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成瀬あかりと「依存症」の問題── 空虚な「自己治療」から「真剣な遊び」へ。クレーマー・呉間言実が救われた本当の理由

成瀬シリーズは一級品のエンタメでありながら、現代社会の歪みを写し出す「寓話」としても読めると思っている。

シリーズ完結編『成瀬は都を駆け抜ける』も、期待に違わず素晴らしかった。

ただ、この3巻目について書く前に、遅ればせながら2巻目の『成瀬は信じた道をいく』について書きたいと思う。

以前、私は宮島未奈さんの『成瀬は天下を取りにいく』と、國分功一郎さんの『目的への抵抗』が、現代社会への批評として驚くほどシンクロしていると書いた。

実は、それぞれの続編である『成瀬は信じた道をいく』と、國分さんの『手段からの解放』を読み合わせると、その共鳴はさらに深いものになっている。重要な共通項となるのが「依存症」だ。

國分さんは、依存症の本質を「享受の快」が失われ、あらゆる行為が「手段」に貶められた状態だと定義する。たとえばお酒は本来、それ自体を味わう「贅沢」な時間のはずだ。しかし、人生の苦しみから逃れるための「手段」としてアルコールが用いられるとき、人は依存の罠に嵌まる。

クレームという名の「自己治療」

『成瀬は信じた道をいく』の一編「やめたいクレーマー」に登場する呉間言実は、まさにこの状態にある。彼女はスーパーの掲示板に、細かすぎるクレームを書くことがやめられない。まさに「クレーム依存症」 だ。

クレームを書いたあと、呉間はこう後悔する。

店を出る瞬間は晴れ晴れした気分なのに、帰宅してエコバッグをダイニングテーブルに置いた瞬間後悔する。またクレームをつけてしまった。三分くらい帰るのが遅くなったところでこんな暇な主婦に支障はないのに。

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』

もはや、店を良くすることが目的ではなくなっている。アルコール依存症者が、味わうためではなく、苦痛を消すために酒を飲むのとまったく同じ構図だ。

このような逃避としての手段化を、精神科医の松本俊彦氏は「自己治療」と呼ぶ。國分さんは本書の中で、松本氏の言葉を次のように引用している。

自己治療仮説は、依存症の本質を「快楽の追求」ではなく「心理的苦痛の緩和」と捉える理論であり、「物質依存症者は、物質使用開始以前から心理的苦痛を抱えている」ことを想定している。

國分功一郎『手段からの解放』

呉間もまた、誰にも理解されない「心理的苦痛」を抱え、掲示板への書き込みを唯一の治療手段としていた。 そこに現れるのが、店でバイトをしていた成瀬あかりだ。成瀬の行動は、この依存の病理に対する見事な回答となっている。

成瀬は「クレーム」を剥奪しない

成瀬は呉間のクレームを否定しない。それどころか的確な指摘だと褒めるのだ。そしてその観察眼を見込んで、万引き犯を捕まえるための協力を要請する。

「呉間氏はいつもお客様の声を寄せてくれる熱心な人物だから、万引き犯を捕まえるのにも力になってくれると考えたんだ」

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』

依存の対象を無理やり奪うのではなく、そのエネルギーを万引き犯確保のための行動に転換させたのだ。呉間はこう独白する。

成瀬の思惑通りになってしまったのは癪だが、万引き犯を見つけて情報提供できたのは素直にうれしかった。これまでのクレームと違って、万引き犯を捕まえるという明確なゴールがあるのがいい。

宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』

まさにこれは、國分さんが前著『目的への抵抗』で述べていた「真剣な遊び」の体現だ。本来、万引き犯を捕まえることには治安維持という目的があるが、呉間にとっては、そのプロセスに没頭すること自体が「喜び」に変わっている。

自由な活動に真剣に取り組む時、人間は目的と手段という連関からは一時的にでも離れて、何らかの喜びや充実を感じる。

國分功一郎『目的への抵抗』

依存の対義語は「コネクション」である

もうひとつ重要なのが「コネクション」だ。國分さんは、依存症からの回復について松本氏の言葉を引用しながらこう綴っている。

曰く、アディクション(依存症)の対義語は、ソーバー(しらふの状態)でも、クリーン(薬物を使っていない状態)でもなく、コネクション(人とのつながり)である。 依存症からの回復において重要なのは、依存症者を叱ったり罰したりすることではなく、人とのつながりの中で、「治療」の対象であった苦痛を分かち合い、そして和らげていくことではないでしょうか。

國分功一郎『手段からの解放』

呉間の一方通行だったクレームは、成瀬という他者から必要とされ、レスポンスを返すことで「双方向」の対話に変わった。この社会的なつながりの回復こそが、彼女を依存の檻から連れ出し、自尊心を取り戻させた。

また、『成瀬は信じた道をいく』においては、観光大使を目指す女子大生・篠原かれんのエピソードも、國分さんの思想と深く共鳴している。彼女は「祖母や母と同じ観光大使になる」という宿命を背負い、自分の外見や振る舞いのすべてを、選考に合格するための「手段」として最適化してきた。國分さんの言葉を借りれば、彼女の生は特定の「目的」に占拠され、純粋に今を味わう「享受」が欠落していたのだ。

しかし、成瀬と出会うことで、かれんの生き方は解きほぐされる。観光大使としての活動が、祖母や母の期待に応えるための義務ではなく、「真剣な遊び」へと転換していく過程は、まさに「手段からの解放」そのものだ。

依存に苦しむ呉間も、宿命に縛られたかれんも、成瀬との「コネクション」を機に自分自身の生を取り戻していく。

SNSは孤独な依存症者だらけ

ただ、呉間は実は恵まれている。クレーム依存症の症状に理解のある夫がそもそもいる。完全に孤独ではない。この他者との接点こそが、依存から抜け出す決定的な境界線となる。

有名な「ラットパーク」という実験がある。

孤独な檻で薬物入りの水に溺れたラットも、仲間や遊具がある豊かな環境に移されると、薬物には見向きもせず交流や遊びに熱中する。依存症とは薬物自体の作用だけでなく、孤独や退屈という「環境」も大きく作用しているのだ。

逆に言えば、豊かなコネクションがある環境では、依存症は成立しにくい。呉間はまだ引き返せる状況にあった。

SNSを見れば、呉間のクレームとは比較にならないほど醜悪な誹謗中傷が溢れている。そういった投稿を繰り返す者もまた孤独な依存症者なのかもしれない。

國分さんの哲学が示す「手段からの解放」を、成瀬あかりは軽やかに実践してみせる。しかし、呉間より重症で孤独な依存症者だらけの今の日本に、成瀬のような「解毒剤」はいったい何人必要なことだろうか。

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