『クィア・レヴィナス』の感想?
『クィア・レヴィナス』の感想を書きそびれている。著者の期待(私だけに向けられたものではないが私にも向けられたものだと思っている。私は。)に応えるために書きたいのだが、どうしても感想は苦手だ。
もちろん、これはたぶん、私がクィア・リーディングについて全然知らず、レヴィナスについても普通の人よりは少し知っているくらいだから、全体を部分とするような全体を持っていないからそうなっているとも言える。ただ、そんなことを言っていては感想など誰も書けない、ほとんど誰も書けないのではないだろうか。
私の記憶では『クィア・レヴィナス』が届く少し前、私は次の文章を引用して「クィア・リーディング」ってこんな感じかな?みたいなことを書いていた。
友人の遠田均くんがFBに書いていたことが面白いので転載します
「将棋では、負けた棋士は最後に「負けました。」と頭を下げ、勝負は決着する。自玉が詰むまで、つまり頭金になるまで、勝負を長引かせることはしない。その理由は、将棋に勝とうとして戦略・構想を考え、それを実現しようとして戦ったけれども、相手がそれを上回る戦略・構想で自分に打ち勝ったことを自覚しているからだ。
日本の負けが明らかになったのは、ミッドウェイの敗戦である。それでもまだ粘れるかもしれなかったけれども、ガダルカナル陥落で万事休した。そのあとのサイパン陥落は、ダメ押しである。兵士戦死者230万人、民間人死者8万人の大部分は、このサイパン陥落以降の犠牲者である。
日本の戦争指導者が「負けました」と言えなかったひとつの理由は、その戦略・構想が自分で考えたものではなかったからだ。だから勝てなかっただけでなく、負けを自覚することもできなかった。戦略・構想の立案者はすでに抗争に敗れて罷免され、当時の日本は、状況に合わせて受動的に対処するだけの能力しか持たない指導者に率いられていた。
現在の、新型コロナウイルスへの政府の対処の仕方に似ている。」[本来「」は付いていないが読みやすくするために付けた。:引用者]
この批評文は論理的に明晰でかつ美しい。現代の批評家に、その批評性をこのような構成的美文で表現できる人がいない。半世紀前の加藤周一の文章を彷彿とさせる。最も言いたいことを最後の一文に結晶させるテクニックは真似できないにしても、主張への説得力の持たせ方のテクニックからは学びうるはず。
読む側から言えば、著者が言いたいことと依拠した論理によって言われていることとの識別が重要。前者は、政府が負けを自覚できずに大敗する可能性を示唆するが、後者は、自覚なき大勝の可能性もまた示唆する。言われていることは、いずれにせよ現政府はそれを自覚することができない、ということとなる。
著者の言いたいこととそれを言うために依拠した論理によって言われていることとの区別は、読むとはそれを(/)読むことだといえるほど重要。哲学書は概してそれが可能だが、『資本論』のような言いたいことこそが眼目であるような書物でも(宇野弘蔵がやったように)この区別が截然とつけられる点に注目せよ。
それゆえに、著者の言いたかったことをわかりやすく解説した本は、正しく書かれていても、役に立たない。優れた書物は、著者が言いたかったことを言ってはいないから。
『独自成類的人間』81-82頁
正直、歴史認識や『資本論』における宇野弘蔵は知らない。どちらも名前を聞いたことがあるくらいである。それはいいとして、私は次のようにコメントしている。この箇所に。(私は読書メモをするときにコメントをすることにしている。少し前から。☆はコメントであるしるしである。)
☆ クィアリーディングとはこのようなリーディングのことなのだろうか。截然と分けつつ、後者[=「それ[=「著者の言いたいこと」:引用者]を言うために依拠した論理によって言われていること」:引用者]を前者[=「著者の言いたいこと」:引用者]とは別のものであることを綿密に保ちつつ提示する、そんな読み-書き。
☆☆ いや、読み-書きがそもそもそういうものなのかもしれない。逆に、ここで言われているような区別が截然としている、その「截然」こそが重要なのかもしれない。そうするとかなりレトリック的な次元に突入するし、千葉的な次元に突入するように思われる。
☆☆はたぶん二周目、二回目に読んだときに考えたことだろう。もしかするとただ単に☆の後だということかもしれないが。まあそれはいいとして、とりあえず「レトリック的な次元」や「千葉的な次元」を置いておくとして、このようなイメージを持っていた。私はクィア・リーディングに対して。
普通、こういう展開なら、このイメージが変わったり、深まったり、そういうことがあるかもしれない。しかし、正直私は変化したのか、深化したのか、それすらわからない。
わかったのは古怒田望人/いりやが優れた書き手であるということであり、その優れ(こんな用法があるのかは知らない。「優秀さ」とかではなく「優れ」。)は具体例の提示とイメージの構築にあるということである。
そのことから私は、古怒田/いりやのエッセイ集?を読んでみたいと思った。なんというか、哲学書としては、あんまり読まなかった。読めなかったと言ったほうが適切かもしれない。しかし、それでも読めたのはおそらく、上に挙げた優れのおかげ、優れによることだと思う。
いろいろと疑問はあるが、それについては読書メモのそれぞれのところに書いた(記憶がある)ので以下の二つを参照してもらうとして、こんな感じで感想としたい。
私は哲学的でも文学的でもない。そんなふうに思った。思えた。そんな読書だった。古怒田/いりやの個人的なことが書かれた文章を読んでみたい。よりよく寄生すること。寄生しないと生きていけないということ。
反転はどちらから始まってもいいのだが、しかしどちらから始まるかによってその意味は変わってくる。これは端的な事実である。いや、端的な事実に向けたエクササイズなのかもしれない。
類似と差異はそれ自体として気持ちの良い経験である。気持ち良くしないといけないのは経験をどう考えるか、語るか、パフォームするか、スタイルするか、そこである。スタンス。
どうにもこうにも終われそうにないので私のお気に入りの句を挙げ、それに関するお気に入りの文章を挙げて終わろう。
野菊道数個の我の別れ行く
推敲していたときに『独自成類的人間』からの引用がひどく的外れなものだと思われた。なぜなんだろう。直感はそう言っている。しかし考えてみるとよくわからない。そう言えば、プルーストが出てくるところがよくわからなかった。そうまとめることができるかもしれない。レヴィナスは独我論者である。『傷の哲学、レヴィナス』でもそんな示唆を受けたと(手元にないのでわからないのだが)たしか78頁で言っていた気がする。同じであること、違うこと。どちらが先に来るのか、それは反転における端的な事実なのである。たぶん。
匂いで分身する。私は目も手も足も耳も失って、鼻だけが知る。分身することを。彼、彼女、あの人がここにいるはずがない。しかし匂いはいる。目や耳が帰ってきて、それは識別される。ああ、あの人じゃなかった。しかし分身はしている。これも綺麗にまったく、逆である、鏡像的なことがある。匂いから人を消す。ただの匂いになる。消すこと自体も消されて、ただの匂いになる。
そうだ。「孤独」についての議論で私は、鏡像としてのレヴィナスを発見した。そして私はそれでやっと、私を見つめることができたのだ。その私が強がり、強張り、凝り、そんな私である可能性は大いにあるが、しかし確実に鏡像的であり、どちらにも現実はあったのだ。
関係ない話がescalationしているが読みたくなかったら読まなくてもいい。私はかつて、たしか木村敏の『自分ということ』、ああ、53頁。よく思い出すところは覚えてしまう。間違っているかもしれない。それを引こうか。いや、やめておこう。そのとき、私は鏡を見て、あちらが現実だと思うこと、それにリアリティを感じていた。最近はもっぱら、薄暗い鏡の前で動くことによる、なんとも言えない質感をあのときよりは健康的に楽しんでいる。
escalationしていきそう、楽しそうだったが、そのことを自覚してしまったがために、もしくは引用を遠慮してしまったがゆえにescalationは止まってしまった。最後にわかる人にしかわからないことを書いて終わろう。Red Bullの螺旋でTohjiが勝手に気持ち良くなっていく、テンションが上がっていく、escalationしていく、あの姿に私は私の気持ち良さの根源を見ることができるかもしれないと思う。なぜか思い出した句を紹介して終わろう。
目を閉じて蜜柑みたいなぴちゃ見たり
推敲後を推敲したが、木村敏の話は『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫)のそれこそ78頁くらいにあった話だと思う。53頁はまた別だ。引用して私の勘違いをそれとして晒そう。そしてさすがにそろそろ終わろう。引用したかっただけなのかもしれない。引用くるくる。縁起と輪廻。
私があるということと、私が花を見ているということと、そして花があるということとは、いずれも端的に同一のことの三つの側面をなしている。一つのことが、生きいきとした現実としていまここに──つまり、いわば私と花とのあいだに──生起していて、この現実の躍動を向う側へ託けて言うと「花がある」ということになり、こちら側へ引き受けて言うと「私がある」ということになる、そういった構造になっている。
『自分ということ』(ちくま学芸文庫)53頁
ここ。私はここを何度も引用した。昔の話だが。『クィア・レヴィナス』は何度も引用されるだろうか、私にはわからない。まだわからない。わかるのは未来の私だ。未来の私が引用して、もっと未来の私が「引用しているなあ。」と気づく。いつ死ぬかは知らないが。
