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臨済録

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臨済録(臨濟錄、りんざいろく)は、中国唐代の禅僧で臨済宗開祖とされる[1] 臨済義玄の説法と言行を集めた語録である。1巻(明版『古尊宿語録』(1437)収録本は2巻)[2][3]。『四家語録』[注 1]の1つ。

日本では「語録の王」と呼ばれている[4]。

概要

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大正蔵収録『鎭州臨濟慧照禪師語録』の冒頭に「住三聖嗣法小師慧然集[5]」とあり、臨済の法嗣の三聖慧然が編纂したとしているが[6]、後に円覚宗演[7]によって宋代・徽宗 宣和2年(1120年)に編刻され、広く流布した。

北宋の馬防[8]による序文の「序」、弟子たちとの問答集の「上堂」、弟子への講義録の「示衆」、他の禅僧との問答集の「勘弁」、伝記の「行録」、「眞定十方臨濟慧照玄公大宗師道行碑」「臨濟正宗碑銘」の碑文2つ[9]の「塔記」から構成される。

本文の一部

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「示衆」から

儞若能歇得念念馳求心。便與祖佛不別。儞欲得識祖麼。秖儞面前聽法底是

你若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。你は祖仏を識らんと欲得(ほっ)するや。秖(ただ)你面前聴法底是れなり。

もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏[10]と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。


道流。約山僧見處與釋迦不別。每日多般用處。欠少什麼。六道神光未曾間歇。若能如是見得。秖是一生無事人。

道流、山僧が見処に約せば、釋迦と別ならず。毎日多般の用処、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)する。六道の神光、未だ嘗て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、祇是れ一生無事の人なり。

弟子たちよ、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別のものではない。現在のこの日々のはたらきに何の欠けているものがあろうか。この六根を通じての自由な輝きは、一瞬でもとぎれたことはない。もし、このように徹見できれば、これこそ一生大安心の人だ。


道流。儞欲得如法見解。但莫受人惑。向裏向外。逢著便殺。逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脫。不與物拘。透脫自在。 [11]

道流、你如法に見解せんと欲得(ほっ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏(うち)に向い外に向って、逢著(ほうじゃく)せば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得、物と拘(かかわ)らず、透脱自在なり。

諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、そうして始めて解脱することができ、なにものにも束縛されず、自在に突き抜けた生き方ができるのだ。


問。如何是真佛.真法.真道。乞師開示。師云。佛者。心清淨是。法者。心光明是。道者。處處無礙淨光是。

問う、如何なるか是れ真仏真法真道。乞う開示を垂れたまえ。師云く、仏というは心清浄是れなり。法というは心光明是なり、道というは処処無碍浄光是れなり。

問い、「真実の仏、真実の法、真実の道とはどんなものですか、どうぞお示しください。」師は言った、「仏とは心の清浄さがそれ。法とは心の輝きがそれ。道とは自在に照らす清浄光に満ちている一切処。である」


「上堂」から

上堂。僧問。如何是第一句。師云。三要印開朱點側。未容擬議主賓分。問如何是第二句。師云。妙解豈容無著問。漚和爭負截流機。問如何是第三句。師云。看取棚頭弄傀儡。抽牽都來裏有人。師又云。一句語須具三玄門。一玄門須具三要。有權有用。汝等諸人。作麼生會。下座

上堂、僧問う。如何なるか是れ第一句。師云く、三要印開して朱點側(そばだ)つ、未だ擬議を容れずして主賓分かる、問う。如何なるか是れ第二句。師云く。妙解豈に無著の問を容れんや、漚和争(いか)でか截流の機に負(そむ)かん。問う、如何なるか是れ第三句。師云く、棚頭に傀儡を弄するを看取せよ、抽牽都来(すべ)て、裏に人有り。師又云く一句語に須らく三玄門を具すべく、一玄門に須らく三要を具すべくして、権あり用あり。汝等諸人、作麼生か会す。と云って下座す。

上堂すると、ある僧が問うた、「師の禅の第一句はどういうのですか。」師、「三要の印を紙に捺してから印を持ちあげると、と朱の一点一画がくっきりと現れ、そこには憶測をさしはさむ余地もなく主体と客体とが歴々と建言する。」「では第二句は?」師「文殊菩薩にも比すべき我が絶妙な見地は、あの無著の問を寄せつける余地もない深遠なものだが、それが方便として発揮されると、水の流れを断ち切る名剣のはたらきを裏切ることのない鋭さを示す。」「では第三句は?」師、「よく見るがいい、舞台の人形がいろいろの演技をするのは、みな舞台裏であやつる人がいるのだ。」また師は言った。一句の語には、三玄門が具割っていなくてはならず、一玄門には三要が具なわっていなくてはならない。そうであってこそ方便もあり、はたらきもある。さて皆の衆、ここをどう会得するか。」こういって座を下りた。

— 原文:SATデータベース(T1985_.47.0497a15 - a21)/入矢義高訳・訓読より、岩波文庫版)

版本

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  • 晦室師明編『続開古尊宿語要六巻』嘉熙2年(1238年)最古の『臨済録』刊本
  • 『比丘妙秀開版 臨済録』元応2年(1320年)日本初版 静嘉堂文庫に現存
  • 『五山版 臨済録』延徳 3年(1491年) 美濃正法寺版刊本
  • 『臨済録 大正新脩大蔵経 巻47』底本は、永享9年(1437年)刊本
  • 『臨済録』(文禄(1592 – 1596年)から慶安(1648 – 1652年)年間の古活字版
  • 『鎭州臨済慧照禪師語録』貝葉書院(元禄12年(1699年))木版で原刊記に「元禄十二年六月吉日 花洛書林」

訳注

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  • 『臨済録』(朝比奈宗源訳注、岩波文庫、1935年、改版1966年) 元禄12年(1699年)刊本を底本に校訂を行った版。
    • 改訂新版 TTJ・たちばな出版 タチバナ教養文庫 2000年 ISBN 978-4813312185
    • 岩波版の復刻 一穂社[12] 2004年。
  • 『臨済録―附現代語訳』(古田紹欽訳註、角川文庫、1962年)、文庫での最初の現代語訳
  • 『禅の語録 10 臨済録』(秋月龍珉訳著、筑摩書房、1972年、新装版2016年)
  • 『臨済録』(山田無文著、禅文化研究所、1984年、新版2001年)
  • 『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年→ワイド版1991年)ISBN 978-4003331019
底本は1120年刊の宗演重開本(原本は現存しない)を祖本とする通行本。
柳田聖山訳本
  • 『訓駐 臨済録』(柳田聖山訳、其中堂[13]、1961年) 底本は『続開古尊宿語要』
  • 『佛典講座30 臨済録』(柳田聖山訳、大蔵出版 1972年、新装版2008年) 底本は大正蔵所収、永享復刻元刊本。
  • 『世界の名著続3 禅語録』(柳田聖山訳、中央公論社 1974年、のち中公バックス)『天聖廣燈録』(1036年)
    • 元版「臨済のことば―『臨済録』口語訳の試み―」(柳田聖山訳、禅文化研究所紀要第3号 1971年) 底本は『天聖廣燈録』(1036年)
  • 『臨済録』(柳田聖山訳、中央公論新社・中公クラシックス、2004年)『四家録』(南京図書館蔵本)
上記はテキスト探求の成果を反映し、それぞれ異なった底本で訳注を行っている。

関連書籍

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参考文献

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  • 伊吹敦『禅の歴史』(法蔵館、2002年)、68頁
  • 『禅学大辞典』(大修館書店、1978年)、1296頁

注・出典

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注釈

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  1. ↑ 四家語録 6 巻とは馬祖道一(709 - 788年)・百丈懐海(749 - 814年)・黄檗希運(? - 850年)・臨済義玄(? - 867年)の四代語録の集成本。北宋初年の単行本『臨済録』、宋代版『四家録』、これらを収録した『天聖広灯録』(景祐3年、1036年)。他に黄龍慧南校訂本『四家語録』(1085年)があったとされる(各・原本は現存しない)。明版『四家録』(南京図書館蔵、1363年)、明版『四家語録』(万暦35年、1607年)、さらに日本復刻版(慶安元年、1648年)に受け継がれた。

出典

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  1. ↑ 柳田聖山は、臨済自身が新規に臨済宗を樹立したわけではないとしている。/『南院慧顒―中国臨済禅創草時代に関する文献資料の総合整理、覚書その二―』禪學研究 50号、1960-02-20 p.91
  2. ↑ 大正蔵に収録されたテキストは明版『古尊宿語録』の永享9年(1438年)復刻版を底本として、増上寺報恩蔵明版古尊宿語録、宮内省図書寮本、慶安2年本、延徳3年本の4種で対校したもの。題名は『鎭州臨濟慧照禪師語録 (No. 1985 慧然集) in Vol. 47』(SATデータベース/T1985_.47.0496b12)。
  3. ↑ 邢 東風「元刊本『臨済録』について」東アジア仏教学術論集 巻6, p.107-170, 発行日 2018-01 p.142-143
  4. ↑ 東嶺円慈の『五家参詳要路門』文政10年(1817年)跋、第一の「臨濟宗戰機鋒論親疎爲旨」に、「是故古來以本録稱録中之王。」(是の故を以て古来本録を録中之王と稱す)(SATデータベース/T2576_.81.0607a11)とある。/柳田聖山『臨済録ノート (続) ―中国臨済禅創草時代に関する文献資料の総合整理の覚書 (その五)―』禪學研究 56号 p.1-19
  5. ↑ 三聖に住する嗣法小師慧然集す
  6. ↑ 柳田聖山は、「この編號が果して最初から存したかどうかは問題であり、少くとも現形の如き臨済録のすべてを三聖の編集とすることはできまいが、鎭州に於ける臨済の上堂と示衆が始めて(ママ)筆録された時、恐らく彼がこれに關係していたであろうことは推定され得ることであり、また古くよりこの様に考えられていた様でもある。」と述べている。/『臨済録ノート ―中国臨済禅創草時代に関する文献資料の総合整理、覚書その四―』禪學研究 52号 1962.03 P.60
  7. ↑ 北宋末の禅僧で、『補続高僧傳』巻二十四 雜科篇 冒頭に伝記『宋 圓覺演公傳』がある。「宗演。河北恩州人。姓崔氏。元豐滿禪師弟子。唱雲門之道者也。法貌脩整。持守嚴密。宣和中。徽宗詔入內庭說法。賜紫方袍。」(宗演は河北恩州人で、姓は崔氏である。元豐滿禪師の弟子で、雲門之道者と唱也。法貌は整を脩し、嚴密を持守す。宣和年間中、徽宗詔し入内庭説法し、紫方袍を賜る。)とあるが、生没年等の記事はない。なお度々間違われる円覚寺派管長であった釈宗演とは違う。
  8. ↑ 馬防については、大正蔵収録の臨済録本文の直前に置かれた序文の冒頭にその肩書『延康殿學士金紫光祿大夫眞定府路安撫使兼馬歩軍都總管兼知成徳軍府事』とあるが、所伝は知られていない。
  9. ↑ 碑文が収録されたのは、享保12年(1727年)に無著道忠 (1653 – 1745年)が校訂刊行したもので、徳川時代を通じて、臨済録の定本として最もすぐれたものとされる。/『臨済録ノート (続)』1968 p.13下
  10. ↑ そふつ、われわれの父祖である仏。この頃多く用いられた術語。入矢義高はそのまま「祖仏」としているが、柳田聖山は「シャキャムニ仏陀」と訳している。(『臨済録(臨済のことば)』)
  11. ↑ 『臨時録』にある説法の中で最もよく知られる一段。(柳田聖山『禪』-『佛教の思想』収録p.183、上山春平・梶山雄一編、中公新書)
  12. ↑ いっすいしゃ 株式会社一穂社 東京都台東区浅草橋のオンデマンド出版社
  13. ↑ きちゅうどう、合名会社 其中堂(屋号は 書林 其中堂)、京都市中京区寺町通にある仏教書専門書店

外部リンク

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