『クィア・レヴィナス』の読書メモの一部
最近『クィア・レヴィナス』という本を読んだ。「読んだ」と言えるくらいには読んだ。そのなかで読書メモをしていた。その一部を公開したいと思う。全部公開しても私は別に構わないのだが著者の古怒田望人/いりやは良くないと思うかもしれないと思って、今回は一部の公開にとどめることにした。これは配慮しているふうの言い方で、本当は「引用が従」という主従性を守れていないから、そしてそれが気持ち悪いからなのかもしれない。まあ、それはわからない。
本編(メモだから本編ではないのかもしれないが)に入る前に一つだけ、主従性に関わる変化を語っておこう。私は読書メモの仕方を変えた。いや、精確には変えているところである。前まで私はスキャンしてコピーしてペーストするという読書メモをしていた。スキャンアンドコピーアンドペーストをしたいところをスキャンアンドコピーアンドペーストしていた。しかし最近はメモをするならばコメントまでするというルール、制限を加えた。有限化。その理由は私にもよくわかっていないが、この変化は私の読書の変化でもあるように思われる。書きたいことが出てきたが、今回はパスしよう。また書くだろうから。
ということで、ここからのメモには『クィア・レヴィナス』の本文とそれに対するコメントがあるということである。コメントは☆で、本文はなにも書かずに最後に頁数だけ書いている。また、注釈があり、それも込みでメモをしている場合は「(1)〜」[89]みたいな形で本文の後に書かれている。その後に☆、つまりコメントが書かれている。まあ、たぶん見れば、読めばわかると思う。他に確認しておくこととしては「(/)」という記号だろう。この記号は頁を跨いだことを示す記号である。他にはレヴィナスの著作の略号をいちいち開くのは面倒なのでメモしたままの状態で持ってきたい。私がわからなくならないようにするくらいには書いているのでそれでわからなければ(そしてわかりたければ、わかりたくなれば)『クィア・レヴィナス』を読んでもらえばいい。最初らへんに略号一覧が書いているだろうから。
確認事項はこれくらい、たぶんこれくらいだが、一つだけしてみたいことがある。それは補足、注釈も含めた広い意味での補足を[]で行うということである。本文にはたぶん付けない。コメントにつける。コメントもまたコピーアンドペーストアンドコメントされるのだ。『クィア・レヴィナス』はスキャンアンドコピーアンドペーストアンドコメントされる。それくらいだろうか。自分の勉強(?)も兼ねて丁寧に補足することにしたい。まあ、めんどくさくてしないかもしれない。にこにこ。では、まずはピックアップしてこよう。一部を。ヒップアップして補足することにする。全体から一部をピックアップして、そのピックアップされた全体から一部を補足していきたい。では。始めよう。今日一日、時間が空いたらするプロジェクトだ。もしかしたら明日も明後日も、たくさん時間はかかるかもしれない。では、さっさと始めよう。長すぎた。説明が。すみません。
一応ピックアップした。が、まだ三万字くらいある。元々四万五千字あったのだから減っている、すなわちちゃんとピックアップできているのだが、いい感じになっているとは言い難い。補足するときになんとかなるのだろうか。補足したらもっと長くなってしまう気がするのだが、どうしたらいいのだろうか。まあ、とりあえず補足を始めようと思う。もしかしたら出ないかもしれない。世に。
よし、疲れてるけどやるぞー。家に帰ってきた。微睡んだ。そろそろ始めよう。以下、数字は特に断りのない限り『クィア・レヴィナス』の頁数である。
本書における「クィア」とは、規範的、典型的なジェンダー、セクシュアリティから逸脱する存在を意味する)。
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☆ あとから見返す用。
[こういうときもある。特にコメントはないが後からコメントするときに必要になりそうだからメモしておくのだ。]
──私は「男にも女にもありきれない」ジェンダークィアという性を生きるクィアな存在である──
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☆ 「男にも女にもなりきれない」ではなく「男にも女にもありきれない」という表現なのが面白い。どちらかといえば後者のほうが変な気がするが、これは「女になる」ということが含むトラブル、ジェンダートラブルとは違う視点を持っていることを示唆しているのだろうか。「女になる」ことについては『バトラー入門』の三章(たぶん)が参考になる。
[「たぶん」と書いているが正しい。確認した。それはそうとして「なりきる」という表現には終着性がある。それに対して「ありきる」という表現には執着性がない、か、もしくは希薄である。この辺りは生成変化論、のちにも触れていると思うが千葉雅也が中島隆博の『荘子の哲学』を書評しつつ(もしくは書評として)書いている文章が参考になる。印象的なパッセージだけ引くとすれば次のような箇所が参考になる。「「ハッとして荘周」であり「ハッとしてx」であるというスイッチは、「解離性同一性障害」によ(/)る多重人格のようであり、すべての自他がそうなのだとすれば、責任を互いに反射=反省しあうための歴史の時空は、あるとしても一時的で不安定でしかない。おそらくそうした状況こそが、戦争と平和がもはや識別不可能になった世界なのではないか──それでも他なる存在者と共存すること。それは、最低限、責任なき応答可能性において共に生き延びようとすることに他ならない。そこでは、もはや歴史的なまとまりを持った「個体individu」ではなく、解離した「分割体dividuel」として物化しつづける自他が、帝国化という善意=悪意さえもなく"ひたすら無関心な戦争"を乱発することになるだろう。そんな戦争のただなかで、"ひたすら無関心な平和"を希望するという、倫理ですらない希望に賭けること。」(『意味がない無意味』278-279頁)ここまでラディカルではないにしても、このようなラディカルさに似ていると私は思ったのかもしれない。ここから中島隆博の『荘子の哲学』に、もしくは千葉雅也の『動きすぎてはいけない』に、行こうと思えば行けるがかなり長旅なので今回はこれくらいにしておこう。ちなみに、この箇所を引用してから気がついたが、のちのちの私の違和感もこの感覚への共感から生まれている、少なくともそういう箇所があるように思われる。]
本書が全体を通じて試みることは、このようなレヴィナスのテクストとクィアな人々との邂逅である。本書の目的は、彼のセクシュアリティ論がクィアな人々の存在や経験を抹消しているという問題を明らかにしつつ、その規範性を引き受けたとしても彼のテクストのうちにクィアな読解可能性が存在することを引き出し、そこにクィアなセクシュアリティの構造を見出すことにある。それにより、「わたしたち」にレヴィナスのテクストが開かれる仕方、言い換えれば、クィアな人々がアクセス可能なものとしてレヴィナス思想を展開する可能性を提示する。すなわち、本書の最終目的は、レヴィナスのテクストを「クィアに問う」ことを通じて、彼のテクストを「クィアな人々の生/性へと開く」こと、「あなたたち」に奪われてきた彼の言葉を、「わたしたち」の言葉として取り戻し、彼のテクストと「わたしたち」が出会い直すことである。
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☆ テクストはあいだにあり、その「あいだ」はテーブルになる。同質性の二重性が求められているのだ。いや、「あなた/わたし」ではなく「あなたたち/わたしたち」であるから三重の同質性が求められていると言ってもよい。まあ、ここだけではそうは言えないかもしれないが、これらの同質性の関係性が気になる。
[たまにこういう、よくわからないコメントがある。私はこういうコメントに苛立ちと喜びを感じる。ここを解説していると時間がかかりすぎてしまうので今回はスルーすることにする。別に新しいことは言えないと思うから。「同質性」というのは実は『クィア・レヴィナス』のキーワードなのだが、この時点でこの表現を使ったのはなぜなのだろうか。まだ出てきていなかった気がするんだけれど………まあ、たまたまか。というか別にいいや。全部に補足するのやめよう。当初の約束と違うし時間がかかりすぎるし長くなりすぎる。ただ言いたいことがないならわざわざ引用する意味がわからないとも言えるんだよなあ。そうなるとそもそもコメントはいつもなされていて、というがなされるからこそ引用されている、メモされていると考えることもできるかもしれない。そうなるとなぜコメントをするというルールができたのかがよくわからなくなる。ただの現実性?]
以上のように、レヴィナスのセクシュアリティ論を読解するうえで、彼の文学者としての立ち位置は軽視できないものがある。本書は、ある面において、哲学者やユダヤ思想家として知られるレヴィナスのドミナントな解釈に<逆らって>、文学者としての彼の思想の軌跡を浮き彫りにするものである。
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☆ 綺麗。レヴィナスを読む私たちの関係性とレヴィナス自身の複数性の関係性とを綺麗に類比させている。
[少し言葉足らずなので言葉を足しておこう。私がわからなくなることはないと思うが。簡単に言えば、「レヴィナスを読む」ことにおけるドミナント/マイナーという関係と「レヴィナス自身」の哲学者やユダヤ思想家/文学者を同じようなものにすることで、することでなんだ?わからなくなってきた。まあとりあえず、「綺麗」だと思ったのである。意外と複雑な話になりそうだった。どんな話も複雑になりそうで困る。「シンプルに話せばシンプルになる でも深刻に話せば深刻になる」(¥ellow Bucks)
以上のレヴィナス解釈は、彼の議論を脱性化しない適切な主張に見える。しかし、横田や渡名喜が性化や有性性の対立概念として使用する「中性」や「無性」という言葉は、たとえ両者がそうした意図を持たないとしても、(8)男女二元論に当てはまることのないノンバイナリーやジェンタークィアのようなクィアな人々によって現に名乗られている「中性」や「無性」という言葉の生きられた意味を剝奪する結果を招く恐れがある。(9)「中性」や「無性」は、性が不在であることではなく、性が男女二元論に留まることなく生きられる仕方を意味しているからだ。
これらの研究が、ジェンダーの文脈で不用意に「中性」や「無性」を否定的な意味で用いるのは、レヴィナスの記述を、暗黙のうちに男女二元論に基づくシスジェンダーの観点から捉えてしまっているからだろう。(10)これらの研究は、セクシュアリティの問題そのものは周縁化していないが、トランスジェンダーのような人々によって生きられるクィアなセクシュアリティの存在をかき消すレ(/)ヴィナス解釈を行ってしまっているのだ。既存の社会においても男であるか女であるかを前提に議論が進むことが大半であるために、男女どちらかに帰属できないジェンダーを生きるトランスジェンダーの人々が見えないものにされるのと同様に、理論においても男女二元論を前提とすることは、これらの人々の存在を不可視化させてしまう危うさがある。(11)
以上のように、これまでのレヴィナス研究は、(1)レヴィナスのセクシュアリティ論を脱性化することでその理論の規範性を看過するか、(2)その規範性を認めるが彼のセクシュアリティ論そのものの可能性を打ち消してしまうか、(3)セクシュアリティ論の可能性を提示するものの、そのテクストを男女二元論やシスジェンダー中心主義のような観点から解釈することでクィアな人々の存在を抹消してしまう、といった問題を抱えてきた。こうした問題に取り組むためにも、レヴィナスのセクシュアリティ論が含んでしまっている規範性を彼のテクストに沿って明らかにするとともに、その規範性の向こうにクィアな人々の存在や経験を消し去ることのない彼のテクストの可能性を提示する本書の試みが求められる。そこで、次章では、彼の初期テクストの読解を通して、この二つの目的を論じることが可能なことを証明し、本書のアウトラインを素描したい。
45-46
「(8)例えば、横田が「中性」や「無性」という言葉で念頭に置いているのは、「人間(homme)」という中立的な言葉が「男性」という観点を含意するという問題である(cf.横田2022:161)。
(9)確かに渡名喜は、レヴィナスは「無性」の立場を取らないという自身のレヴィナス解釈の補足として、「これに対し、レヴィナスは「性」のありかたを二つしか考えていないと批判することはもちろん可能だ」(渡名喜2021:440)と述べている。本書はある面ではその批判を行うものだが、しかし他方で、本書は、レヴィナスのテクストそのもののうちに男女二元論的ではない「「性」のありかた」を見出すことをも試みる。」[45]
「(10)レヴィナスの「女性的なもの」概念の記述に関して、「男性と女性という語を入れ替えても」、「同じ現象学的成果がえられる」(サランスキ2010=2012:134)とするジャン=ミシェル・サランスキと、そのサランスキ解釈から同性愛関係もレヴィナスのこの記述に含まれるとする小手川も(小手川2015:314)、この男女の関係や同性愛関係がトランスジェンダーの人々によって生きられる可能性に関しては考慮していないと思われる。
(11)クィアな人々の存在を抹消する「女性的なもの」概念解釈の言説は、国外の研究にも見られる。まず、カトリーヌ・シャリェは、『女性的なものの転義 Figures du Féminin』(1982)において、「女性的なもの」機念を「他律(lhétéronomie)の経験」を象徴するものと見なす(Chalier 1982=2006:19)。しかし、ここで「他律」は、「自律(autonomie)」だけではなく、「同質的な時間(un temps homogène)」と対比されて論じられており(Chalier 1982=2006:21)、そこには「ヘテロ/ホモ」という二項対立と、その二項対立の観点に基づいた同性愛の観点の暗黙の排除が含意されている。事実、シャリエが「女性的なもの」概念を具体化する際に参照するのは、異性愛のカップルに限定されている(cf.Chalier 1982=2006:39)。あるいは、「女性的なもの」概念を、性的差異のある種の象微として評価するデリダ(1997=2004:68)やマラブー(Malabou 2012)のような解釈も、セクシュアリティの観点から男性性の観点を取り除いてしまうことで、前述のブッチの男性性やトランスジェンダー男性の男性性のようなクィアな人々によって生きられる男性性の観点を不可視化する危険性がある(この問題の詳細に関しては、Salamon [2010:211-232/131-144]や古怒田[2022] を参照)。」[47]
☆ 長いので全部を包括するコメントはできないが、クィアリーディングのモットーとして「これまでのレヴィナス研究は」以降は読めると思った。それと同時に「規範」という概念が仮に「概念は反抗するものである」というふうに考えられるとすれば、そこではかなり複雑なことが起こっていると思った。
[これはのちに何度も触れられるのでここではシンプルに話そう。「概念は反抗するものである」というのは誰が言ったわけでもない。私がいつの日か言って、ずっと頭に残っているフレーズである。それを「規範」に適用するとするならば、「規範」という概念自体は何に反抗しているのかが考えられるかもしれないと思ったのだ。しかし考えてみればそれは雑すぎる見立てなのではないだろうか。]
[第二章:引用者]1 孤独という問題──初期レヴィナスにおけるセクシュアリティ論の背景
本節では、初期レヴィナスがそれに抗してセクシュアリティ論を展開する、存在論的な「孤独」の問題を扱う。初期において彼は、「孤独」というセクシュアリティに無関係にも見える出来事を起点に議論を行っている。
この「孤独」の問題を論じるためにまず、公刊著作で初めてセクシュアリティが主題的に言及される、一九四七年の『実存から実存者へ』の記述を見たい。そこでは、ある種の自閉的な構造に抗してセクシュアリティが提示されている。
「エロスにおいて、超越は、根本的な仕方で考えられうる。エロスにおいて、超越は、存在にとらえられ、避けがたく自己へと回帰してゆく自我に、その回帰とは別のものをもたらし、自我をその影から解放することができる。」(『実存から実存者へ』:200/164)
「避けがたく自己へと回帰してゆく自我」の「解放」、つまり主体の何らかの自閉的な構造に抗して、「エロス」というセクシュアリティの水準を、レヴィナスは導入するのだ。自己へと自閉する構造とは別の仕方で主体のありようを語ることが、初期レヴィナスのセクシュアリティ論の一つの目的である。
49
☆ 面白すぎるなあ。「同一性と変化」において、「変化」を「同一性」による捕捉と捉えるか、「同一性」を「変化」に抗する実践と捉えるか、その二つがいつも哲学には生きている気がする。
[興奮してポイントを見誤っているようにも見える。「に見える」ではなく「にも見える」だが。仮に見誤っていないとするならば、レヴィナスの哲学は「変化」を「同一性」によって捕捉するほうだろう。ていうか「「変化」を「同一性」による捕捉と捉える」というのはかなり捻った言い方、もしくは変な言い方である、ような気もする。なんだかふわふわしている。]
レヴィナスは、「私が実存するという事実」の交換不可能性から、「私は完全に孤独である」という事態を引き出している。すなわち、彼が記述する「孤独」とは、唯一の存在であるといった実存ではなく、「私が実存するという事実」が、他者によって交換不可能である、言い換えれば、代替(/)できないという排他的な(=自閉的な)存在論的構造を示す概念だといえる。初期の彼にとって「孤独」とは、私の存在を他者が代わりに生きることができないという不可能性を意味していた。
このような「孤独」の問題に対して、初期レヴィナスは、「自己自身へと不可避的に回帰しない可能性」を、「繁殖的=生殖的(fécond)である可能性」、「息子を有する可能性」と見なす(『実存から実存者へ』:200/165)。つまり、「孤独」の自閉的構造に抗して「息子の生殖」というセクシュアリティの水準が提示されるのだ。初期レヴィナスのセクシュアリティ論は、主体の排他的な存在論的構造としての「孤独」に抗する仕方で導入されることになる。
50-51
☆ レヴィナスの可愛げが感じられる。私はむしろ、「私の存在を他者が代わりに生きることができないという不可能性」よりも「他者が代わりに生きることでしか私は存在できないという不可能性」のほうに重きを置いていると思う。鏡像。私とレヴィナス。
[私には哲学者を、ある程度愛着がある哲学者を「○○ちゃん」と呼ぶ癖がある。ウィトゲンシュタインを「ウィトちゃん」と呼んだり、レヴィナスを「レヴィちゃん」と呼んだり、そんなことである。その癖は他人から見ると舐めているように見えるかもしれない。そしてここでの「可愛げが感じられる」にもそのように見えるところがあるかもしれない。しかし、たしかにそういうところもあるのかもしれないが、鏡像的すぎてびっくりしたのだと私は思う。真逆すぎて「ほんまに言うてんの?」と思ったのだと思う。言い訳かもしれないが。本当は消したかった。ただ、そこにはなんだかなんともいえない、ああ、これが「遺稿焼却問題」の感覚か。だめだだめだ!話が逸れすぎる。いい感じに逸れなきゃ。]
初期レヴィナスは、セクシュアリティを、異性愛者でシスジェンダーの夫婦を主体とした家父長的な生殖に限定的に結び付けつつ、その観点を特権化し、そのような生殖に関わらない/関わることのできないクィアな存在を抹消する記述を展開している。そして、こうした規範性を含む初期レヴィナスの繁殖性概念をある種の存在論的概念として理論化する言説は、このような規範性を看過するだけではなく、レヴィナスのテクストの問題を再生産してしまう恐れがあるといえるだろう。
61
☆ 横槍を入れたいわけではないが、「規範」が再生産によってしか存在しないとすれば、それを保ちつつここで行おうとしている批判を遂行することは案外難しいことなのではないかと思う。
[45-46の☆で述べたこととも関わると思うし、後にも関わるところが出てくると思うのだが、端的に言えば私は「規範」がよくわかっていないのである。仮に「規範」が「再生産によってしか存在しない」のだとすれば「再生産」とはなんなのか、そして「規範」は「再生産」に「反抗する」だけでなく「再生産」によって存在するすべてに「反抗する」のだと言ってもいいかもしれない。いや、「反抗」という言い方は英雄的すぎるか。いろんなことが頭に浮かんでしまった。今回はそれを示すだけにとどめよう。『問いが世界をつくりだす』の第九章「英雄と悲劇」、『独自成類的人間』の七七頁、これらがパッと浮かんでしまった。全部コメントしそう。にこにこ。どうしようもないねえ。コメント癖。]
他者によって主体の自発性が問われ、その問いに(/)主体が応答し自己を弁護する発話関係が『全体性と無限』における「倫理」の構造である。
82-83
☆ 簡略なまとめだ。本当なのかはわからないが、足がかりにしてみるのは楽しそうである。特に「自己を弁護する」というところが。
[「本当なのかはわからない」というのは私は大してレヴィナスについて知らないし『全体性と無限』も知らないからである。妥当性を検証できるほどのレベルにないのである。私は。この「自己を弁護する」については千葉雅也『動きすぎてはいけない』の以下の箇所が頭に浮かんでいるだろう。「「この世界を「別の舞台」へ──危機の「否認」を介した上で──分身させること、「まったく同じ世界」を「再」構築するという企ては、このように与えられてしまっている世界を、いったん文字通りのままに享受し、その苦々しい作動を、「法解釈」によって最良のそれへと反転させることである。ドゥルーズによれば、「すべてが理由をもっている」というライプニッツの充足理由律は決して、すべてを支配する「輝かしい」原理ではなかった。むしろ、「原理を増殖させること、そのひとつをいつも袖からとり出して、そうして使用法を変えてしまうこと」が、ライプニッツの流儀なのである。マゾヒズム=ユーモアに徹して言うならば、充足理由律はア・プリオリな原理ではなく、弁護士のア・ポステリオリな道具であるにすぎない。この世界の≪大義=理由≫の収束など諦め切っているからこそ、私たちはあえて充足理由律を信じるのである。」(『動きすぎてはいけない』(河出文庫)450頁)こう考えてみると私のなかに千葉雅也は確実に生きている。名前を呼ぶことはまあまあ多いくらいだが、それ以上に呼ばれているの、かもしれない。]
レヴィナスが論じる歴史の暴力とは、当人の意思とは関係のないところで人が「その所産を起点にして解釈された人物として凝固」させられる現象、人がその所産を介して三人称の始点から取り上げられ、解釈される状況である。例えば、私がネット記事(「所産」)を書いたとしよう。そのネット記事は、私が不在の匿名のコメント欄において第三者によって暴力的に解釈されてしまうものでもある。このような事態をレヴィナスは論じているといってよい。だが、彼が記しているよう(/)に、「発話する存在」は、この第三者の解釈に対して現前し、発話を介して自らの「所産を擁護」することで、その暴力に抵抗することができる。先のネット記事の例で言えば、匿名のコメント欄の誹謗中傷に対して批判声明を出し自らの所産(記事)を弁護できる。つまり「この発話は意思の弁護として生起」する「弁明」である(TI=『全体性と無限』:436/271)。しかし、私の死後もネットに残る記事(「死んだ意思の遺産である「全集」」)を私は弁明できず、無防備に生き残りの歴史の暴力に曝され、文字通り死人に口なしとなる。レヴィナスの言葉を借りれば、「歴史が認識するのは死んだ人間だけ──歴史はこの者に、その所産や遺産のうちで客観的に接する──なのだ」(TI:324/199)。
この歴史の暴力に抗するためには、発話を介した倫理とは異なった関係が求められる。第三部「顔と外部性」に続いて、『全体性と無限』でセクシュアリティが主に論じられる第四部は「顔の彼方へ」と題されることになるが、「顔の彼方」とはまさに、同書で「顔」と呼ばれる発話を介した倫理(1)とは別の関係を示唆するものである。レヴィナスが『全体性と無限』で「顔の倫理」を論じたことは広く知られているが、彼は、その「顔の倫理」だけでは不十分と考えたのだ。そして、「顔の倫理」に付け足されるべきものと見なされたのがセクシュアリティの水準なのである。
加えて、そのセクシュアリティ概念が集中的に記述される『全体性と無限』第四部で「死」が問題となるのは、レヴィナスが、このような主体の死後における歴史の暴力に抗した水準としてセクシュアリティを導入するためである。(2)同著において、セクシュアリティは、主体の死に降りかかる暴力への抵抗として現れる。
83-84
「(1)「表出に固有の出来事とは、自己についての証言をもたらすとともに、この証言を保証することである。こうした自己についての証言は、顔として、言い換えれば、発話としてのみ可能である」(TI:357/220)。」[85]
「(2)また死が『全体性と無限』第四部において「不可逆な運命」と記述された理由の一つは、主体の死後にこのような取り返しのつかない歴史への統合が生じるという「運命」の構造にあるといえる(「運命は、歴史に先立つのではなく、歴史の後を追うのだ。運命とは、死者たちの所産を解釈する、言い換えれば、それらを利用する修史家たちによる歴史、生き残った者たちの物語である」[TI: 408/253])。」[85]
☆ 色々と言いたいこととか、納得もしくは共感するところがあるが、とりあえず言っておきたいのは「所産」さえ、「全集」さえない、もしくはないとみなされる場合、この「倫理」やら「セクシュアリティ」やら、そういうものはどうなるのだろうか。まあ、それは置いておいて、「倫理」なきところから「セクシュアリティ」が始まる、雑に言えばそういう発想がここにはあって、それはある意味では正しいように思われる。「ある意味」がなんなのかまだ、「まだ」というか、まあ、よくわかっていないのだが。「まあ/まだ」という対比。
[集中力が切れてきたのだろうか。本文の冒頭「レヴィナスが論じる歴史の暴力とは、当人の意思とは関係のないところで人が「その所産を起点にして解釈された人物として凝固」させられる現象、人がその所産を介して三人称の始点から取り上げられ、解釈される状況である。」の「始点」は「視点」ではないのか、というふうに思った。ただ、別に「始点」でもいいというか、「なりきれない」ではなく「ありきれない」であるということに近い感覚なのかもしれないと思った。内容についてはのちに詳しいことが言われていた記憶があるので今回は保留で。]
生殖を介することで、主体の死後の時間は、ネットのコメント欄のような三人称的な匿名の領域ではなく、「子孫」という具体的な名を有した他者との関係性の領域に開かれる。
86
☆ ネット記事の例がなぜそれである必要があるかがここでわかって気持ちが良かった。具体例がちゃんと二段構造になっているのである。抽象的なことを具体的なことにしつつ、それがなぜそのように具体化されたかもわかるような具体例。具体例の美徳。
[「具体例の美徳」を備えているか否か、それはとても重要な感覚である。まあ、私は美徳を備えているかの前に具体例を出すことがとても苦手なのだが………]
繁殖性の未来は、「弁明」を行う倫理の主体性を、その死後も、歴史の暴力に陥ることなく存続させる可能性の条件(「無限の時間」)となる。私は死後に自らを弁明できないが、私の意思をある面で引き継ぐ世代の弁明によって、私は<死人に口なし>とならず歴史の暴力を免れうる。したがって、倫理の主体の可能性の条件を、主体の死後に想定するために、『全体性と無限』は繁殖性の時(/)間構造を要請するのだ。
87-88
☆ 「、」多いなあ。それはいいとして、永井均がたびたび言及するパーフィットの思考実験を思い出した。あれのポイントは私であるような他人の/に目的(のようなもの)を引き継げるか、ということだと思うが、レヴィナスはあれのポイントを何に見て、どのように考えるのだろうか。
[たびたび言及しているから正解とかないんだけど、たぶん『転校生とブラックジャック』でこのような感覚を、さらには極端に、瞬間瞬間に思考実験で可能であることが起こっていると考えることもできる、と言えるけれど、それは私たちにとっては起こっているか起こっていないかわからない、というかそもそも、「起こっているか起こっていないかわからない」ことすら考えようがないような、そんな原理で世界、まあ精確ではないがわかりやすいように言えば社会は構築されていると言うこともできる、みたいなことを永井均は考えている。その一つの例に過ぎないかもしれないが、私はあれがとても好きで、レヴィナスはすごく単純に「子孫」なら「意思」を「弁明」してもいいと思っているように見えて、そのことが私を戸惑わせるのである。のちに書いていると思うが、私は過去の自分を代弁することが気持ち悪いと思ってしまうところがあるのだ。]
レヴィナスのテクストの枠内では、例えば、トランスジェンダーや同性愛者の生殖を想定することは不可能であり、繁殖性概念をたとえ象徴として解釈したとしても、彼のテクストが含んでいる異性愛・シスジェンダー中心主義から逃れることはできない。さらに言えば、既存の研究のように「増大のイマージュ」のような仕方で普遍的な生殖、繁殖の概念として解釈してしまうと、レヴィナスがなぜ、親子関係や母子関係ではなく、「父-息子関係」という観点から繁殖性概念を展開したのかが説明できなくなってしまうだけではなく、それらの観点が含む問題を普遍化することにも繋がりうる。レヴィナスが語る生殖を「増大のイマージュ」のような普遍的なものと見なすことは、彼の生殖論が含んでいる異性愛・シスジェンダー中心主義を温存した理論を形成する危険性がある。
94
☆ まとまっている。なんというか、「レヴィナス思想にクィアな主題を接続する私の研究に対して「そんなものと〔レヴィナスを〕一緒にするな!」といった心無い言葉を投げかけられた」[10]ということについて、〔〕なしで考えるとすれば、檜垣(「生殖を「増大のイマージュ」のような普遍的なものと見なす」という解釈をした人。)のようなアクロバット(?)が好きな人には「そんなものと一緒にするな!」とは思わないまでも「そりゃそうですけど、わざわざそうした理由を規範性を理由にして考えるのはつまらなくないですか?」みたいな、言わないにしてもそういう感じがあることはなんとなく想像ができるような気がする。もちろんここには規範における非対称性があると言えばそうである。従わなくても従っているものと従わないと従っていないもの、というような非対称性が。ただ、檜垣のような解釈をしている人のつまらなさそうな顔もなんとなく想像がつく。もちろん、古怒田/いりややその態度に共感する人はそれを「規範」の「再生産」だと思ったり言ったりするのかもしれないが。61の☆も参照。
[ものすごく重要なのだが、そのようなところに限ってなにを言ったらいいのかわからなくなってくる。どんどんこの、[]のなかでしていることが補足から弁護になってきているような気がする。すごいなあ。注釈をずっと付けられるというのは。あと、これだけはここで触れておきたいのだが「〔〕なしで考えるとすれば」というところがのちの古怒田/いりやの「問いが「父性」に限定されているという点は、一旦脇において、記述の枠組みだけを取り出してみたい。」(201頁)という表現と近いものを感じてアツい。どんどん雑になっていく補足。感想。率直な(?)感想。]
「死についての意識」という「死の絶えざる繰り延べ」は「労働する身体」を通して具体化される。(9)そして、ここで含意されている「死」とは、「健康から病気への反転」が生じる身体の衰えの現象であり(TI=『全体性と無限』:290/177)、労働の繰り延べとはこのような「身体の身体性の繰り延べである」(TI:(/)292/179)。つまり、身体を死から遠ざけ、その衰えを先延ばしにする働きが労働の時間なのである。例えば、栄養のある食料を、労働を通じて手に入れることで、健康な身体を維持することが可能となる。レヴィナスの論じる「繰り延べ」とは、「翌日の不安定さ」のような世界の不確定な時間を先延ばしにすることだけではなく、身体の<衰え>を繰り延べようとする時間なのだ。
逆に言えば、「老化」の<完了してしまっている>という時間は、労働という身体性を通して実現する時間の未完了相、つまり、「身体の身体性の繰り延べ」が不可能になる事態であると考えられる。これはどのような事態だろうか。それは、身体を衰えから遠ざける「労働する身体」それ自体が、「老いてしまっている」(TI:507/314)という事実性、身体の衰えの事実性によって無効化される現象だといえるのではないだろうか。労働する身体それ自体が老いる=衰えるという事実を、労働は繰り延べることができないために、労働する身体は「不可逆」な「老化」を抱え込むことになる。実際、レヴィナスは老化を「不可逆な運命」(TI:489/303) や「不可逆性」(CE2:320/309)から特徴づけており、老化する=衰える身体それ自体の繰り延べ不可能性を強調している。彼が論じる老化の構造は、老年期に限定されるものでも、比喩的な概念でもなく、<衰えてしまっている>という不可逆で身体的な時間として解釈しうるものだ。
101-102
「(9)この点に関しては次の記述も参照。「意識とは、脱受肉化である、あるいは、より正確には、身体の身体性の繰り延べである。このことは、抽象化というエーテルのうちで生起するのではなく、住居と労働というまったく具体的なものとして生起する」(TI: 292/179)」[101]
☆ 気分の区別についての私の感覚とここでの議論は接続するように思われる。「体調が良くない」というのはその接続の表現であり、これが接続であることがわからなければ、考えることはマイナスからプラスへの反転に過ぎなくなるのではないだろうか。それは押し付けでもあるし、そもそもつまらない。ちなみにこの箇所は一度読み飛ばされたが、もう一度読み直してスキャンアンドコピーアンドペーストアンドコメントされた。
☆☆ 気分には身体がない。しかし、なんらかの「繰り延べ不可能性」自体が「身体」と呼べると考えることもできるかもしれない。かなりアクロバティックだが。ただ、この感覚自体はもともとあって、ヘーゲルや入不二基義を読んでいるときにこの感覚が語られているという感覚があった。
[正直「「体調が良くない」というのはその接続の表現であ」るというのがどういうことなのか、よくわからない。いや、わかったわ。なるほどね。☆☆はスキャンアンドコピーアンドペーストアンドコメントしたものを読んだときに思いついたコメントだが、この「わかった」からするとよりラディカルなことが言われているように感じられる。次元が一つ上がっている。☆☆のときにはわかっていたのだろうか。それはもはやわからない。コメントだから。コメントに過ぎないから。疲れてきたなあ。「わかった」がなんなのかを書かなくてはここで言われていることがわからないだろうが書くのが面倒だ。また書きたいときに書こうと思う。キリがいいところで今日は終わろうと思う。なんだか飽きてきた、のかもしれない。]
やっぱり今日はここでやめ。飽きたから。だって今日、もういっぱい読んだから。休憩だ。続きをするかはわからない。やる気が出たらやるし出なかったらやらない。まあ、血肉にはなるだろう。なっていくだろう。
さすがに補足を推敲する元気はないので、明日とかにやるとまた補足したくなってしまうと思うので、変な表現とか誤字とかあればいい感じにしてくれると嬉しいです。すんません。
