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筑豊炭田・赤池炭鉱 ボタ山のてっぺんから


旧赤池町広報の “ 閉町記念最終号 ” を見ていた時のことです。

一枚の写真に、思わず目が留まりました。

それは、ボタ山の上から赤池の町を見渡した写真でした。

その瞬間、小学四年生だった頃の記憶が、静かによみがえってきたのです。

写真は、時として忘れていた時間を連れてきます。

この一枚も、私を六十年以上前の、赤池へ連れて行ってくれました。

私が生まれ育った町。

父が働いた炭鉱の町。

そして、私が初めて故郷を見渡した町です。



第一章 ボタ山のてっぺん


まさしく  ボタ山のてっぺんで見たあの景色
赤池炭鉱町全景 昭和30年代

私は子どもの頃、一度だけ赤池のボタ山のてっぺんに、登ったことがあります。

その頃、赤池の町では少しずつ変化が始まっていました。

毎日のように見上げていたボタ山を登るトロッコが、いつの頃からか動かなくなったのです。

頂上にあった設備も姿を消し、子ども心にも「何かが変わっていく」という不安を感じていました。

やがて、父の転勤が決まり、私たち家族は赤池を離れることになります。


それを知った私は、ある日曜日、両親には内緒でボタ山へ登ることを決めました。

子どもの足には大きな山だと思っていましたが、登り始めると意外なほど早く頂上へ着きました。

そこから見えた景色は、今でも忘れることができません。

いつも歩いていた道。

市場小学校への通学路。

「赤池マーケット」前の崖滑りの遊び場。

「赤池発電所」の三本煙突。

遠くへ続く炭鉱の町並み。

そして、その向こうまで広がる筑豊の風景。

毎日暮らしていた町なのに、高い場所から眺めると、まるで別の世界でした。

風が吹き抜け、草の匂いが漂います。

どこからか石炭の匂いも混じっていました。

遠くでは汽笛が響き、町には人々の暮らしの音が流れていました。

私は、その景色を夢中で眺めていました。


あの時は、ただ「あの場所に登れた」という達成感しかありませんでした。

しかし今、この写真と再会して思うのです。

あの日見た景色は、少年だった私が故郷を胸に刻み込んだ、最初で最後の眺めだったのだと。

あの広い景色のどこかで、父は仲間たちとともに地下坑道へ向かい、毎日黙々と働いていました。

その姿を、私はまだ知りませんでした。


第二章 真っ黒になって働く父


坑内巡視時の姿
赤池鉱業所  3坑

ボタ山へ登る以前のことだったと思います。

学校からの帰り道、私はいつものように友だちといっしょにボタ山のすそ野近くに敷かれたトロッコの線路を渡っていました。

その時です。

線路沿いの遠くから、大きな声が聞こえてきました。

「おーい! 明!」

私の名前を呼ぶ声でした。

声のする方を見ると、一人の坑内服姿の男が大きく手を振っています。その傍には数人の仲間たちも。

近づいてくるその姿を見て、私は一瞬、誰だろうと思いました。

坑内服も保安帽(ヘルメット)も全身が真っ黒だったからです。

石炭の粉で顔も作業着も黒くなり、白く見えるのは笑った時にのぞく歯だけでした。

それは、坑道から仕事を終えて地上へ戻ってきた父でした。

父は仲間たちに向かって、あの白い歯で笑いながら、そして誇らしそうに、わたしの頭に手を置いて言いました。

「俺の息子」

私は突然の出来事に驚き、その場に立ち尽くすことしかできませんでした。

父はわたしの肩に掛けていた水筒を指差し、「水、残ってるか?」 「うん」

答えるやいなや、キャップをはずし、水筒を口に当て一気に全部飲み干してしまいました。

坑内作業で、よほど喉が渇いていたのでしょう。

その姿を見ながら、私は父の仕事がどれほど大変なのかを、初めて肌で感じたような気がしました。

「父は毎日、こんなに真っ黒になって、赤池の地下で一生懸命働いている。」

あの日の光景は、今でも私の心に残っています。


今、この歳になって振り返ると、あの短い1コマは、私にとってかけがえのない「幸運な時間」だったのだと思います。

働くことは、自分のためだけではない。

家族を守り、仲間と力を合わせ、一つの仕事を成し遂げることなのだと。

父は、何も語りませんでした。

けれど、その真っ黒な作業着姿が、小学四年生だった私に、「働くことの尊さ」を静かに教えてくれていたのです。



斜坑人車試験 
(父は後列右端)
赤池鉱業所 S.37.8.26~27


第三章 地下坑道で働く炭鉱マンたち


思い返せば、坑内服も保安帽(ヘルメット)も全身が真っ黒な父の姿を見たのは、あの時が最初で最後でした。

会社から帰宅する父の姿は、いつもこざっぱりしていたのです。

後から母に聞いて分かったのですが、会社の坑員用の共同浴場に入浴してからの帰宅だったのです。

夕食中に時々、炭鉱の仕事のことを話してくれることもありました。

あれから六十年以上が過ぎ、父が残してくれた写真を一枚一枚見つめるたびに、あの時の夕食の父の話とあいまって、私は当時の地下坑道の世界を少しずつ知るようになりました。


新鋭 水力採炭
モニター(東洋工業製) 試運転

父が誇りを持って取り組んでいた「水力採炭」です。

炭鉱ではいつも厄介者だった水を、逆に力として使う方法でした。

高い圧力の水を炭壁に当てると石炭が一気に崩れ、水と一緒に流れていきます。

重い石炭を運ぶ手間が減り、粉じんもほとんど立たないので、ガスや粉じんによる爆発の危険も小さくなる――

働く人にも優しい、最新鋭の採炭の形だったのです。

父は「機械屋・電気屋」として、その設備を支える仕事に携わっていました。

しかし、この写真を見ていると、私の目に映るのは機械ではありません。

その機械を動かし、支え、仲間と力を合わせて働く炭鉱マンたちの姿です。



スクレーパー・ローダー 導入
中央左奥 両腕を腰に当てているのが父
何やら機械を注視しています

スクレーパー・ローダーは、崩れた石炭をワイヤーで引き寄せてすくい上げ、トロッコへ送り込むための機械です

暗い坑道での重い積み込み作業を助け、作業を安全に、効率よく進めるために欠かせない存在でした。

地下坑道では、一人では何もできません。

採炭する人。

機械を整備する人。

電気設備を守る人。

石炭を運ぶ人。

それぞれが自分の役割を果たし、互いを信頼しながら仕事を続けていました。

一人の小さなミスが、大きな事故につながることもある世界です。

だからこそ、技術は作業を効率よく進めるためだけではなく、仲間の命を守るためにも必要だったのだと思います。

父は、自分の仕事について多くを語る人ではありませんでした。

それでも、時折見せる写真には、仕事への誇りが静かに写っていました。

その一枚一枚を見ていると、父だけではなく、赤池で働いていた多くの炭鉱マンたちの息づかいまで聞こえてくるような気がします。

地下深くで汗を流した人たち。

互いを信じ、励まし合いながら働いた人たち。

その一人ひとりが、戦後の日本を支えていたのです。




直方救護練習所 訓練課程修了
昭和35年1月29日 
(父 中列 右から4人目)

そして、父は救護隊員でもありました。

救護隊は、事故が起きた時、自ら危険な坑道へ入り、仲間を救助する人たちです。

その覚悟は、「救護隊員綱領」の言葉からも伝わってきます。

私が子どもの頃、その意味を知ることはありませんでした。

しかし今、この綱領を読み返すたびに思います。

父たちが守ろうとしていたのは、石炭ではありません。

ともに働く仲間の命だったのです。

その思いは、今もこの写真の中で静かに生き続けています。


第四章 赤池という町の姿


地下で働く人々がいたからこそ、地上の町が息づいていました。

赤池の町には、炭鉱の灯がともるように、人々の暮らしがありました。

そして、人々の暮らしがあったからこそ、赤池町があり炭鉱から石炭が生まれたのです。

子どもたちの笑い声が響き、配給所やマーケットには買い物をする人たちが行き交い、市場小学校・赤池中学校では元気な声が校庭いっぱいに広がっていました。

10円玉を握りしめて駆け込んだ「駄菓子屋」。

そうそう、丘の上の炭鉱の映画館「労映」。映画『キングコング対ゴジラ』もここで見ました。

『キングコング対ゴジラ』(1962年)
(出典は巻末に)



その何気ない毎日の暮らしは、地下で働く多くの炭鉱マンたちに支えられていたのです。

地下坑道を支えた坑木の山   と  炭鉱住宅

今になって写真を見返すと、炭鉱産業と住宅は同居状態だったのです。

この何気ない風景もまた、炭鉱の町ならではの景色だったことに気づかされます。



町をあげて迎えた聖火リレー  (8ミリ動画 音声なし)

1964年東京オリンピックの聖火が町を駆け抜けた日。

沿道には大勢の人々が集まり、子どもも大人も、みんなが笑顔で手を振っていました。

赤池の町には、人と人とのつながりがありました。

炭鉱で働く人も、その家族も、みんなが同じ町で暮らしていたのです。

市場小学校の運動会  (8ミリ動画 音声なし)

運動会の日になると、家族みんなが校庭へ集まりました。

応援する声。

笑い声。

子どもたちの歓声。

そんな一日が、町全体のお祭りのようでした。

私にとって赤池は、「炭鉱の町」である前に、「毎日を過ごした故郷」だったのです。




ボタ山を背景にした親子遠足  (8ミリ動画 音声なし)

あのボタ山は、石炭を積み上げた山であると同時に、私たち子どもにとっては、いつも見上げる故郷の風景でもありました。

親子遠足(上野方面)の日も、その姿は変わることなく町を見守っていました。

第一章で私が登った、あのボタ山です。

あの日、山の上から見下ろした町では、人々がそれぞれの一日を過ごしていました。

市場小学校へ通う子どもたち。

地下坑道へ向かう炭鉱マンたち。

赤池駅へ向かう人たち。

そのすべてが、私にとっての赤池でした。




石炭と人々を運んだ直方駅 と その駅前風景
昭和46年3月31日 撮影:投稿者本人

町は鉄道によって外の世界と結ばれていました。

石炭を運ぶ貨物列車。

人々を乗せる旅客列車。

そして、それぞれの人生を運ぶ列車。

駅は、出会いと別れを見つめ続けてきた場所でもありました。

私もまた、この町を離れる日、その列車に乗りました。

けれど、赤池で過ごした日々は、今も私の心の中で静かに走り続けています。


第五章 父が残した風景


父は、自分の仕事を多く語る人ではありませんでした。

けれど、父は一枚一枚の写真と8ミリフィルムの中に、その時代を静かに残してくれていました。

子どもの頃の私は、それがどれほど貴重な記録なのか知る由もありませんでした。


しかし、六十年以上の歳月を経た今、実家の本棚に父が残したアルバムの写真を一枚一枚見つめ、デジタル処理をした8ミリ映像を見返していると、一つのことに気づかされます。

父が残したのは、あの時代の映像だけではありませんでした。

赤池で暮らした人々の時間でした。

地下坑道で働く炭鉱マンたち。

町で家族を支えた人たち。

元気に走り回る子どもたち。

町を包み込むボタ山。

その一つひとつが、写真の中で今も息づいています。

私は今回、このブログを書きながら、何度も写真を見返しました。

すると、見ていたつもりの写真から、新しい発見が次々と現れるのです。

父の視線。

仲間たちの表情。

町の風景。

そして、その時代を生きた人々の思い。

写真は、過去を写すだけではありません。

未来へ語りかける力も持っていたのです。


父は、赤池で働いた多くの炭鉱マンたちの一人でした。

だからこそ、このブログは父一人の物語ではなく、戦後の日本を支えた炭鉱マンたちへの、小さな感謝の記録として残したいと思います。


おわりに

旧赤池町広報の閉町記念最終号で、一枚の写真と再会したことから、この物語は始まりました。

その写真は、六十年以上前、小学四年生だった私を、もう一度赤池へ連れて行ってくれました。

ボタ山。

父。

地下坑道。

町の人々。

どれも私にとっては、故郷そのものでした。

あの頃の赤池は、もうありません。



けれど、あの町で暮らした人々の思いは、今も写真の中で静かに生き続けています。

そして、その記憶は、こうして福智町の未来へ受け継がれていきます。

私は今でも、時々あの日登ったボタ山のてっぺんから見た景色を思い出します。
 
頬を撫でる風の冷たさや、草の匂い、そしてどこか懐かしい石炭の匂いまでが、まるで昨日のことのように蘇ります。
 
あの景色を夢中で眺めていた、小学四年生の私。
 
そして六十年以上を経た今、もう一度その場所へ帰ってくることができました。


 
こうして、あの日ボタ山のてっぺんに立っていた少年は、これからも、わたしの中で生き続けるのでしょう。



赤池炭鉱航空写真 
昭和33年3月9日撮影  
アジア航空測量株式会社





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画像出典:

◎福智町公式ホームページ掲載「旧赤池町広報 閉町記念最終号」より

https://www.town.fukuchi.lg.jp/section/kohoshi/akaikechiku/200502end.pdf

◎『キングコング対ゴジラ』(1962年)予告編より。
出典:Wikimedia Commons「KK v G 予告編 (1962) Goji.png」
著作権情報:1964年以前に公開された映画の予告編はパブリックドメイン(米国法)として公開。
ライセンス:Public Domain(パブリックドメイン)


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