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成瀬あかりと「目的への抵抗」──『成瀬は天下を取りにいく』は「暇と退屈」と「全体主義」に抗う小説だ!

『成瀬が天下を取りにいく』が文庫化されたそうなので、ひとこと言いたい。

ぜひ、國分功一郎さんの『目的への抵抗』も一緒に買って読んで!

ジャンルは違えど、この2冊の内容は驚くほどリンクしている。一見すると接点のない小説と哲学書が、現代社会の根本的な問いに同じ光を当てているのだ。

刊行時期もたった1カ月違い(『成瀬』のほうが1カ月早い2023年3月)。宮島未奈さんと國分功一郎さんが、2人とも非常に鋭敏な時代感覚を持っているからこその現象だと思う。

どういうことなのか、説明したい。

私は『成瀬』をようやく昨年末に読んで「めちゃくちゃ最高かよ!」と思ったし、本屋大賞を獲ったように絶賛の声のほうが多数派なわけだが、あんまり面白くなかったという人もいる。

たとえば専業読書家ばるさんの感想。成瀬の動機が不明瞭、それはごもっともだ。

しかし、「それこそが成瀬のよさじゃないか! 」と私は思う。

成瀬は「天下を取る」という目標を掲げている。

では、「天下を取る」ために成瀬が行ったことはというと、「西武大津店に閉店まで毎日通う」「M-1グランプリに出る」「シャボン玉を極める」「けん玉を極める」「200歳まで生きる」「期末テストで500点満点を取る」などなど……。まったく統一感がない。「天下を取る」ための手段として、最適解とは思えない。

「線がつながる」の章が象徴的なので、少し詳しく見てみよう。これは、高校で不本意ながら成瀬の同級生となった「大貫かえで」の視点で書かれている。彼女は「いじめを極端に恐れ」ており、そのために高校デビューで縮毛矯正をし、東大合格を目指して勉強を始める。

一方の成瀬は、坊主頭で入学式に登場する。

大貫と成瀬、2人の行動原理は明確に対比されている。大貫は「いじめの標的になるのを避ける」という目的のために縮毛矯正をした。それに対し、成瀬は坊主頭にした理由を「人間の髪は1ヶ月1センチ伸びると言うだろう。その実験だ」と答えている。しかし、なぜその実験をするのか、明確な目的はない。強いて言うなら「天下を取る」ための活動の一環だろう。

要するに、成瀬は目的に従属していないのだ。手段そのものが面白いからやっているに過ぎない。一方で大貫の行動は、内発的ではない。縮毛矯正自体に楽しさはない。ある同級生と話し相手になるのも、ぼっち=スクールカースト最下層なので、そう見られたくないから。会話そのものを楽しんではいない。

なぜ、みんなが成瀬に憧れるのか。それは、私たちの大半が大貫のように「目的に従属して」生きているからだ。

このことが、國分功一郎さんの『目的への抵抗』を読むと非常にクリアになる。

目的を逸脱する「贅沢」が、人間には欠かせないと國分さんは言う。食を例に挙げた説明がわかりやすいので引用しよう。

食事と栄養摂取を等しいものと捉えることができるでしょうか。栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できるけれども、食事を生存という目的に還元することができるでしょうか。還元してよいでしょうか。我々が豊かさや充実感を感じるのは、目的をはみ出た部分によってです。確かに食に目的を設定するならばその目的は栄養摂取である。けれども、食がその目的しか追求しないようになったら、食における人間らしさは失われてしまうと言うべきではないでしょうか。その意味で、食が持つ栄養摂取という目的を超え出る経験、すなわち贅沢の経験が人間の食には欠かせないと言うことができるでしょう。食はその目的には還元できない側面を持っている。

國分功一郎『目的への抵抗』

「現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつある」と國分さんは言う。独裁者はいないのに、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない、全体主義社会かのようだと。そんな中で、成瀬はまさに、目的からはみ出まくっている。ある意味一番「贅沢」な生き方をしているのだ。

この「目的」「手段」「贅沢」の話で想起されるのが、三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だ。

この本では、映画『花束みたいな恋をした』の麦くんのように、小説が読めなくなり、自己啓発本しか読めなくなるという問題を考察している。「働いていると本が読めなくなる」はより正確に言うと、「労働という目的に従属した、手段としての読書しかできなくなる」ということだろう。

「全身全霊」で働いていると、読書に限らず、すべてが「労働」に従属していく。仮に忙しくなかったとしても、仕事で「目的」のために行動すべしという思考を内面化してしまうと、余暇時間までも何か明確な目的を持って行動しないと、時間をムダにしたような気分になってしまう。「贅沢」な読書はできない。

「目的」に抵抗する1つの方法は、社会と距離をとることだろう。労働時間を減らして、仕事と切り離された余暇時間を確保する。三宅さんが提唱する「半身社会」や、「FIRE」や、大原扁理さんの「隠居」なんかもそうだ。

もちろんこれもアリなのだが、どうしても消極的戦法ではある。一方で成瀬は、社会との距離をむしろ詰めていく。

國分さんの言葉を引用するなら、成瀬のやっていることは「遊び」ではないだろうか。

たとえば、子どもは砂場に行くと砂で山を作って、そこにトンネルを通そうとする。ある意味では、砂場を見た瞬間に山を作ろうという目的に導かれているのだとも言えるかもしれませんが、もちろん、その目的は目的としてはどうでもいいものです。なぜならば、山を作り、トンネルを通すということそれ自体が楽しみの対象であるからです。遊びには、明らかに手段と目的の連関を逃れる側面があります

國分功一郎『目的への抵抗』

まさに成瀬ではないか。「天下を取る」という目的に導かれているが、「その目的は目的としてはどうでもいいもの」で、「それ自体が楽しみの対象」となることに全力を注ぐ。

キーワードは「真剣」。遊びは、適当にやるものではない。

そもそも勘違いしてはならないのは、遊びは真剣に行われるものだということです。砂場の山作り、トンネル作りも、この講話も、文化祭の活動も、真剣に行われるから楽しいのです。充実感があるのです。

國分功一郎『目的への抵抗』

私が三宅香帆さんの言う「半身社会」にあまり惹かれなかったのも、まさにこの点だった。「半身」では充実感が不足する。短期間ならいいが、ずっと半身では「退屈」してしまう気がする。

自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことをするなら「全身全霊」は決して悪いことじゃない。問題は、他人が定めた目的のために「全身全霊」を強いられることだ。

「半身」でもなく、目的に従属した「全身全霊」でもない、「真剣な遊び」こそが現代社会を生き抜く解なのではないか。そして、成瀬こそが「真剣な遊び」の体現者なのではないか?

末尾の質疑応答にある國分さんの発言は、より「他者」と関わるようになる『成瀬は信じた道を行く』を暗示しているようで示唆的だ。

真剣であることの条件は何だろうか。真剣に遊ぶための条件は何だろうか。他者との関係はおそらく重要な要素の一つでしょうね。他者にレスポンスできるということですね。

國分功一郎『目的への抵抗』

ここまでの拙い解説でどのくらいの納得を得られているかわからないが、とにかく宮島さんと國分さん、2人の著作を両方読んでもらいたい。

さらに驚異的なのは、2人の続編『成瀬は信じた道をいく』と『手段からの解放』のシンクロ度なのだ。これについてもおいおい書きたい。

だいたい、どっちも版元同じなんだから、2人を対談させて! 新潮社さん、お願いしますよ!

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