大豊町
| おおとよちょう 大豊町 | |||||
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| 国 |
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| 地方 | 四国地方 | ||||
| 都道府県 | 高知県 | ||||
| 郡 | 長岡郡 | ||||
| 市町村コード | 39344-4 | ||||
| 法人番号 | 4000020393444 | ||||
| 面積 |
315.06km2 | ||||
| 総人口 |
2,614人 [編集] (推計人口、2026年9月1日) | ||||
| 人口密度 | 8.3人/km2 | ||||
| 隣接自治体 |
香美市、長岡郡本山町 徳島県三好市 愛媛県四国中央市 | ||||
| 町の木 | スギ | ||||
| 町の花 | フクジュソウ | ||||
| 町の鳥 町の日 |
ヤマガラ 1月15日 | ||||
| 大豊町役場 | |||||
| 町長 | 下村賢彦 | ||||
| 所在地 |
〒789-0392 高知県長岡郡大豊町津家1626番地 北緯33度46分07秒 東経133度38分35秒 / 北緯33.76856度 東経133.64294度座標: 北緯33度46分07秒 東経133度38分35秒 / 北緯33.76856度 東経133.64294度 ![]() | ||||
| 外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
| ウィキプロジェクト | |||||

大豊町(おおとよちょう)は、高知県長岡郡に属する町である。高知県北東部、四国山地の中央部に位置し、北は愛媛県四国中央市および徳島県三好市、東・南は高知県香美市、西は長岡郡本山町に接する。町域は東西約32 km、南北約28 km、総面積315.06 km²で、町のほぼ中央を吉野川が流れる[1]。
町域の大部分を急峻な山地が占め、標高は約200 mから1,400 mを超える。平坦地は少なく、耕地は総面積の約1.1 %にとどまり、集落や農地は吉野川とその支流の谷沿い、河岸や山腹の緩斜面などに分散している。こうした地形は町の農林業、集落形成、交通網、防災などに大きな影響を与えてきた[1][2][3]。
古くは「豊永郷」と呼ばれた地域を含み、四国山地を越えて土佐と阿波・伊予を結ぶ交通路が発達した。江戸時代には立川を通る道が土佐藩主の参勤交代路として利用され、近代以降も国道32号、土讃線、高知自動車道など、高知県中央部と四国北部を結ぶ交通路が町域を通っている[1][4]。
町内には国宝の豊楽寺薬師堂、国の特別天然記念物の杉の大スギ、国の重要文化財の旧立川番所書院、重要有形民俗文化財の土佐豊永郷及び周辺地域の山村生産用具などが所在する。また、二段階の発酵工程を特徴とする後発酵茶「碁石茶」の主要な伝承地として知られる[1][5][6][7]。
一方、20世紀後半以降は人口減少と高齢化が急速に進行した。1960年の国勢調査人口18,231人に対し、2020年には3,252人となり、65歳以上の人口は1,909人、高齢者比率は58.7 %に達した。町の2026年8月時点の人口は2,816人、65歳以上人口は1,722人であり、人口減少への対応は町政の主要課題となっている[8][9]。
地理
[編集]
大豊町は、高知県北東部、四国山地の中央部、吉野川中流域に位置する。町域は東西約32 km、南北約28 km、面積315.06 km²に及び、北は愛媛県四国中央市および徳島県三好市、東から南は香美市、西は本山町に接する。高知市からは約40 kmの距離にあり、高知県の市町村では愛媛県と徳島県の双方に接する位置にある。町域の約88 %を林野が占め、集落は吉野川およびその支流沿いを中心に、標高約200 mから850 mの急傾斜地に散在している[1][10]。
町のほぼ中央を吉野川が流れ、その支流が周囲の山地を深く刻んでいる。平坦地に乏しい山村である一方、吉野川とその支流によって形成された河谷は古くから四国山地を横断する交通路として利用されてきた。このため大豊町では、山地による隔絶性と、河谷を介した交通の結節性という一見相反する地理的性格が併存している。近世の北山道、近代以降の道路・土讃線、現在の国道32号や高知自動車道などが町域を通る背景にも、この地形条件がある[1][11]。
地形
[編集]石鎚山系と剣山系が交錯する急峻な山岳地域に位置し、町内の標高は約200 mから1,400 m、平均標高は約450 mとされる。町南東部の梶ヶ森は標高1,399.6 mに達し、このほか奥工石山、奥神賀山、カガマシ山、野鹿池山、三傍示山、笹ヶ峰など1,000 mを超える山々が町域およびその周辺に連なる[1]。
大豊町を含む吉野川上流域では、吉野川本流とその支流によって深く開析され、谷底と山地との高度差が1,200 m前後に及ぶ急峻な地形を呈する。吉野川と支流による長期的な侵食によって深いV字谷が発達し、まとまった平坦地は河川沿いの狭い谷底平野や河岸の緩斜面などに限られている。そのため町域315.06 km²に対して耕地は約1.1 %にすぎず[注釈 1]、多くの農地は山腹を利用した棚田や傾斜畑として形成されてきた。山地を耕作地として利用する必要があったことが、八畝などに代表される棚田景観を形成する一因となった[1][10][12]。
町南東部の梶ヶ森は標高約1,400 mで、周辺は梶ヶ森県立自然公園に指定されている。山頂周辺には草原が広がり、吉野川流域の山地や太平洋方面を望むことができるほか、中腹には龍王の滝、定福寺奥の院などが所在し、急峻な山岳地形と豊富な降水によって形成された自然景観がみられる。梶ヶ森では谷間に雲が滞留して雲海が形成されることもある[2][7]。
地質
[編集]大豊町は西南日本外帯を構成する複数の地質帯にまたがる。高知県の地質区分では、概ね御荷鉾線より北側に三波川帯、南側に秩父帯が分布するとされ、その境界周辺には御荷鉾緑色岩類などが分布する。吉野川沿いを含む町域北部から中央部には、三波川帯を構成する泥質片岩、砂質片岩、珪質片岩、塩基性片岩などの結晶片岩類が広く分布する。三波川帯は低温高圧型の変成作用を受けた岩石からなる日本を代表する広域変成帯であり、四国では東西方向に長く延びている。また、大杉周辺などには、もともと海底火山活動によって形成された玄武岩質岩などを起源とする御荷鉾緑色岩類も分布する[10][12]。
南小川流域などでは三波川帯と秩父帯、御荷鉾緑色岩類が近接し、断層・構造線に伴う岩盤の破砕が著しい地域がある。林野庁は南小川地区について、三波川結晶片岩や御荷鉾緑色岩からなる基盤岩が強く破砕され、大規模な山腹崩壊や地すべり性崩壊を生じやすい地質構造をもつとしている。こうした地質条件は、大豊町に地すべり地が多く分布する重要な地質学的背景となっている。町内の地すべり地では現在も地質学・防災学上の研究が行われている。岩原のトウジ山を対象とした2023年の研究では、珪質片岩・塩基性片岩・泥質片岩の分布や褶曲構造、開口割れ目などと斜面変動との関係が調査されており、大豊町は三波川帯における地すべり・深層崩壊研究の対象地域の一つともなっている[11][13][14]。
河川・水系
[編集]町域の中心的な水系は吉野川水系である。吉野川は町域を東流し、周囲の山地から多数の支流を集めながら徳島県方面へ流れる。町南部から流れる穴内川は磯谷付近で吉野川に合流し、このほか北部の立川川、大田口付近の奥大田川、梶ヶ森周辺から流れる南大王川、国道439号沿いを流れる南小川などが吉野川へ注ぐ[1][7][10]。
これらの河川は町内に深い谷を形成し、集落・農地・道路の配置を大きく規定してきた。現在の主要交通路でも、国道32号やJR土讃線などは吉野川・穴内川沿いの比較的通行可能な河谷を利用しており、支流沿いにも道路と集落が連なる。吉野川は集落を隔てる障壁となる一方、歴史的には渡船や物資輸送に利用され、人々を結び付ける交通路でもあった。また、水田への灌漑、漁撈など地域住民の生活とも深く関係してきた。現在もアユ・アマゴなどの釣りやラフティングが行われ、河川は生活・産業・観光の各面で大豊町を特徴付ける自然資源となっている。[1][7][10][11][15]。
土地利用・集落
[編集]大豊町では町域の88.0 %が林野を占める一方、平坦地が非常に少ないため、集落は吉野川および支流沿いの標高約200 mから850 mにかけて散在している。現在の町域に一つの大きな市街地が連続して存在するのではなく、河谷や山腹に多数の小規模な集落が点在することが、大豊町の集落構造の大きな特徴となっている[8]。農地も同様に分散しており、谷底のわずかな平坦面や山腹の緩斜面を利用して水田・畑地が造成されてきた。急傾斜地では棚田が発達し、八畝などでは斜面上に耕地と民家が階段状に分布する景観がみられる。こうした棚田や傾斜畑は、平坦地の乏しい自然環境に適応して農地を確保してきた山村の土地利用を示している[1][11]。
山腹集落の存在は、単なる景観上の特徴にとどまらない。標高差の大きい広大な町域に小規模集落が分散しているため、道路、公共交通、学校、医療・福祉、情報通信、防災などの生活基盤を広範囲に維持する必要がある。大豊町における人口減少・高齢化の問題は、人口規模だけではなく、315 km²余りの山地に集落が分散しているという地理的条件と不可分の問題となっている。町の総合計画でも、標高800 m付近まで民家が点在する山村としてこの集落構造が取り上げられている。[1][16][17]。
気候
[編集]大豊町は太平洋側の多雨地域に属する一方、標高差が大きいため、吉野川の河岸と山腹、低地と山地などで気象条件に大きな差が生じる。町によれば年平均気温は約14 ℃で、夏季は高知平野と比較して冷涼である一方、冬季には積雪がみられる。年間降水量は場所によって3,000 mm程度に達する[1][10]。
大豊町に隣接する本山町の気象庁「本山」地域気象観測所の1991―2020年平年値では、年平均気温は14.2 ℃、年間降水量は2,892.3 mmである。降水量は特に暖候期に多く、7月452.6 mm、8月410.1 mm、9月426.9 mmとなっており、梅雨期から台風期に降水が集中する特徴がみられる。大豊町内では標高・地形による地域差が大きいものの、嶺北地域が全国的にも多雨な山岳地域であることを示している[18]。
多雨の主因の一つは、太平洋から流入する暖湿な空気が四国山地にぶつかり、地形性上昇によって大量の降水をもたらすことにある。豊富な雨は森林や河川、水田などを支える水資源となる一方、急峻な地形や破砕された岩盤と組み合わさることで、地すべり、山腹崩壊、土石流などを発生させる要因ともなっている。大豊町では、豊富な水資源と土砂災害の危険性が同一の自然条件の表裏をなしている[3][11]。
地すべり・災害
[編集]大豊町は古くから地すべりの多発地域として知られている。中国四国農政局によれば、幕末の安政南海地震の際には現在の怒田・八畝地区で地すべりが発生し、南大王川まで土砂が流出したとの記録がある。また1945年9月の台風時には町域各地で多数の地すべりが発生し、1954年9月の台風では208か所、計36 haに及ぶ崩壊・地すべりが生じたとされる[11]。1966年5月には小川地区で大規模な山崩れが発生し、国道32号と国鉄土讃線がともに不通となった。さらに1972年の岩原川・赤根川流域、1981年の岩原トウジ山、1998年の怒田・八畝地区などでも地すべりが発生している。急峻な斜面に道路・鉄道・集落・農地が近接する大豊町では、斜面変動が直接生活基盤の寸断へつながる点に特徴がある[11]。こうした地すべりに対し、国・県による大規模な防止事業が長期間実施されてきた。「高知三波川帯地区」では中村大王上・桃原・西桃原などを対象に、排水路、水抜きボーリング、集水井、排水トンネル、アンカー、鋼管杭などによる対策が行われた。現在も川井地区などには地すべり防止区域があり、地下水位計、孔内傾斜計、地表伸縮計などによって斜面変動が監視されている[19]。
豪雨による山腹崩壊・土石流も繰り返されている。2014年8月の台風12号・11号では町内の多くの地点で総雨量約900 mmに達し、道路寸断によって7地区が孤立した。2018年7月豪雨では立川川、行川、栗ノ木川流域などで多数の大規模崩壊・土石流が発生し、高知自動車道の橋梁が流失・落橋したほか、町道の寸断によって孤立集落が発生した[20][21]。
このため吉野川流域では現在も直轄砂防事業が続けられており、大豊町内では南小川流域などに砂防堰堤や地すべり対策施設が整備されている。2024年度の事業計画にも、怒田八畝地区の地すべり対策や境谷、佐賀山川などの砂防施設が位置付けられている。地すべり・土砂災害への対応は、大豊町では災害対策の一分野にとどまらず、山間集落と広域交通網を維持するための基礎的な土地管理となっている[22]。
主要な地形
[編集]- 主な山
- 主な峠
河川
[編集]- 主な川
- 主な滝
隣接自治体
[編集]地名
[編集]町名一覧
[編集]旧大杉村
[編集]- 穴内(あなない)
- 磯谷(いそだに)
- 尾生(おう)
- 小川(おがわ)
- 葛原(かずらわら)
- 川口(かわぐち)
- 川口南(かわぐちみなみ)
- 式岩(しきのいわ)
- 杉(すぎ)
- 高須(たかす)
- 立川上名(たじかわかみみょう)
- 立川下名(たじかわしもみょう)
- 谷(たに)
- 津家(つげ)
- 中村大王(なかむらだいおう)
- 日浦(ひうら)
- 和田(わだ)
旧東豊永村
[編集]- 粟生(あおう)
- 筏木(いかだぎ)
- 岩原(いわはら)
- 大平(おおだいら)
- 大滝(おおだき)
- 川井(かわい)
- 立野(たちの)
- 中内(なかうち)
- 西川(にしがわ)
- 西峰(にしみね)
- 怒田(ぬた)
- 東土居(ひがしどい)
- 南大王(みなみだいおう)
- 八川(やかわ)
- 柚木(ゆのき)
- 八畝(ようね)
旧西豊永村
[編集]- 庵谷(いおのたに)
- 大久保(おおくぼ)
- 大砂子(おおすなご)
- 奥大田(おくおおた)
- 梶ケ内(かじがうち)
- 上東(かみひがし)
- 川戸(かわど)
- 黒石(くろいし)
- 佐賀山(さがやま)
- 連火(つれび)
- 寺内(てらうち)
- 永淵(ながふち)
- 中屋(なかや)
- 西久保(にしくぼ)
- 西土居(にしどい)
- 船戸(ふなと)
- 桃原(ももはら)
- 安野々(やすのの)
- 柳野(やなぎの)
旧天坪村
[編集]- 馬瀬(うまぜ)
- 角茂谷(かくもだに)
- 北川(きたがわ)
- 久寿軒(くすのき)
- 戸手野(とでの)
人口
[編集]| 大豊町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 大豊町の年齢・男女別人口分布(2005年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 大豊町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大豊町(に相当する地域)の人口の推移
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| 総務省統計局 国勢調査より | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国勢調査人口は1960年の18,231人から1975年11,018人、1990年7,760人、2005年5,492人、2015年3,962人、2020年3,252人へと減少している。特に高度経済成長期には人口減少が急速に進み、1960年から1975年までの15年間で7,000人以上減少した[8]。
年齢構成も大きく変化している。1960年には65歳以上人口が1,766人で総人口の9.7 %であったが、1990年には2,349人・30.3 %、2005年には2,788人・50.8 %、2020年には1,909人・58.7 %となった。高齢者の実数も近年は減少しているが、総人口の減少がそれ以上に進行しているため、高齢者比率は上昇してきた[8]。
人口減少の背景として、出生数の減少に加え、地域産業の低迷に伴う若年層の流出などを挙げている。2026年8月時点では総人口2,816人、世帯数1,758世帯、15歳未満人口150人、65歳以上人口1,722人となっている[8]。
将来推計人口で減少率は全国市区町村(2014年4月1日現在1741)中で5番目に大きいと予測されている。
健康
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
歴史
[編集]沿革
[編集]- 昭和
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 東豊永村・西豊永村・大杉村・天坪村が合併し大豊村が発足。大杉の「大」・豊永の「豊」をとって「大豊」と名付けられる。
- 1956年(昭和31年)9月1日 - 旧天坪村の一部(大字上穴内・樫谷・繁藤・北滝本および角茂谷の一部)が土佐山田町(現: 香美市)に編入される。
- 1972年(昭和47年)4月1日 - 町制が施行され、大豊町となる。
- 平成
災害
[編集]- 2014年(平成26年)8月9日 - 平成26年台風第11号の集中豪雨により被害。災害救助法の適用を受ける[23]。
先史・古代
[編集]現在の大豊町域では、四国山地の急峻な地形のため平野部に比べて遺跡の確認数が少ない。現在確認されている町内最古級の遺跡として葛原コウサキ遺跡があり、弥生時代の遺跡とされている。一方、縄文時代以前にさかのぼる遺跡は町内では現在まで明確には確認されていない。近隣では香美市繁藤の鴨古屋岩陰遺跡から縄文時代早期の遺物などが確認されており、吉野川上流・穴内川流域周辺では早い時期から人間活動が行われていたことが知られている[5]。
古代には、土佐国府と阿波・讃岐方面を結ぶ官道が現在の大豊町周辺を通ったと考えられている。『日本後紀』延暦16年(797年)には、土佐国に「吾椅」と「舟川」の2駅を設置したことが記されており、このうち舟川駅を現在の立川周辺に比定する説がある。後世に土佐と伊予を結ぶ主要な交通路となる立川周辺が、古代にも四国山地を越える交通経路の一部であった可能性を示す史料である[5]。
町西部の寺内に所在する豊楽寺は、寺伝では奈良時代に行基によって開かれたとされるが、その創建の詳細は明らかではない。現存する薬師堂は、平安時代後期の仁平元年(1151年)頃に建立されたと考えられ、現在は国宝に指定されている。薬師堂は四国地方に残る平安時代後期の仏堂建築として貴重であり、現在の大豊町域に中世以前から仏教文化が定着していたことを示す代表的な文化遺産となっている[7][24]。
中世
[編集]中世の現在の大豊町域については、連続した文献史料が少なく、その社会の全体像には不明な点も多い。しかし戦国時代には、後世に「豊永郷」と呼ばれる地域を中心に、豊永氏をはじめとする在地領主層が活動していたことが史料から確認できる。豊永地域には複数の城館跡も残り、本山氏や長宗我部氏など土佐国内の有力勢力との関係の中で地域社会が形成されていった[25]。
天正16年(1588年)に長宗我部氏が実施した検地の記録である「土佐国長岡郡殖田郷後山坪之村豊永地検帳」などからは、戦国末期の豊永地域の土地利用や村落構造を知ることができる。地検帳には多数の「名」や村が記載され、山間の限られた耕地では米だけでなく、ソバ、アワ、ヒエ、豆類、栗、茶などが栽培され、漆などの山地資源も利用されていた。急峻な山村であったことから、多様な作物や森林資源を組み合わせた生業が形成されていたと考えられている[5][25]。同地検帳では、豊永氏が多数の「名」を支配していたことも確認されている。長宗我部氏による土佐統一の過程で在地領主の所領関係が再編され、豊永氏も長宗我部氏の領国支配に組み込まれたとみられる。当時の地域の中心は現在の安野々、川戸、東土居付近にあったと考えられ、吉野川両岸の集落を中心に地域社会が形成されていた[5]。
また、天正2年(1574年)の豊楽寺修理に関する史料には長宗我部元親の花押が確認されているほか、讃岐国仁尾の人物名も記されている。これだけから当時の恒常的な交通路を断定することはできないものの、四国山地の内部に位置する豊永地域が、戦国期にも土佐国内だけで完結した地域ではなく、瀬戸内側を含む地域との何らかの人的・物的関係を有していた可能性を示している。
近世
[編集]関ヶ原の戦い後に山内氏が土佐国へ入封すると、現在の大豊町域も土佐藩領となった。江戸時代の町域は豊永郷を中心に、本山郷、甫岐山郷、上倉郷の一部から構成されていた。『土佐州郡志』などでは豊永郷は38村から構成される地域として記録されており、山間に多数の小集落が分散する地域構造がすでに形成されていた[5][26]。
豊永郷には大庄屋が置かれ、その下に庄屋、名本、老、組頭などが配置され、山間に分散する村々を統括した。大庄屋は年貢収納や治安維持、道路・橋梁などの管理、藩からの命令伝達などを担い、郷内行政の中心的な役割を果たした。山地に多数の村落が散在する豊永郷では、こうした郷単位の行政組織が地域社会を維持する重要な仕組みとなった[26]。
豊永郷の大きな特徴の一つが、阿波国・伊予国との国境に近いことであった。土佐藩は領国外への人や物資の移動を管理するため各地に番所を設け、現在の大豊町域には立川、奥大田、岩原、大久保、大砂子、西峰の6か所に口番所が置かれた。番所では往来する者の通行手形などを確認し、武器や物資の出入りを監視していた[26]。しかし、国境に番所が存在したからといって、阿波・伊予との往来が閉ざされていたわけではなかった。西峰口番所などの記録からは、阿波から山林労働者が入り、商人や住民が国境を越えて行き来していたことが確認されている。四国山地の尾根は藩領を分ける政治的な境界であると同時に、近隣山村同士の日常的な交流圏でもあった。こうした県境を越える交流は、後世の碁石茶をはじめとする物資流通にもつながっていった[5]。
なかでも立川を経て笹ヶ峰を越え伊予へ向かう道は、土佐と瀬戸内側を結ぶ重要な交通路となった。享保3年(1718年)、第6代土佐藩主山内豊隆がそれまで利用していた海路から陸路へ参勤交代経路を変更したことにより、立川を通る北山越えの道が藩主の参勤交代路として本格的に使用されるようになった。立川は土佐から伊予へ出る際の最後の主要な宿泊地となり、番所と藩主一行の休泊施設が整備された。現在残る旧立川番所書院は寛政年間(1789–1801年)頃に建てられたとされる。書院造の座敷を備え、藩主の参勤交代時には休泊所として用いられた。明治維新後は民間の旅館として使用された時期を経て、1973年に大豊町が取得し、翌1974年に国の重要文化財に指定された。交通路そのものが大きく変化した現在も、近世に大豊地域が土佐と瀬戸内側を結ぶ交通の要衝であったことを示す遺構として残されている[27][28][29]。
北山越えの道を利用したのは藩主一行だけではなかった。商人や旅人、金刀比羅宮などへ向かう参詣者も山を越え、豊永郷と伊予・讃岐方面との交流に利用した。大豊町で生産された茶類も瀬戸内側へ流通し、特に後に碁石茶は、瀬戸内地方で茶粥などに用いる茶として取引された。山地に囲まれた豊永郷は、地理的には隔絶性が高い一方、峠道を通じて四国北部の商品市場と結ばれていた。吉野川は地域を分断する障害であると同時に、人と物を結ぶ交通路でもあった。藩政期の記録には下土居、寺内、中屋、大久保などの渡しが記載されており、橋梁の少ない時代には渡船が対岸の集落を結んだ。河川、峠道、山腹の集落という組み合わせは、近世の豊永郷における人々の移動や物流を規定する重要な要素であった[5]。
農林業も近世の地域社会を支えた。耕地の少ない山村では米作だけで生活を成り立たせることは難しく、雑穀、豆類、茶などの栽培に加え、木材、木炭、楮、漆など森林や山地の資源を利用した生産が行われた。杣、木挽き、鍛冶、屋根葺き、楮加工など山村特有の技術も発達し、こうした生産活動に使用された用具は現在「土佐豊永郷及び周辺地域の山村生産用具」として2,595点が国の重要有形民俗文化財に指定されている[30]。
明治期
[編集]明治維新によって土佐藩が廃されると、豊永郷をはじめとする従来の行政制度も再編された。大庄屋制度など藩政期の地方行政組織は廃止され、戸籍制度、学校制度、地方行政制度など近代国家の制度が山間地域にも導入された。1889年(明治22年)の町村制施行では、現在の町域を構成する地域に東豊永村、西豊永村、東本山村、天坪村が成立した。東本山村は1918年(大正7年)に大杉村へ改称している[31]。
明治時代になると、近世の峠道に代わる近代道路の建設が進められた。1885年には高知から徳島方面へ向かう道路が国道として位置付けられ、1894年には新道が全線開通した。これによって笹ヶ峰を越える旧来の北山道は次第に幹線交通路としての役割を失い、吉野川沿いを通る現在の国道32号につながる交通軸が形成された[4]。
明治期の地域社会を大きく変えたものの一つが道路整備である。近世まで土佐と阿波・伊予を結ぶ交通は峠道を中心としていたが、明治政府の道路整備政策のもとで、高知から吉野川沿いを通って徳島方面へ向かう新道の建設が進められた。工事は1886年(明治19年)頃から本格化し、約8年をかけて1894年(明治27年)4月に全線が開通した。この道路は現在の国道32号へつながる主要交通軸の前身となった。新道建設は急峻な山腹を掘削する大規模な工事であり、路線選定をめぐって沿線住民の利害も交錯した。工事に囚人労働が用いられ、工事の進行に伴って仮監獄が移動したことも記録されている。山間部に近代的な車道を通すことは単なる道路改良ではなく、それまで徒歩や駄馬を前提としていた地域の空間構造を大きく変える事業であった[4]。
新道の開通後には荷馬車や人力車などが利用されるようになり、茶、葉タバコをはじめとする農林産物を地域外へ運び出すことが容易になった。逆に米、酒、塩、衣料品など地域外の商品も入りやすくなり、それまでの山村経済は市場経済との結び付きを強めていった。道路の開通は単なる移動時間の短縮ではなく、大豊地域の生産・消費・商業のあり方そのものを変化させた。もっとも、新道が開通しても吉野川を渡る橋がすぐに整備されたわけではなく、一部では渡船が引き続き重要な役割を担った。『大豊町史』は、荷馬車を荷物ごと渡船に載せて対岸へ渡したことを古老からの聞き取りとして記録している。道路交通と河川交通が併存した時期があり、その後、橋梁建設が進むにつれて渡船は次第に役割を終えていった[4]。
大正・昭和前期
[編集]大正期から昭和初期にかけて道路交通が発達した一方、大豊地域の交通を決定的に変えたのが鉄道の建設であった。高知県中央部と徳島県側を結ぶ鉄道工事が四国山地へ延び、1930年(昭和5年)6月に土佐山田―角茂谷間、1932年12月に角茂谷―大杉間、1934年10月に大杉―豊永間が相次いで開通した。さらに1935年11月には豊永―三縄間が開通し、高知と阿波池田方面が鉄路で結ばれた[4]。
鉄道開通は地域に大きな社会的反響をもたらした。角茂谷まで鉄道が延伸した際には多数の住民が駅周辺に集まり開通を祝ったという。鉄道によって高知市や阿波池田方面への移動時間は大幅に短縮され、住民の移動だけでなく、木材、木炭、茶、葉タバコなどの農林産物や日用品の輸送も鉄道へ移行した。土讃線の開通は大豊地域を県内外の商品・人的流通へ一層強く組み込む契機となった[4]。
鉄道建設は、近世以来の交通体系を大きく変化させた。かつての北山道や渡船が担っていた長距離交通・物流の役割は、明治期の新道を経て鉄道へ移り、吉野川沿いの駅周辺が新たな交通拠点となった。現在の大杉、豊永などの地区が町の交通上重要な位置を占める背景には、この近代交通網の形成がある[4]。
第二次世界大戦期には、大豊地域も人的・物的動員の影響を受けた。戦後には復員や食糧不足への対応、農地改革、新制学校の発足など全国的な社会改革が地域社会にも及び、その後の町村合併と高度経済成長による大きな社会変動へつながっていった[16]。
戦後と大豊村の成立
[編集]戦後間もない時期、現在の大豊町域には東豊永村、西豊永村、大杉村、天坪村の4村が存在していた。道路・教育・行政施設などをそれぞれの小規模自治体だけで維持することには限界があり、1953年(昭和28年)の町村合併促進法を背景として全国的に「昭和の大合併」が進む中、この4村でも合併協議が進められた。1955年(昭和30年)3月31日、東豊永村、西豊永村、大杉村、天坪村が合併して大豊村が発足した。「大豊」の名称は、大杉村の「大」と、東・西豊永村の「豊」を組み合わせたものとされる。旧村は地形的・歴史的なまとまりをそれぞれ有しており、新村の成立は、それまで別個の行政単位であった吉野川上流・中流域の山村を一つの自治体として統合する大きな転換であった[9][16][10]。
合併後も行政区域をめぐる調整が続き、1956年(昭和31年)には旧天坪村南部の5集落が旧土佐山田町へ編入された。この境界変更によって、おおむね現在の大豊町につながる町域が形成された。山地や河川によって生活圏が分かれる地域では、行政上の境界と住民の日常的な交通・経済圏が必ずしも一致しないことを示す出来事でもあった[9][16]。
高度経済成長と過疎化
[編集]大豊村成立後の地域社会を最も大きく変化させたのは、高度経済成長に伴う人口流出であった。1960年の国勢調査では現在の大豊町域に18,231人が居住していたが、若年層を中心に高知市や京阪神など都市部への人口移動が進み、人口は急速に減少した。町はその背景として、出生数の減少に加えて、農林業など地域産業の低迷と若者の町外流出を挙げている。人口流出は単純に住民数を減少させただけではなく、地域社会の構造そのものを変化させた。それまで農林業を担っていた若年労働力が減少し、山腹に点在する小規模集落では高齢化が進んだ。学校の児童・生徒数も減少し、商店や公共交通など生活サービスの維持も次第に課題となった。現在の大豊町にみられる人口減少・高齢化や学校統廃合などの背景には、高度経済成長期に始まったこの長期的な人口構造の変化がある[8]。
一方、戦後の交通環境は大幅に改善した。国道32号では狭隘区間や未舗装区間の改良が進められ、自動車交通が急速に普及した。鉄道利用は1960年前後をピークとして減少し、貨物・小荷物取扱いの廃止や駅の無人化などが進んだ。かつて地域交通の中心であった鉄道に代わり、自家用車と道路が日常生活の中心的な交通手段となっていった[4]。
町制施行以後
[編集]1972年(昭和47年)4月1日、大豊村は町制を施行して大豊町となった。しかし町制施行後も人口減少は続き、1970年に12,440人であった国勢調査人口は、1980年9,411人、1990年7,760人、2000年6,378人と減少した。人口の減少と並行して高齢化率も上昇し、大豊町は全国的にも早い段階から過疎化・高齢化の問題に直面する自治体となった[8]。
産業面では、農林業従事者の減少、農地の荒廃、林業を取り巻く経済環境の変化が進んだ。一方で、道路整備、山村振興事業、農業構造改善事業などが実施され、地域産業や生活基盤の維持が図られた。碁石茶についても20世紀後半には生産者が著しく減少し、一時は製造技術の消滅が危惧されたが、その後保存・継承活動が進められ、大豊町を代表する伝統食品として再評価されるようになった[5][32]。
20世紀末には高知自動車道の整備が進み、大豊インターチェンジが設けられたことで、高知市や四国中央市などとの自動車交通は大きく改善された。大豊地域では、古代の官道、近世の北山道、明治期の新道、昭和期の土讃線に続き、高速道路が新たな広域交通軸となった。交通手段は時代ごとに変化したが、四国山地を越えて高知県中央部と瀬戸内側を結ぶ経路上に位置するという大豊町の性格は、古代から現代まで一貫している[1][4][33]。
21世紀
[編集]21世紀に入っても人口減少が続き、国勢調査人口は2005年5,492人、2010年4,719人、2015年3,962人、2020年3,252人となった。2020年には65歳以上人口が1,909人となり、総人口に占める割合は58.7%に達した。高齢者人口そのものも減少へ転じる一方、若年・生産年齢人口の減少がさらに大きいため、高齢化率は高い状態が続いている[8]。
人口減少は教育施設の再編にも表れた。2009年には大豊中学校と大杉中学校を統合して大豊町中学校が設置され、2013年には大杉小学校、大田口小学校、大豊小学校を統合しておおとよ小学校が開校した。さらに2022年4月には両校を統合した義務教育学校「大豊町立大豊学園」が開校し、町内の義務教育は1校に集約された。こうした学校統廃合は、半世紀以上にわたる児童・生徒数減少に対応した地域社会再編の一例となっている[34][35][36]。
また、人口減少下で山間集落を維持するため、地域住民が生活サービス、産業、交流活動などを支える「集落活動センター」の整備も進められた。西峰、岩原、東豊永、穴内、立川などに活動拠点が設けられ、行政区域として一つの町になった後も残る旧村・集落単位の地域社会を基礎として地域づくりが行われている[37]。
災害と地域社会
[編集]大豊町の歴史は、急峻な地形と多雨な気候による災害とも深く関係している。洪水、地すべり、台風などが繰り返し記録されており、道路・鉄道・農地・集落が被害を受けてきた。山間に小集落が分散する大豊町では、道路が寸断されることが単なる交通障害ではなく、集落そのものの孤立につながるため、災害対策は地域社会を維持する上で重要な課題となってきた[3]。
2014年(平成26年)8月には台風12号と11号の影響による記録的な豪雨に見舞われ、町内の一部では総雨量が約900 mmに達した。道路の寸断によって7地区が一時孤立するなどの被害が発生し、8月9日には災害救助法が適用された。こうした豪雨・土砂災害への対応から、現在も町内では砂防施設や道路防災施設の整備などが進められている[38]。
政治
[編集]行政
[編集]町役場は大豊町津家1626番地に置かれている。町長は下村賢彦で、2024年12月に町長としての挨拶を公表している。町は人口減少、少子高齢化、地域活力の衰退を主要な課題として掲げ、「暮らし働ける環境づくり」「安心して元気に暮らせる地域づくり」「未来へつなげる土台づくり」などを政策の方向性としている[2]。
町章は「大豊」の「大」を図案化したもので1964年7月に制定された。町の鳥はヤマガラ、町の木はスギ、町の花はフクジュソウ、町の魚はアメゴで、町の自然環境や山村としての特色を反映した象徴として選定されている。
町長
[編集]- 現職町長
経済
[編集]産業構造
[編集]人口減少に伴い就業人口も長期的に減少している。町の過疎地域持続的発展計画によると、2020年の就業人口は1,682人で、2005年から15年間で641人減少した。農林業を中心とした第一次産業では高齢化や担い手不足、小規模経営化が進み、第二次・第三次産業についても人口減少に伴う市場縮小などが課題となっている[8]。
農業
[編集]急傾斜地が多く耕地が総面積の約1.1 %に限られるため、農地は棚田や傾斜畑として分散している。町は農業従事者の高齢化、農地の減少、担い手不足を課題としており、現在は町域を複数地区に分けて農地利用・農業経営の将来像を定める地域計画を策定している[39]。
伝統的な農産物・加工品として碁石茶のほか、銀不老豆、ユズなどが知られる。町内では山間地の自然条件を利用した農業が営まれ、食文化には半夏の日に食べるみょうが団子など、農作業の暦と結び付いた食品も伝えられている[40]。
林業
[編集]広大な山林を有する大豊町では林業が長く主要産業の一つであり、杉・檜などの森林資源の利用とともに、杣、木挽き、鍛冶、木炭生産など多様な山村生産が営まれてきた。こうした生産体系を伝える用具群が現在の豊永郷民俗資料館に保存され、そのうち2,595点が国の重要有形民俗文化財となっている[30]。
一方、戦後は林業従事者の減少と高齢化が進んだ。町の総合計画や過疎計画では、林業従事者の減少、森林管理の担い手確保、素材生産の維持などが課題として挙げられており、山林の維持管理は産業政策のみならず国土保全の面でも重要な課題となっている[8]。
第一次産業
[編集]林業
[編集]拠点を置く企業
[編集]教育
[編集]町内では人口減少に伴って学校の統合が進み、2021年度までは小学校1校、中学校1校であったが、2022年4月に両課程を一体化した義務教育学校大豊町立大豊学園が開校した。1年生から9年生までを通した一貫教育を行い、大豊学園では5年生までを前期課程、6年生以降を後期課程とする「5―4制」を採用している[36]。
2024年度の大豊学園の児童生徒数は123人とされる。児童・生徒数の減少は町の人口構造を直接反映しており、学校再編と同時に、地域住民が学校運営や教育活動に関わるコミュニティ・スクールの取り組みも進められている[42][43]。
義務教育学校
[編集]- 町立
令和4年4月1日、大豊町立おおとよ小学校、大豊町立大豊町中学校を統合。
施設
[編集]警察
[編集]- 高知東警察署(本署は高知市)
- 杉駐在所(長岡郡大豊町杉33番地4)
- 豊永駐在所(長岡郡大豊町東土居196番地13)
消防
[編集]医療
[編集]- 主な病院
郵便局
[編集]- 郵便番号
- 郵便番号は以下の通りとなっている。
- 大豊郵便局: 789-03xx、789-04xx、789-02xx、789-01xx、789-0392(役場専用番号)
通信・生活基盤
[編集]マスメディア
[編集]中継局
[編集]- 主な中継局
生活基盤
[編集]ライフライン
[編集]電力
[編集]ガス
[編集]交通
[編集]

大豊町は人口密度の低い山村である一方、高知平野と四国北部を結ぶ交通軸上に位置する。近世の北山越え、明治期の新道、昭和期の土讃線、戦後の国道32号・高知自動車道へと交通手段は変化したが、南北方向の広域交通路が町域を通るという地理的特徴は一貫している[4][44]。
鉄道
[編集]JR四国の土讃線が町内を通り、角茂谷駅、土佐北川駅、大杉駅、土佐穴内駅、大田口駅、豊永駅、土佐岩原駅の7駅が所在する。大杉駅は町中心部への玄関口であり、豊永駅は梶ヶ森方面、土佐岩原駅周辺は吉野川のアウトドア利用などの拠点となっている。
町内の鉄道は1932年の角茂谷―大杉間開通に始まり、1934年に豊永まで延伸、1935年には徳島県側との線路が接続された。開通後は町内だけでなく嶺北地域の旅客・物資輸送を担ったが、自家用車の普及と道路整備に伴って1960年代以降は利用が減少し、駅業務の縮小・無人化が進んだ。
- 四国旅客鉄道(JR四国)
路線バス
[編集]- 嶺北観光自動車 - 大杉駅と本山町・土佐町田井を結ぶ路線を運行している。高知大学医学部附属病院(南国市)発着便もある。
- 医大病院 - 領石 - 繁藤駅前 - 大杉駅 - 本山 - 北岸 - 田井
- ゆずバス - コミュニティバス
道路
[編集]町を南北に国道32号と高知自動車道が通り、大豊インターチェンジが設置されている。国道439号は町内から山間部を東西方向へ延びる。2024年4月時点で町内の国道32号延長は29,122 m、国道439号は22,724 m、高知自動車道は川之江―大豊側13,030 m、大豊―南国側10,830 mとされる[8]。
高知市から大豊インターチェンジまでは高知自動車道で約30分、国道32号では約40 kmとされ、北側の四国中央市や香川県方面からも高速道路または国道32号を介して結ばれている。こうした道路網は、歴史的に四国山地によって隔てられていた高知県側と瀬戸内側を結ぶ現在の主要交通路となっている[44]。
高速道路
[編集]国道
[編集]県道
[編集]- 愛媛県道・高知県道5号川之江大豊線 - 土佐北街道として参勤交代や金毘羅参りにも利用されていた歴史を持つ。
- 徳島県道・高知県道113号東祖谷山大杉停車場線 - 起点より国道32号交点にいたるまで国道439号と重複。
道の駅
[編集]文化財
[編集]豊楽寺薬師堂
[編集]豊楽寺薬師堂は大豊町寺内に所在する国宝で、仁平元年(1151年)頃の建築とされる。桁行5間、梁間5間、一重、入母屋造、こけら葺の仏堂で、平安時代後期の建築様式を伝える。1904年8月29日に重要文化財相当の指定を受け、1952年11月22日に国宝に指定された[7][24]。
旧立川番所書院
[編集]旧立川番所書院は立川下名に所在する国の重要文化財で、寛政9年(1797年)頃の建築とされる。土佐藩が土佐・伊予国境へ通じる街道に設けた立川番所の書院で、藩主の参勤交代時には宿泊所としても利用された。文化庁は、地方に現存する本格的な書院として価値が高いとしている[7][27][28]。
杉の大スギ
[編集]杉地区にある杉の大スギは、南大杉と北大杉の2株の巨大なスギからなる。1924年に国の天然記念物、1952年3月29日に特別天然記念物となった。文化庁は南大杉について国内最大級のスギとして価値の高いものとしており、大豊町を代表する自然文化財となっている[7][45]。
土佐豊永郷及び周辺地域の山村生産用具
[編集]豊永郷民俗資料館には、豊永郷を中心とする山村で使用された生産用具が保存されており、このうち2,595点が1982年4月21日に国の重要有形民俗文化財「土佐豊永郷及び周辺地域の山村生産用具」に指定された。杣、木挽き、鍛冶、屋根葺き、楮の皮剥ぎなどの道具を含み、山村における農林業・手工業と生活技術を体系的に示す資料群である[7][30]。
観光
[編集]
名所・旧跡
[編集]- 主な寺院
- 主な神社
- 主な史跡
- 旧立川番所書院(国の重要文化財) - 土佐藩主が参勤交代時に宿泊する宿所。現在、日曜・祝日のみ公開。
観光スポット
[編集]- 天然記念物
- 杉の大杉(推定樹齢3000年、国の特別天然記念物) - 日本一の大杉とされる。北側と南側にある二本杉であるが、根元が結合していることから「夫婦杉」と言われている。山下奉文は、この杉にちなんで自身の雅号を「巨杉」とした。また、少女時代の美空ひばり(当時・美空和枝)が1947年(昭和22年)、高知市内に向かう途中に本町で交通事故に遭い大怪我をした。現地で療養後に再訪し、日本一の歌手になることを大杉に誓った。隣接地に生前の楽曲3曲が聞ける歌碑がある。
- 龍王の滝(日本の滝百選) - 梶ヶ森への登山道中腹にあり、車で近くまでアクセス可能(駐車場あり、冬季は降雪のため見学不可の日もあり)。
- 公園
- レジャー
- 道の駅大杉 - 名産品販売と食堂が併設。そば粉100%の名物、「立川(たちかわ)そば」と「坦坦風立川そば」が食べられる。
- ゆとりすとパークおおとよ - 温室ハーブ園、芝生広場、コテージ、オートキャンプ場などあり。
- ひばり食堂[47]
- 梶ヶ森キャンプ場
- 生涯学習
集落活動センター
[編集]- 集落活動センター西峯
- 集落活動センター「絆の里・いわはら」
- 東豊永集落活動センター
- 集落活動センターあなない
- 集落活動センター そばの里 立川
食文化
[編集]大豊町の食文化は山間地域の農業と季節行事に密接に関係している。代表的な碁石茶のほか、町内で古くから栽培された豆類、山菜、ユズなどが利用され、農繁期を終えた「半夏」の日に作るみょうが団子なども伝えられている。こうした食品は、山間部における生産環境と地域社会の暦を反映したものとなっている[40]。
文化・名物
[編集]祭事・催事
[編集]- 主な祭事
- 福寿草まつり
名物・特産
[編集]出身関連著名人
[編集]
出身著名人
[編集]ゆかりの著名人
[編集]広報・公聴関係
[編集]町内放送(音声)
[編集]古くから町内に有線が整備され町民間の連絡、役場などからの広報伝達放送が行われ「ゆとりすと放送」として愛されている。
地域課題
[編集]大豊町では、人口減少、高齢化、若年人口の流出、農林業の担い手不足、公共交通・生活サービスの維持、集落機能の維持などが相互に関係する課題となっている。2026年に策定された過疎地域持続的発展計画でも、町内全域を過疎地域として捉え、持続可能な地域社会の形成と地域資源を活用した地域活力の向上を政策目標としている[8]。
一方で、町には吉野川と四国山地の自然環境、広大な森林、碁石茶をはじめとする伝統文化、国指定文化財、四国南北交通の結節点という地域資源が存在する。町の政策では、こうした資源を観光・産業・教育・地域づくりに結び付けながら、人口減少下でも生活基盤を維持することが課題として位置付けられている[2][8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 中国四国農政局の資料では、総面積約31,506 haのうち山林が約27,728 haを占めるのに対し、耕地は177 haとされている。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 “地勢・概要|大豊町 行政・暮らし”. www.town.otoyo.kochi.jp. 2026年9月28日閲覧。
- 1 2 3 4 “町長あいさつ|大豊町 行政・暮らし”. www.town.otoyo.kochi.jp. 2026年10月2日閲覧。
- 1 2 3 『大豊町史 近代現代編 第9章 災害と防災』。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『大豊町史 近代現代編 第5章 交通・通信』。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『国選択 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 四国山地の発酵茶の製造技術 碁石茶製造技術調査報告書』大豊町教育委員会、2025年。
- ↑ 『大豊町史 近代現代編 第2章 産業・経済』。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『大豊町史 古代近世編 第2章 五つの象徴』。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 『大豊町過疎地域持続的発展計画書』高知県大豊町、2026年。
- 1 2 3 “まちのあらまし|大豊町 行政・暮らし”. www.town.otoyo.kochi.jp. 2026年10月3日閲覧。
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- ↑ “定福寺の大賀蓮”. 大豊町. 2015年2月19日閲覧。
- ↑ 大豊町観光ガイド
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 公式ウェブサイト
- 大豊町 (otoyo.town) - Facebook
- 大豊町 - YouTubeチャンネル
- 大豊町観光開発協会
大豊町に関連する地理データ - オープンストリートマップ- 地図 - Google マップ
