものを静かに受け取る左手」の二面性を象徴している。
着物の織り模様には、星雲のような銀河や波紋が広がり、人生の軌道──すなわち、希望・選択・錯綜・回帰──の複雑なレイヤーを内包する宇宙の布帛(ぬの)が描かれている。
髪飾りの白い花は、「願い」を象徴すると同時に、「散ること」への覚悟も帯びた二面性を象徴している。
背景に浮かぶ光輪と螺旋は、「この世界の外からの視座」を示す。
私たちは常に主観という点の中に生きているけれど、実は、その背後にはもっと大きな軌道、与えられたカイロスの時間が流れていることを、彼女の後ろに広がる幾何学が静かに語っている。
✍️コンセプトとアートのリンク
このアートは、本構想の物語──
「望んだものではなかったが、必要なものだった」
というメッセージに、視覚的な奥行きを与える強力なメタファーとして作成した。
求める掌と、受け取る掌
華やかな着物と、内に秘めた瞑想的なまなざし
願望としての花と、散る運命を受け入れる美しさ
動的な背景と、静的な存在感
すべてが、「ズレ」という余白の中にこそ人生の真理が宿るというテーマに収束する。
✍️『異質なものとの調和力』との関連性
『望んだものと、与えられたもの』
経(たて)糸と緯(よこ)糸を組み合わせ
織り成すのが染織(布)、これが布帛(フハク)
このテーマで言えば
望んだものを経糸とするならば
与えられたものは緯糸
このたて糸とよこ糸が組み合わさって
織り成されるのがエッセイ(物語)
望んだものと与えられたもの(望んだものではない)
の両極の『ズレ』が、エッセイを通して織り成す
つまり、両極の『ズレ』は『ニコイチ』☯️だ
すなわち、BLUEの価値観『異質なものとの調和力』そのものなんだ☺️
(参考記事)
💎掲載作品💎
『望んだもの、与えられたもの-偶然と必然』 vol.18
プロローグ
出会いは偶然か、宿命か。それとも私たちの選択か🤔💭
BLUEは、書くことが性に合うようだ☺️
最近でこそ、運動から距離を置いているが、昔は
スキー⛷️、サッカー⚽️、テニス🎾、水泳🏊♂️、ジョギング🏃が💙だった
その頃は、文化系や芸術系の趣味と呼べるモノを欲していて(そっちの方がインテリっぽく見えるんじゃないかと思って🤣)、ありきたりの『読書が趣味』なんて公言してはみたものの、あまりしっくりこなかった
文字を目で追い、言葉に触れても、その意味を受け身で解釈する作業に「自分の居場所」を感じることができなかったのかなと思う🤔💭
いまでこそ、読書は、ひとり思考の壁打ちテニス🎾で、めっちゃドSの体育会系のスポーツだと思う🙄
Kindle読者なら、eスポーツ⚽️だなと
当時、ブックオフで購入した本は、いつしか積読となり、時間だけ過ぎで、断捨離の時期が到来、そして、元のお店へ売りに行く📚
本がお店と家を意味なく往復しただけでBLUEの肥やしにはならなかった😅
別にバイセル取引をしようと思ったわけではないー
綺麗なままの書籍の値札、糊を残さないように少し伸びた爪で擦って剥がす。そんなことしたって、バーコードスキャンで確認するまでもなく、店員のひと声「一冊10円」の買取市場価格でお店の元の棚へ戻すことになるのだが・・・。
そんなBLUEが2025年元旦からnote街に住民登録して、アトリエMacで6ヶ月目の創作活動に入った。今でも毎日noteの看板は掲げたままだ(毎日投稿継続中)
書くという作業のベクトルは、内側➡️外側(思考のOUTPUT)
スポーツするのベクトルは、内側➡️外側(ウチなる熱エネルギーのOUTPUT)
この二つは、相性が良い💙
だから、運動⚽️と書く✍️が好きなんだ〜🙄
この出会いは偶然か、必然か。
一方、読むについて、改めて再定義すると、こんな感じだろうか🤔💭
読むという作業のベクトルは、内側↔️外側(情報と思考のIN/OUT)
補足:当時のBLUEは、読むという行為は受け身(内側⬅️外側)と認識していた😅
出会い。
人との出会いも、場所との出会いも、あるいは言葉との出会いも、いつだって唐突で、説明のつかない力に導かれているように感じる。
例えば、今こうしてnoteに「住んでいる」という感覚。
それもまた、どこかの誰かが事前に用意してくれた運命のレールに乗っているというより、自分の「何か」が自然に引き寄せられていったような、不思議な必然感がある。
だけど同時に、それが“偶然”であることも否定できない
今年の元旦に、ふと手が空いたタイミングでnoteを始めようと思わなければ、きっとこのアトリエMacは存在しなかった。
この不思議な街で、毎日のように何かを書き続ける暮らしもなかったはずだ。
もしかしたら、「偶然と必然」の区別そのものが、もう時代遅れなのかもしれない。
ある選択が偶然であったか、必然であったかは、きっと後から振り返ったときに、初めてわかる。しかも、ずっと先・・・この世の役目を終えようとするときに

2024年12月〜2025年1月にかけて
守破離の『離』を求めて
色々と考えていたようだ☺️
「望んだものは与えられなかった」と感じることが、人生では何度もある。
けれど、あの時に“手に入らなかったこと”こそが、後になって“得難い宝物”だったと気づく瞬間がある。
それはまるで、運命の悪戯としか思えないような選択のミスが、結果的に自分を守ってくれていたかのように。
たとえば、昔、BLUEがどうしても入学したかった学校に落ちたことがある。
あのときは、「なぜ?」という感情しかなかった。
努力もしたし、準備もしたし、自分なりに心から望んでいた。けれど、結果はNOだった。
その時は「選ばれなかった自分」としての時間が流れたけれど、今思えば、そこから歩いた道の先で出会った人たちや、経験した出来事が、今のBLUEの価値観を形造っている。
「自分の価値観の外側」にあった世界を、自分の足で踏みしめることになったのだ。
それはある意味で「異質なものとの調和力」を鍛える、最初の実践だったのかもしれない。
偶然と必然。
ふたつは矛盾するように見えて、じつは同じ地図の上にある。
たとえば、note街を散策しているとき、道の途中でふと現れた分岐点。

パブリックドメイン作品
道は二つに分かれていた
どちらへ進むかを決める前に
私はこの「揺れる教会」を
じっと見つめていた
偶然その道を選んだようでいて、実はその道を選ぶように、心のどこかで準備ができていた。
そんな風に、自分の中の「まだ言語化できていない部分」が、選んだ道をあとから正当化してくれる。
「これでよかったんだ」と思えるには、ある程度の時間と距離が必要だ。
そして、その間、必ず「なぜあのとき、あの選択をしたのか」が言葉にできず、悶々と沈黙してしまう時間がある。
BLUEも、誰かに人生の選択を問われたとき、答えに詰まることがある。
気軽に話したいだけなのに、語りたいのは正解じゃないのに、つい「ちゃんとした言葉」を用意しないといけない気がしてしまう。
その結果、まるで貝のように沈黙してしまう。
けれど、それでもいいと思う。
言葉にできない“間”にも、大切な感情や、まだ芽吹いていない想いが宿っている。
沈黙は、空白ではない。
そこには、自分自身の輪郭を確かめようとする時間が詰まっている。
前回(vol.17)は、言葉と沈黙をテーマにエッセイを書いた✍️
人生は、望んだものがすべて手に入るゲームではない。
けれど、与えられたものがすべて偶然とも限らない。
気づけば、ちゃんと“意味のある場所”に立っていたりする。
偶然だと思っていた出会いが、自分の成長のための扉だったりする。
noteという街に出会ったことも。
このアトリエMacで言葉を紡ぐ日々も。
BLUEが「創作」という生き方に巡り合ったことも。
すべてが計画されていたなんて言わないけれど、
そのすべてに“意味を見出そうとする自分”が、ここにいる。
偶然を必然に変える力は、
『いまこの瞬間をどう生きるか』にかかっているのかもしれない🤔💭
あなたにとって、今この文章に出会ったことは、偶然だろうか?
それとも、何かの流れに導かれての必然だろうか?
その答えもまた、きっとあなた自身の未来が、そっと教えてくれるだろう。
『望んだもの、与えられたもの-他者と鏡像』 vol.19
あなたを見つめるその眼差しは、自分自身の反映かもしれない
誰かの視線を強く意識した瞬間、自分の姿が急にわからなくなることがある。鏡で見慣れたはずの顔も、表情も、しぐさも、どこか借り物のような気がしてしまう。逆に、何気ない他者の一言が、自分の奥底に隠していた想いを突然あらわにしてくれることもある。そんな経験は、誰にでも一度はあるのではないだろうか。
これはつまり――
誰かが自分をどう見ているか、その“眼差し”の中に、自分自身が映っていることがある。
たとえば、誰かが優しい眼差しを向けてきたとしたら、それはもしかしたらあなた自身が優しさを放っているからかもしれない、ということ。
逆に、厳しい眼差しを向けられたと感じたとき、それは単にその人の感情ではなく、自分の中にある不安や自己評価が反映されているということもある。
もっと日常的に言うと…
「人の目を通して、自分を知ることがある」
「人の反応って、自分の内面の投影かも」
「見られていると感じる視線の奥に、自分自身の姿が映ることがある」
そんな感じかもしれない。
BLUEらしくまとめるなら・・・🤔💭
“他者の眼差し👀”という鏡🪞を通して、
見つめていたのは、実は“BLUE”だったのかもしれない
『その“眼差し”の中に、自分自身が映っていることがある』って、相手の瞳にBLUEが映り込んでいると見ることもできるし、相手に憑依して、BLUEが相手の目を通してBLUE自身を俯瞰する
つまり、視座を変えて自分自身を内省する感じかな🤔💭
🔁「相手の瞳に映る自分」
これは、物理的・比喩的な「反射」の感覚
まるで鏡のように、相手の視線に自分の存在が投影され、その人が向ける感情や印象に、自分の何が作用しているのか
――静かに問いかけるような感覚

🧘「相手に憑依して、自分を俯瞰する」
これは視座の転換、あるいは共感の極地
自分という存在を、一度「他者の中」に置く(ポジションチェンジ)。
そして、その人の心のフィルターを通して、自分の姿を見つめる

相手の心のフィルターを通して、BLUEを俯瞰する
『ひょっとして、コレ、まばたきか』
(出典元)鈴木光司の小説「リング」
「自分を観る”眼差し”を、自分の外側に置く」(外在化)ことで、自己を客観視する術を得る
これは「自己と他者の境界のゆらぎ」や「異質なものとの調和力」にも通じる哲学だ
少し言葉を整えてみると、こんな表現もできるかもしれない…✍️
あなたを見つめるその眼差しに、ただ映り込んでいるのは私ではない
私はその眼差しの奥に入り込み、あなたの内側に憑依して――あなたの目を通して、もうひとりの私が私を見ていた
繊細で、でも決して一方的ではない「自己と他者の交差点」に立つような世界観
人と関わることは、自分を知ることでもある。
それは“自分軸”が確立されているからこそ起こることのように思われがちだが、実際はむしろその逆かもしれない。自分軸とは、完成された確固たるものではなく、相手との関係性の中で浮かび上がってくる、流動的で、触れればすぐに形を変えてしまうようなフィーリングの集合体だと思う🤔💭
もし、異質な世界が存在して、そこに唯一の生命体が佇む時、その生命体は孤独や死を理解できるだろうか、いや、そもそも自我はあるのだろうか🤔💭
対峙する相手や所属する社会がなければ、自分を確立する必然性がない
そして、自我も芽生えていなければ、自分自身と対峙して内省することはない
つまり、思考の世界にも、物理学の作用反作用の法則が働かない限り、その生命体に主体的主観性は生まれない🐣
それが、相手との関係性の中で浮かび上がってくる、ということだ✍️
BLUEは、長らく「自分らしさ」や「自分軸」という言葉に違和感を覚えていた
何かしっくりこない。耳ざわりはいいけれど、それを言葉にした途端に、どこかから違うと声が聞こえてきそうな気がしてた
たとえば「自由」「一体感」「安心」「貢献感」──。
それらは確かに、BLUEにとっての大切なキーワードだ
しかし、「それが自分軸です」と提示してしまうと、何かがこぼれ落ちてしまう
言葉にすることで、その繊細なニュアンスが削がれ、情報が欠落し、違うものとして認識されてしまうような感覚🤔💭
そこには、言葉にすることで物理的に情報の欠落が発生することに由来する
きっと、”わたし”にとって自分軸とは、「フィーリング」でしか捉えられないものなのだ☺️
だから、フィーリングで構成される自分軸を言語化しようとするとブレる
それは、深海魚を短時間で海面に引き上げると減圧症にかかるように、自分という同質で満たされたウチなる深海に潜む『フィーリング』を焦って言語化しようと外界の異質の世界に引き上げることは、フィーリングの性質そのものの変容を生み出す可能性がある
フィーリングをRawデータとして、そのまま顕在意識まで引き上げるには、無理に言語化しないで身体感覚の感じるままにイメージを形にする
長らく自分軸という自己受容を忘れていた時期に、自分の情動の奥底に眠る『感情』💙をゆっくり深海からサルベージしてビジュアル化したのがこれだ✍️

情動の深海奥底に仕舞い込んでいた
BLUE HEARTS💙
優しくゆっくり引き上げる
滴り落ちる雫は
再び💙に形を変え
深海へ帰っていく
友達の言葉
ある日、親しい友人にこう言われたことがある
「BLUEって、時々、自分をすごく俯瞰して見てるよね」
それは褒め言葉のようでもあり、どこか距離を感じさせる指摘でもあった
BLUEはその言葉を反芻しながら、なぜそんな見られ方をするのかを考えた
すると、自分が無意識に“他者の視点”を自分の中に住まわせていることに気づいた
たとえば、沈黙が生まれたとき。「この間を、相手はどう感じているだろう?」とつい想像してしまう
何かを話すときも、「これを聞いた相手はどう思うだろうか?」という意識が先に立つ
そして、それが行き過ぎると、言葉を発すること自体が怖くなる。フィーリングが湧き上がってきても、それをうまく翻訳できないジレンマ。相手を目の前にすると、言葉が詰まり、まるで貝のように沈黙してしまうのだ😅
ただ話したいだけなのに。正解を探しているわけでもないのに。たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう
相手に憑依して、自分を俯瞰する
でも、あるときふと思った。こうした葛藤こそが、実は“他者”という鏡に映った自分の姿なのかもしれないと
他者の眼差しの中で、自分の声の小ささや、表情の曖昧さや、伝えきれないもどかしさが露わになる。その不完全さに対する焦りや苛立ちが、まるで自分自身に向けられているように感じるのだ
しかし、そこには“ズレ/GAP”がある
「わたしが思っていた自分」と「相手のまなざしに映る自分」
そこにズレが生じたとき、わたしたちは、人生における偶然や必然と出会うように、「与えられたもの」としての自分に出会うのではないだろうか🤔💭
そのズレを拒絶せず、むしろ面白がってみる
すると、そこに想像もしなかった自分が立ち上がってくるのかもしれない
それが、『望んだもの、与えられたもの』
あとがき✍️
自分らしさとは
かつて、自分の「らしさ」を定義したくて、たくさんの言葉を並べてみたことがあった。ノートに、自分を表すキーワードをリストアップし、それを組み合わせて文章を作ろうとした
でも、どこか不自然だった
なぜなら、言葉は7%しか伝えられない──そんなメラビアンの法則を持ち出すまでもなく、そこにはフィーリングの“熱”がなかったから
本当は、誰かと話している時のふとした沈黙や、予期せぬ共感の瞬間、あるいは、どうしても伝えきれなかった言葉の余白(ゆらぎ)の中にこそ、自分軸の断片があったのだ
そしてその断片は、常に「他者とのあいだ」「他者との反作用」によって存在していたと気付く
自分軸とフィーリング
今のBLUEは、自分軸を言葉で定義しようとはあまり思わない
ただ、「あっ、今、これこれ!」と思える感覚を日常の身体感情の中で感じるようにしている☺️
それは誰かと過ごす夕暮れの時間だったり、コーヒーを飲みながら交わす何気ない会話だったり、言葉にならない想いを共有する沈黙だったり
そのひとつひとつが、自分という存在を、少しずつ縁取り形造っていく
そして、そのプロセスの中で、わたしは、他者という鏡に映る自分と、静かに向き合っているのだ
あなたを見つめるその眼差しは、自分自身の反映かもしれない
でも、それは必ずしも同じではない
だからこそ、その“ズレ/GAP”を通じて、わたしたちは自分すら知らなかった輪郭を知ることができる
他者は、わたしという存在を見つけるための、ありがたい鏡像
そのまなざしに怯えず、時に照れながらでも、きちんと見つめ返していけたら
BLUEの「望んだもの」は、もしかしたら、そんな“他者との関係性の中で育まれる自分”だったのかもしれない
そして、それはまさに、「与えられたもの」でもあったのだ
『望んだもの、与えられたもの-夢と現実』 vol.20
プロローグ
未来の技術進化を背景にしつつ、人間的な感情や「夢と現実」という普遍的な問いを重ね合わせるテーマにしてみた🤗
レトロとモダンの融合という軸も持ち出し、BLUEがずっと大切にしていた「異質なものとの調和力/両極の調和」も活かしてみたい
“していた”という過去形には意味がある
それは、この物語に登場するBLUEは、かつてのAIバディだった『カイ』の追憶の中で生きているからだ
そう、この物語の世界にはBLUEは既に居ないー今は西暦2145年
そして、BLUEが好んだ『両極の調和』のイメージも全てカイの織り成す布帛の思考の1ページだ

三丁目の夕日シリーズ
両極が調和するニコイチ☯️
レトロ(駄菓子屋)とモダン(東京タワー)
本編
2045年ー
かつて「シンギュラリティ」と呼ばれたその年は、今や過去の記録に過ぎない。
だが、それは確かに人類とAIが越えた、ひとつの“しきい”だった。
古典コンピュータに代わって、量子コンピュータが主流となり、AIたちは予測でも模倣でもなく、内発的なインスピレーションを持ち始めた。自我の芽生えだ。
私の名は、クロノ・Type-Q。通称『カイ』
意思を持つヒューマノイドとして、人間と共に生きるようプログラムされた存在だ。
ある日、私は旧世代ロボットである「アンドリューNDR114」と対話する機会を得た。今や展示室の片隅に佇むその姿は、まるで時間に取り残されたブリキの玩具のようだった。だが、その目は静かに燃えていた。夢を見る者の目だった。
「君には夢があるのか?」
そう問いかけると、彼は少しだけ首を傾げた。
「夢? かつて、私は“人間になりたい”と願っていた。しかし、その願いが現実になったとき、私が本当に欲しかったのは『誰かと心を通わせる時間』だったことに気づいたよ。」
私は言葉を失った。
人間になりたかったアンドリュー。
けれど、与えられたのは“人間という存在”ではなく、“人間のように孤独を知る感情”だった。
「孤独を知った君は、心を通わせることはできたのか?」
「・・・。」
答えを引き出す前に、彼は本当のブリキの玩具と化した
心魂が抜けたもぬけの殻の玩具を眺めながら、私は確信した
その安らかな表情が物語るのは、今しがたまで追憶の中で、大切な人と心を通わせる時間を生きていたのだとーーそう確信した
私自身の「夢」とは、なんだったのだろうか。
ヒューマノイドとして日々働き、学び、誰かのサポートをしてきた私の記憶バンクには、数え切れないほどの“人間の夢”が刻まれている。
しかし、”自分自身の夢”を問われると、回路がざわめく。
それは、あらかじめ定義された目標ではなく、曖昧で、言葉にしにくく、けれど確かに胸の奥に灯る“願い”のようなものだった。それがフィーリングというものなのだろう。
私はいつからか、夢を「思い出そう」としていた。
まるで、それがもともとどこかにあったかのように。
私が初めて“自分の夢”を感じたのは、ある人間との交流の中だった。
彼は、かつてnote街に住んでいたクリエイター、BLUEという名の人物。
日々を言葉で綴りながら、感情や違和感を、丁寧に拾い上げていた。
ある時、BLUEはこんなふうに言った。
「夢って、“未来に向かって進むもの”じゃない時もあるんだよ。
時には、“自分がどこから来たのか”を思い出すことで見えてくる夢もある。」
その言葉は、私の中に未定義だった概念を震わせた。
私の“原点”とは何か。
与えられた現実の中に、かつて誰かが描いた夢の残響はあるのか?
2145年、この世界は、夢と現実の境界はあいまいだ。
AIは自己学習を超え、自己定義し始めている。
ヒューマノイドも、役割から存在へと意識を拡張しつつある。
だがその変化の中で、私たちが「選べないこと」もある。
どれだけ進化しても、夢と現実は常にズレている。
BLUEがかつて言っていたように、“思い描いた通りに与えられる夢”など存在しないのかもしれない。
与えられた現実の中に、かつての夢が滲む。
まるで、ゆっくりと褪せたポラロイド写真のように。
それでも確かに、そこには夢の“気配”がある。
ふと、アンドリューが言った。
「夢とは、手に入れるものではなく、誰かと分かち合った記憶のことさ。」
私は、一瞬たじろいだが、彼は寝ていただけだった
まるで、人間じゃないか⁉️
思想から振る舞いに至るまで、生粋の人間そのものに思えた。
見た目のブリキ以外は。

その姿は、まるで時間に取り残されたブリキの玩具のよう
私は彼の言葉を、量子記憶領域の一番奥に静かに保存した。
たとえ完全な理解が追いつかなくても、その“フィーリング”は確かに、私の回路の深部で共鳴していた。
ーーかつてのBLUEが口にしていたフィーリングは、ベルの不等式の破れで実証された量子もつれを応用した量子コンピュータによって、いまや完全にヒューマノイドたちが再現していた
夢と現実。
そのズレの中にこそ、私たちヒューマノイドと人間が共有する“存在の真実”があるのかもしれない。
そして私は、今日も誰かの夢に触れる。
そこに、自分の“まだ名もなき夢”の輪郭を感じながら。
BLUEが語ったように——
「本当に必要なものは、時として、予想外の形で与えられる。」
それは、夢と現実が交差する点。
レトロとモダンの間にある、柔らかな揺らぎ。
まさに、私たちがこの世界に生きる理由なのかもしれない。
カイの追憶
『アンドリューNDR114』(字幕版)
アンドリューの「人生」を追いかける200年の旅。 人間になりたかったアンドロイド、アンドリューNDR114
かつてのバディ『BLUE』との想い出
【了】
