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呂尚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呂尚
初代公
国名
在位期間 前1021年頃? - 前1000年
都城 営丘
姓・諱 姜尚、呂尚
子牙、牙
諡号 太公、武成王[1]
廟号 文武廟
生年 不詳
没年 不詳

呂 尚(りょ しょう、Lü Shang)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・軍師丁公邑姜の父、後にの始祖。

子牙[2]もしくは[3]とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる[4]太公。斉太公・姜太公の名でも呼ばれる。

但しかれの名・字には諸説が有り、例えば貝塚茂樹は『詩経』大明編より、字を尚父とし、尚は「尚父」の略称だと指摘している[4]。また、小竹史記では、諡を太公、名を、字をとしている[5]。実際に『荀子』『韓詩外伝』『説苑』『新序』『論衡』などいくつかの文献には「呂望」と記す例が散見する[6]

一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる[7]

生涯

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歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である[4]代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、西周初期の金文に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されてこなかった[8]2009年になって、山東省淄博市で発掘された西周の青銅器の銘文「祖甲斉公」が、斉国の祖と同一人物であると推定されている。

史記』斉太公世家では、東シナ海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業を補佐したとされている[4][9]。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市臥竜区)や申(現在の河南省南陽市宛城区)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという[4][3]。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する[2][3]

また周に仕える以前は帝辛(紂王)に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌(後の文王)のもとに身を寄せたと伝わる[9]。周の軍師として西伯昌の子の姫発(後の武王)を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ[10]。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる[11]

営丘に赴任後、呂尚は隣接する萊の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという[9]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[4]。また、斉は成王から黄河穆陵無棣に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた[12]。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという[12]

しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした[13]、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される[4]。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある[4][14]

春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った[15]。呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は代に重要視され、731年玄宗によって呂尚と前漢張良を祀る太公廟が各地に建立された[16]760年粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり[16]、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。また、古今の名将十人が唐代の史館により選ばれ、太公望と共に祀られた(武廟十哲)。782年徳宗の命により唐代の史館が新たに六十四人の名将を選出し、武成王廟に合祀された(武廟六十四将)。の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた[16]

『史記』における仕官の経緯

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初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅

呂尚が周の文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの説話が紹介されている。しかし、いずれの説話も信憑性に疑問がもたれている[17]

  • 文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣()ではなく人材(霸王の輔)を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 1]が待ちんでいた聖人である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、「太公望」と号した。3つの説話の中で一般に知られているのは、この説である[18]。陝西省宝鶏市陳倉区には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
  • 元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。
  • 呂尚は東方の海浜に隠棲していたが、周の臣下で旧知の仲である散宜生と閎夭の誘いで羑里で拘禁されていた文王に会おうとした。呂尚は帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、文王を釈放させた後、周に仕官した。

伝承

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呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた[3]。兵法書『六韜三略』は呂尚の著書とされたが、『六韜』(『太公兵法』)『三略』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国後期以降と考えられている[19]。また、呂尚は『太公金匱』『太公陰謀』の著者にも仮託されている。

前漢劉向が編集した『説苑』に収録されている軼事として、呂尚が周の武王に殷の遺民を処遇するよう説いた話がある。呂尚が挙げた例は、人を愛するならその家の屋根の上のをも愛するというものである。後世、「屋烏之愛」「愛及屋烏」を用いて偏愛を表すことが多い[20]

後秦王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻(馬氏)がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)[2]。『漢書』に収録された朱買臣の説話など、中国には類似するエピソードが多く存在する[21]

代の謝詔が著した『風月夢』第十回には「姜太公釣魚 願者上鉤」という句があらわれる[22]

逸話

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陰謀の祖

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周代の兵法書『孫子』用間篇には、呂尚が殷に出仕した経歴が、周のための諜報活動と解釈されている。また、漢代の思想書『論衡』が引用する『太公陰謀』の正文には、呂尚が童子に丹砂)を食べさせ、体を赤色に変え、「殷亡」の予言を流布させるよう教えたとある。殷の民は赤色の童子を天神と思い、権謀術数に惑わされた[23]。なお、明代の小説『封神演義』に収録された周之標の序文では、呂尚は「陰謀の祖」「兵家の祖」と見なされている[24]

弓と呪術

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周代の思想書『太公金匱』では、殷の諸侯である丁侯は周の武王に帰順せず。呂尚は丁侯の画像を描き、弓で射た。丁侯は重病を患い、占うと周人の呪いと知り、恐れて武王に降った。呂尚は甲乙の日に画像の頭の矢、丙丁の日に目の矢、戊巳の日に腹の矢、庚辛の日に股の矢、壬癸の日に足の矢を抜き、丁侯は病癒えた。呂尚は、これは丁侯が先に大義に背いたための諸神の罰であると宣言し、その言を聞いた異民族も恐れて帰順した[25](この逸話は、『封神演義』において「釘頭七箭書」で趙公明を呪殺する場面の原型でもある)。

神々の任命

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『太公金匱』では、大雪の中、二人の騎馬の御者が五台の車を引いて武王に謁見した。武王は怪しみ、呂尚は雪中のなきを以て聖者の来訪と判断した。呂尚の慧眼により、五車の中の聖者と二人の御者の真名を見破った。すなわち、四海の神(祝融句芒玄冥蓐収)と河伯(馮夷)、ならびに風伯と雨師(姨と咏)である。神々は驚嘆し、天命を奉じて周が殷を倒すのを助けるために来たと述べた。そこで呂尚は職位をもって諸神を任命した[26]。また、『史記』には始皇帝が東海を巡遊した際、古い祭祀に「斉の八神将」(天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主)の体系があり、これも呂尚の建立であると知られたと記されている。

尸解仙の伝説

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漢代の神仙伝記集列仙伝』では、呂尚は生まれながらにして睿智であり、存亡を予知する能力を有す。四十年をかけて殷の紂王の災厄を避け、さらに三年をかけて一匹の魚を釣り、その腹中に兵法書『玉鈐』を得た。後、文王は聖人を夢に見て、呂尚を訪ね、車に載せて周に帰した。殷周革命の際、呂尚は武王のために『陰謀』百余篇を作った。呂尚は霊芝を服食して体を修練し、二百年後に自らの死を告げた。しかし、そのには遺体がなく、ただ『玉鈐』六篇のみが在り、実は美しい天人となった[27]

『封神演義』における呂尚像

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明代の小説『封神演義』においては姜子牙(きょうしが)と称し、殷周革命を指揮する周の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場する。彼は元始天尊の弟子。師の命令で下山し、周を助けて殷を討ち、三百六十五人の神を封じる。澎湖県馬公市には、呂尚は封神の儀式を行った後に自分が封ぜられる地位が無くなったため、石敢當という魔除けの神様に変化したとする伝承がある[28]

姜子牙のレリーフマレーシアペラ州

姜子牙の仙術

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  • 雷法 - 道教での雷の法術。第16回では「掌心雷」を用いて五路神(五畜の精)を降伏し、第38回では「五雷正法」により龍須虎(の精)を降伏した。
  • 五鬼搬運法 - 風水での財を運送する秘術。第16回では五路神を駆使して土を運び、封神台を建造した。
  • 三昧真火 - 精・気・神をもって練り上げた非凡な火。第17回では眼・鼻・口から炎を噴き出し、玉石琵琶精(人間の姿)の正体を露わにした。
  • 水遁術 - 水を媒介とした高速移動。第18回では橋下の水を借りて殷の紂王の処刑から逃れた。
  • 土遁術 - 土を媒介とした高速移動。第18回では八百人の難民を四百先の西岐に一瞬で転送した。
  • 氷凍岐山 - 土築の高台にて禹歩の儀式を行い施術。第39回では岐山全体を氷結させ、殷の奸臣・費仲とその八千人の兵士を凍らせた。
  • 釘頭七箭書 - 陸圧道人より授けられた呪術。第48回では仙人趙公明藁人形を作り、毎日三度礼拝し、二十一日後に桑の弓と桃の矢で射て、呪殺した。
  • 北海の加護 - 元始天尊の宝貝「三光神水」によって強化された水盾術。第62回では北海を移し西岐城を覆い、羽翼仙(大鵬の精)の風の攻撃を防ぎ、海の障壁は風に応じて拡大した。

姜子牙の宝貝

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  • 封神榜 - 天帝三教の首領により編纂された名簿。命定まって死後に神となる三百六十五人が記される。第37回で元始天尊と南極仙翁より賜われ、弟弟子の申公豹に狙われた。第99回にて姜子牙が司祭として封神の儀式を執行し、五路神が建造した封神台に登り、三百六十五の新たな神格を授けた。
  • 打神鞭 - 八十四の符印を備えた硬鞭。封神榜の八部正神の運命を有する敵を打ち砕くことができる。第38回で元始天尊と南極仙翁より授けられる。
  • 四不相 - 元は元始天尊の乗騎である神獣。の体・麒麟の頭・の尾を持つ。第38回で元始天尊と白鶴童子より授けられる。
  • 杏黄旗 - 千の金色蓮華を現す防御型の宝貝。正式名称は「中央戊己杏黄旗」。第38回で元始天尊より賜わる。雲霄殷郊孔宣・呂岳らの強敵の攻撃を防いだ[29]
  • 斬仙飛刀 - 顔と翼を有する宝刀。異名は「斬将封神飛刀」。使用者が「宝貝よ、回れ」の呪文を唱えると、飛刀の目が白光を放ち、敵の魂を釘付けにする。第84回で陸圧道人より贈られる。変化の術を使う難敵・袁洪(の精)と妲己九尾狐の精)を斬首した[30]

絵画

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登場作品

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映画
ゲーム

脚注

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注釈

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  1. 太公とは、文王の祖父の古公亶父の別称。呂尚自身も斉の「太公」と呼ばれるため混同しないように注意が必要である。

出典

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  1. 新唐書』禮樂五
  2. 1 2 3 劉, 尹『文明の原点』、148頁
  3. 1 2 3 4 叢『中国五千年の物語』1巻、156-159頁
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 貝塚茂樹『アジア歴史事典 9巻 呂尚平凡社、1962年、313頁
  5. 司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳「斉太公世家第二」『史記〈3〉世家上』ちくま学芸文庫.1995.
  6. 中國哲学書電子化計劃「呂望」
  7. 平㔟隆郎「春秋」『中国史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2003年8月)、230頁
  8. 落合『古代中国の虚像と実像』、44-45頁
  9. 1 2 3 『史記』巻32、斉太公世家
  10. 平㔟(2005)、66頁
  11. 叢『中国五千年の物語』1巻、154頁
  12. 1 2 司馬遷史記 上平凡社中国古典文学大系〉、1968年、344-345頁
  13. 平㔟(2005)、378-380頁
  14. 竹内康浩「西周」『中国史 1』収録(世界歴史大系, 山川出版社, 2003年8月)、170頁
  15. 落合『古代中国の虚像と実像』、44頁
  16. 1 2 3 窪徳忠『道教の神々』(講談社学術文庫, 講談社, 1996年7月)、190頁
  17. 平㔟(2005)、378-379頁
  18. 平㔟(2005)、377頁
  19. 落合『古代中国の虚像と実像』、101,103頁
  20. 屋烏之愛 | スピーチに役立つ四字熟語辞典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス”. 情報・知識&オピニオン imidas. 2026年6月15日閲覧。
  21. 飯塚朗『故事遍歴 中国成語集』(時事通信社, 1982年11月)、9-10頁
  22. 「太公釣魚願者上鉤」大紀元
  23. 王充『論衡』恢国篇「武王伐紂、太公陰謀、食小児以丹、令身純赤、長大、教言殷亡。殷民見児身赤、以為天神、及言殷亡、皆謂商滅。兵至牧野、晨挙脂燭、奸謀惑民、権掩不備、周之所諱也、世謂之虚」
  24. 周之標『封神演義原序』「古多陰謀、道家所忌。子牙陰謀之祖也。其佐武王、純用殺伐、糾糾乎、桓桓乎、豈不自懼哉?蓋當年本以兵事開國、厥用在金、運數所至、不得已鷹揚鼓厲、玄鳥之祚忽諸而既也。田和為長諸侯、姜氏之族遂如僵禽。甚矣、天道惡陰謀也。乃後世談兵者、率祖子牙」
  25. 伊藤清司『中国の神話・伝説』筑摩書房、2026年、351-352頁。「太公望の弓」
  26. 伊藤清司『中国の神話・伝説』筑摩書房、2026年、352-354頁。「太公望の慧眼」
  27. 劉向『列仙伝』「呂尚者冀州人也。生而內智、預見存亡。避紂之亂、隱于遼東四十年。適西周、匿于南山、釣于溪。三年不獲魚、比閭皆曰:可已矣。尚曰:非爾所及也。已而、果得兵鈐于魚腹中。文王夢得聖人、聞尚、遂載而歸。至武王伐紂、嘗作陰謀百餘篇。服澤芝地髓、具二百年而告亡。有難而不葬、後子葬之、無屍、唯有玉鈐六篇在棺中云。呂尚隱釣、瑞得赪鱗。通夢西伯、同乗入臣。沈謀籍世、芝體煉身。遠代所稱、美哉天人」
  28. 窪徳忠『道教の神々』(講談社学術文庫, 講談社, 1996年7月)、60-61頁
  29. 冨士本昌恵『封神演義の基礎知識』パルコ出版、2018年、18-19頁。
  30. 冨士本昌恵『封神演義の基礎知識』パルコ出版、2018年、136-137頁。
  31. 尾形光琳筆「太公望図」京都国立博物館所蔵
  32. 1 2 平福百穂筆「太公望」三重県立美術館
  33. 「南画へのいざない」頼山陽史跡資料館-谷文晁筆『石番蹊跪餌図』広島県立歴史博物館蔵
  34. リライト小説であるにもかかわらず、「訳」と明確に印字されているが、事情理由は不明。

参考文献

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外部リンク

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  • 史記(繁体字中国語)巻32