『現実性の問題』(の終章「現実性こそ神である」)に関してのつぶやき

「現実性こそ神である」と言い得るためには否定神学を超えなくてはならないのだろうか。

どうして「神である」とわざわざ言わなくてはならないのか?ということについて言えば、否定神学的であるから、と答えるしかなさそうだが、別にそこが本質ではないだろう、と言うこともできるだろう。

私は多分、神様を信じたことも疑ったこともないが、その手前の、「神様」が出てきそうなところに踏み込んだことは幾度となくある。

https://note.com/joyous_mimosa341/n/n5eecba556440?sub_rt=share_pw

グッチさんのこの論稿のおかげで「存在論」のなんたるかがようやくわかりかけた気がする。入不二先生において「神」の話の「ピンとこない感じ」が『プロスロギオン』によって「明らかに変わった」みたいに。

「行ったり来たり」という動きと「どこまでも続く」という動き(『現実性の問題』372-373頁を参照)。私はこの二つの動きを「累進構造」にするか、「現実性の円環」にするか、(ここでの「する」は「描き出す」に近い)という永井/入不二のレトリカルな部分に興味があるのかもしれない。

グッチさんの論稿で「存在論」がなんとなくわかったというのは「私は、存在と現実(性)を分けたいと思った。」(『現実性の問題』373頁)ということが存在するかしないかが問われるか否か、という次元があるという私の考えに繋がったということである。

なんというか、分かれているのは知っていたのだが、それが腹落ちしたのはグッチさんが再度楔を打ち込んでくれたからであって、やっとその打ち込みの意味が自分の興味に付随する形で実感されたということである。

「思考」と「概念」の分離と「力の次元」としての「現実性」の現れは同時であると(『現実性の問題』の374-375頁に)書いているが、このことが入角論文のポイントなのではないか。それは同時なのか。同時であるとして「同時である」と示し得る=分離し得るのか、というポイント。

いや、まあ、ちょっと思いつきすぎるかな。

『現実性の問題』377-379頁の「現実と夢」の話は構造的にだけ、純粋に構造的に取り出せる議論なのか、それとも「現実」に特有の議論なのか、は考えてみてもいいことだろう。

「現実は神だった」(上野修)のか、それとも「神は現実だった」(入不二基義)のか(『現実性の問題』381頁参照)。私は、「現実は現実である」と思う。「神」についてはよくわからないし、入不二ほどのもやもや感がない。だからむしろ上野のほうから入って行ったほうがいい感じもする。

「「力の側からか三者関係の側からか」には、決定的な非対称性がある。」(『現実性の問題』379頁)は永井の「一方向性」の議論と『現実性の極北』における入不二の(レスリング的な?)微温的な制圧とにつながる感じがして、なんだかアツい。

「むしろ、「現に」によって可視化・特異化された段階は、純化=無化される段階と局所化される段階のあいだで、その緊張において働いている。」(『現実性の問題』382頁)いろいろなことを思ってはいるが何を思っているかはまだよくわからない。

ここが『現実性の問題』から『現実性の極北』への展開なのだろうという感じはする。

やっと『現実性の問題』の「追記とあとがき」を読めた感じがする。「読めた」。ここまでの『現実性の問題』(の終章「現実性こそ神である」)に関してのつぶやきはここに収斂したように思われる。とりあえず満足したのでとりあえず今日は終わり。「とりあえず」。

途中で何かを読みたいと思ったのだが、忘れてしまった。

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