2SD(2標準偏差)と外れ値のあわい【前編】
プロローグ
友達とのチャット💬
初めて迷子にならずに到着しました。
迷子は私だけではないのですね!
とはいえ2SDは外れてますね🤣
ハンドルを左に切る方向音痴🤣
はて⁉️
2SDってなんだ🤔💭
今回は、そこから話が始まる🐣
「2SD(標準偏差2つ分)」って何?
まず、「SD(Standard Deviation)」とは、標準偏差の略で、統計学においてデータのばらつき(散らばり具合)を示す指標。
この値が小さいほどデータは平均値の周りに集まっていて、大きいほど平均から離れたデータが多いことを意味する。
ざっくり言うと、
平均を中心に
±1SD に → 約68.2%の人
±2SD に → 約95.4%の人
±3SD に → 約99.7%の人
が入る、という目安。

つまり、
友達が言う2SDは外れているとは、
±2SD(約95.4%の人)の外側と言う意味。
もう少し柔らかい言い方にすると、
採択域(マジョリティ)には入らず、
外れ値(マイノリティ)だよね
という自虐ネタである☺️
『事実』の正規分布
SDが標準偏差のことだと分かって、
以前こんな記事を書いたのを思い出した🤔💭
この記事で取り上げたのは、科学と社会、そして、メディアの『事実』の正規分布の話⬇️

少し解説するね🧐
科学は、外れ値(棄却域:🟥)を排除して、採択域(信頼区間95%:🟩と🟨)を事実と見做す学問
外れ値は、実験で言うところの測定誤差、あるいは実験そのもの失敗として無視する
社会も、基本的には、採択域(信頼区間95%:🟩と🟨)を事実と見做すが、外れ値(棄却域:🟥)の扱いが科学の場合と異なる
科学では、誤差と見做していた外れ値であっても、社会においては、実際に外れ値に遭遇した人にとっては、紛れもない起こった事実だ
どんなに確率が低い事象であっても、遭遇した当事者にとっては、それは100%の確率で発生した事実となる
また、99.99%の確率のこうなるだろうという予測(あるいは、裏返して、0.01%の確率でほぼ発生しないだろうという予測)と、実際に発生した100%の事実には、不可知の壁(越えられない壁)が立ちはだかる。
予測はどこまでいっても未来予測であり、
実際に起こった事実とは同じにはならない(99.9999≠100)
そして、マスコミは、その稀な外れ値の事実を報道するのを商売としている
それは、その外れ値がネタとしてウケる・儲かるからである📣
例えば、アキバのメイドカフェ☕️に行って、店内でメイドさんが野良犬に噛まれたとしよう🤔💭
科学では、滅多に発生しない事象としてあまり気に留めないだろう・・・。
一方、その場面に遭遇したBLUEであれば、目の前で実際に起こった珍しい事件として記憶に留めるだろう。もしかしたら、友達につぶやくかもしれない。
だが、マスコミは、この程度のネタでは飛びつかない😳
では、店内に侵入してきた野良犬を、可愛いメイドさんが犬の首に噛み付いて撃退した‼️ そして、その動画がYouTubeで拡散されたらどうだろうか?
マスコミは、こぞってメイドさんを取材して、メイド喫茶は一躍人気店となるだろう・・・。
ここで言いたいのは、三者三様、悪意のある捏造ではない限り、目の前で起こったことはすべて『事実』と言うこと✍️
そして、その事実に対する反応は、立場が変われば、モノの見方も変わり、反応や行動も違ってくる☺️
最後の結論『その事実に対する反応は、立場が変われば、モノの見方も変わり、反応や行動も違ってくる』は、つい先日の量子の勉強会でも同じようなことを感じたばかりだ👇
人生の主人公として、
自分は主観的に「何を大切にするか」。
という問いが、やがて立ち上がってくる。
それによって、
同じ世界を見ていても、
感じ方や捉え方は人それぞれに変わる。
それが、その人なりの「自分軸」なんだ。
そしてその自分軸は、
言い換えれば価値観であり、
そこに「正解」や「不正解」はない。
外れ値(マイノリティ)と2D大臣
ここで、少し話は脱線する。
最近、勉強になった武智さんの記事を掲載させて頂く。
僕なりの理解した内容はこうだ✍️
日本で無風だった「2Dキャラ愛」を公言する大臣の発言が海外でニュースになったのは、価値観の違いではなく、日本がすでに“擬似人格・代替的関係性が公的言語として通過済みの社会”に入っているから。
そして、社会が本当に危険になるのは
・過激な思想が現れたときではなく
・思想が“説明不要”になり、倫理的問いが立ち上がらなくなったとき
そして、僕はこんなコメントを書いた☺️
あまり考えたことがありませんでしたが、武智さんの論点が深く刺さりました。
「政治と倫理の無風化」が、合理性と優しさの顔をして既成事実化していく危うさ。
説明しない政治、問われない選択の中に、いつの間にか身を置かされていたのだと気づいたときには、もう後の祭りなのかもしれません。
そして、本稿を執筆中に、改めてこの記事を思い出したんだよね。特に、
思想が“説明不要”になり、倫理的問いが立ち上がらなくなったとき。
を深掘りしてみたい、と☺️
① 筆者が言う「倫理が立ち上がらない」とは何か
ここでの倫理は、
それは正しいか?
ではなく
なぜ、それを選ぶのか?
を問い返す力。
つまり、倫理が立ち上がらないとは
判断が自動化され
「そういうものだから」で流れていく状態。
❌ 倫理が“間違う”
⭕ 倫理が“呼び出されなくなる”
この差が重要。
② 想定されている具体的な危険性
危険①
人間関係の代替が、選択ではなく「標準」になる
本来は
人と関わる
擬似人格と関わる
どちらも選択肢であるはずなのに、
人間関係は重い
擬似人格は楽
今どき普通
という理由で、
検討も比較もされないまま、『人間関係の代替は、AIや2Dキャラ』がデフォルトで制度や文化に埋め込まれる。
👉 そのとき
「人と関わる意味」自体が、問いとして消える。
危険②
権力や制度が「心の逃避先」を前提に設計され始める
国家・企業・行政が、
孤独
不安
ケア
承認
を人間関係で支える設計を放棄し、
擬似人格があるから大丈夫
キャラが寄り添うから問題ない
という一方的な前提で制度を作り始める。
👉 これは
優しさの仮面をかぶったコスト削減でもある。
危険③
「誰が責任を持つのか」が消える
擬似人格は、
傷つかない
文句を言わない
権利を要求しない
だからこそ便利。
でもそれが前提になると、
孤独が深まっても
関係性が壊れても
👉 責任主体が不在になる。
「誰も悪くない」
「仕様です」
この言葉が増えた社会は、倫理的には最も危険。
危険④
政治や公共言語が“感情の代替”を当然視する
今回の象徴的ポイントはここ。
国家を代表する人物が、
2D的関係性を“個人の嗜好”ではなく“自然な語彙”として語ったこと。
👉 これは
公的言語が
人間関係の代替を
暗黙の前提として受け入れた
というサイン。
一度それが起きると、
説明しない政治
問われない選択
が可能になる。
③ なぜ「静かな危険」なのか
この変化は、
暴力的でも
過激でも
扇動的でもない
むしろ、表面上は
快適で、合理的で、優しい顔をしている。
だから反対運動も起きない。
だから炎上もしない。
👉 その結果
気づいたときには戻る言語がない。
④ 筆者が本当に恐れている一点
たぶんここ👇
社会が、
「なぜ人と関わるのか」
「なぜ生身の他者が必要なのか」
を問う言葉を失うこと。
それは
AIや2Dキャラが悪いからではない。
「選ばれた結果」ではなく
「問われなかった結果」になること。
エピローグ
次回、以下の問いについて考えてみたい☺️
➡️
選挙の関心がこのまま低空飛行を続け、選挙制度に問われない出来レースの政治家が増え、権力や制度が「心の逃避先」を前提に設計され始めるEBPMが既成事実として社会に浸透していく危うさとは?
《後編へ続く》
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