詩を読み、詩を書き、死を待つ1

1となっていますが2が出るかは現時点ではわかりません。文学を買って以降、と言っても三日目ですが、なんとなく文学への感度が上がってきて、一旦それをまとめて、炸裂するように、しておきましょう。そんな感じです!

ここからは・の後にタイトルみたいなのを書いて、その下に概要を書いていきたいと思います。2以降(出れば、ですが)のためというのもありますし、ただ単にいま、何を考え始められるか、その、一種の試練のようなものでもあります。

・詩は記憶のためにある
詩は記憶のためにあります。ただ、記憶は薄れていきます。詩は薄れていきません。それはなぜでしょうか。その不思議さに支えられ、詩は詩となるのです。

いいですねえ。

・詩作とはescalationである
詩作とはescalationです。ただ、そのescalationには大きく分けて二つの方法があります。一つはこの場でescalationする方法、もう一つはescalationすると思われることが escalationするのを待つ方法。私の詩で言えば、前者的なのは「自動車の免許を持ってない僕が恐れ慄く君の踏み込み」という短歌。後者的なのは「まばたきで蜜柑の別れ悟り抜く」という俳句。

・短詩はお菓子(作り)のようなもの
短詩を作ることはお菓子を作るようにメルヘンで、しかし厳密さが要求されること。それに対して長詩(こんな用語があるのかは知らない)はそうではない。ただ、この定義の仕方だと長詩がネガティブにしか定義されない。
参考洞察
「こんなことを書いていたら、お菓子がつくりたくなってきました。わたしにとってお菓子づくりとは、材料、製法、実食の全工程において、ごはんづくりでは味わえない形而上学的気分を満喫できるあそびです。その夢心地な見た目とはうらはらに、材料が限定されていたり、分量が厳密だったりと、きわめてストイックな作業が要求されるところなどは、まるで天使的無心のハルモニアを数理的に再現する実験のようであります。世間からはひどく誤解されていますけれど、お菓子づくりの快楽とはまったくもって反情緒主義的なのです。」(『なしのたわむれ』143頁、小津の箇所)

・よくわからない詩作をモデルにするな
たまに凄い詩を書いてしまうことがある。例えば、友人からLINEでネモフィラ畑の写真が送られてきて即座に「ネモフィラの小さく青い地球かな」と書きつけたり、退職に伴う片付けで暇になったから中庭に居て「黄金の雲の切れ端小鳥鳴く」と書きつけたり、そういうことがある。来歴がわからない、しかし凄い詩作。それらをモデルにするとよくない。なんというか、それらは来歴がわからないだけであり、ただの記憶力不足なのである。もちろん記憶できすぎていたら詩にならないけれど、記憶できていなさすぎても詩になるのは記憶的ではない記憶を使っているだけなのだから、それをインスピレーションとして外部化しすぎても、ひらめきとして内部化しすぎてもいけない。ただ単に凄い詩を書いて、その凄さは何であるか、見極めるという、極めて「反情緒主義的」な快楽に身を任せる。それがいい。

・詩を書くことは詩を読むことの一部である
これは私の信念なのだが、詩を書くよりも詩を読むことのほうが大事である。どう「大事」なのかはまだよくわかっていない。し、私がそのほうが好きなのか、それともそういうふうな書くことと読むことの関係が好きなのか、それはわからない。あ、そういえば、恋人に俳句や短歌の勉強をはじめたと言ったとき、私はなぜか「自分の詩をよりよく評価したいんだよね。」みたいなことを言っていた。ついでみたいに。まあ、簡単に言えばそんな感じであるのだが………。

・誰かみたいに詩を書くことはできるけれど、誰かみたいに詩を読むことはできない
これは一つ前のものと深く関係がある気がするが、誰々風に書くことはできても誰々風に読むことはできない。もちろん、読むことも書かれないと、もう少し広くすると、受容も表現がないと、そもそもそれとして存在できないのだから、書くことと読むことのあいだには曖昧で微妙な関係がある。それにしても、なんとなくタイトルで言われていることがわかる感じはしないだろうか。

・表現と受容、読みと書き
私はよく「読み/書き」を「表現/受容」に広げるが、このことはなにを意味するのだろうか。「読み/書き」ではない「表現/受容」と「読み/書き」は何が違うのだろうか。おそらくそれを考えようとしているのだ。おそらくそこでのポイントは広い意味での「紙」であり、広い意味での「文字」である。

・詩と小説
詩と小説は違う。何が違うか。私は一言一句引用する意味があるかどうかの度合いが違うと思う。
参考洞察
「ドゥルーズは「見て、書いた」が、「見ながら書いた」わけではない。これはたんに彼の時代にVHSもDVDも存在しなかったからというわけではなく、いくら映画を見直すための手段が充実しても、見ることと書くことのあいだには原理的でフィジカルな距離が存在している。そこに滑り込むものをたんなる忘却や思いちがいとして放逐しようとすると、見て、書いて、見て、書いて、見て……とえんえん見まちがいの不安に怯えながらくわしいだけの描写を積み上げていくことになるだろう。どうせ見ながら書くことはできないのだから、見ることと書くことの「距離」を条件にしたような書きかたを考えたほうがいいのではないか。見ることと書くことのあいだの読点を足場にすること。これはべつにこ哲学者や美術史家にとってだけでなく、ひろい意味で「経験」を書くことの源泉とする小説家や詩人にも当てはまるはずだ。」(『ひとごと』144頁)

・総覧狂に優しい短詩型
ソフィー。総覧しなくては!という不安に短詩型は優しい。いや、本当の総覧狂であれば、別に短詩型である必要はないのかもしれない。

・ escalationとescalator
詩は escalationを必要とします。詩をescalatorにすることが詩人には必要です。どこに行ってもいいですけど、どこかには行かなくてはなりません。

・他人のために伝わるように詩を書く?
私はあまり他人に伝えようと思って書いていません。いや、「あまり」というか、正直言えば「まったく」です。ただ、私は記憶力がないので詩を書かなくてはならなかった理由を、出来事を忘れてしまいます。なので多少escalationする必要があるのです。

・詩性とは何か
暗号があって、それを解読する鍵があるとしましょう。暗号は詩のようなもので、鍵は記憶です。詩がそれであるのは暗号が鍵によって解読されてもなお、なぜそれが解読されたかが謎であるような場合のみであり、それ以外は詩ではありません。

・わざわざ詩にすること
わざわざ詩にする必要があるか。詩にしなくても普通に書けばいいのではないか。そう問われて、無言でも様になるような、そんなものが詩である。無言で居るべきときに無言で居られるのが詩人である。

・前書きみたいなやつ、あれなに?
俳句にも短歌にも前書きみたいなやつがあるときがある。あれはどういうものなの?なんであってもいいの?(ここでの「前書き」は背景知識みたいなものも含めると、もっと大きい問いになる。まあ、そこまで含めると「なんであってもいいの?」があまり効いてこない気がするが。)

・良い詩は衝撃の出来事である
良い詩は衝撃の出来事みたいである。では、ここでの「衝撃の出来事」とは何か。後から凄さがわかることがわかる、ということである。「ああ、後から読んでも『凄えよなあ』と思うんだろうなあ」ということである。

爆音でback numberかけている


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