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人質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

人質(ひとじち、英: hostage)は、交渉を有利にするために、人の身柄を拘束することや、拘束された人である。


現代では、人質外交(Hostage diplomacy)で国家が外国人を不当に拘束し、外交上の交渉カードや他国との囚人交換の道具とする例が増えている。 そのほか、身代金などの目的で拉致・誘拐し人質とする例、強盗もしくは立てこもり事件の現場に偶然居合わせて人質にされる人など、さまざまである。

近世以前の日本では借金の担保として人身を質入れすることや、誓約の保証として妻子や親族などを相手方にとどめておくこと、またその対象も人質と呼ばれた[1][2]。現代世界でも、公式には禁止されているにもかかわらず、発展途上国では借金の「担保」という名目で子供や家族が人質にされてしまうことがあり、弱者が違法で返済不能な利率の借金の契約をさせられた上に返済不能になり子供が性的搾取の対象にさせられてしまう、などということが発展途上国では現代でも起きている。(債務担保としての人質の節参照)。

歴史

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人質は基本的に「相手を怒らせれば、殺されてしまう可能性がある」という状態にあるからこそ意味を持つ。人質が生き延びられるか殺されるかは相手の気持ち次第だ、という状況にあるからこそ、「相手の気持ちを損なわないようにしなければ」と考え、約束破りや反逆を抑止する装置として機能する。そして、国と国の間でやりとりされた人質は、人質を差し出した側の国が盟約を破ったりすれば預け先の怒りを買い、「見せしめ」として殺されてしまう可能性があり、実際に殺された事例は枚挙にいとまがない。さらには、盟約を破らなくても、預け先の国の側が勝手に盟約を破り人質を殺してしまう可能性もある。

人質の置かれる処遇は、人質を預かる側の国家の度量次第であった。

古代ローマは、人質を厚遇して好印象を持たせた。人質の滞在先は慎重に吟味され元老院議員等の有力者の家でその子弟と共に学友としてローマ式の教育(リベラル・アーツ)を施され、留学生とも似た境遇となった。こうして厚遇された人質は親ローマ的な人物となり、帰国して指導階級となり、親ローマの立場を取ることで円満な外交関係が築かれる事は正にローマの望むところであった。更に人質時代に築かれた人脈は国と国の関係を潤滑にする。

古代の東アジアにおける「人質」は約束の「証(あかし)」である[3]。王権間の特別の修好結縁に際し、「盟」約にともなう国際的儀礼の一環として、王の近親の者を一時期提供する[3]。政治的手段の性質があり戦略的色彩が濃い[3]。人質を送ることは服属を意味するものではない[4]。人質が「保証」の意義をもつことは一般の質の目的と共通である[4]。

日本の戦国時代、人質は誓約の「証」とされ、人質となったのは当主の子息(男児)や当主の母親、妻などであった。なお、成人男性は基本、人質となることはなかった[5]。建前上は「証」と呼ばれたが、人質を預かるということは現実には、言外に「もし盟約を破ったり私に逆うなどして私を怒らせれば、いつでも人質を殺すぞ!」と(言葉にしなくても)その意味が分かる状況下に相手を置くことで、相手を(言外に)脅迫し、逆らう気持ちを削ぐ、という存在である。

江戸時代では、大名が江戸幕府(公儀)への忠誠の証として、自らとその重臣の家族を人質(「証人」)として、江戸の江戸藩邸や大坂、京都の屋敷に住まわせなければならなかった(大名証人制度)。

大名の重臣の家族まで人質(証人)として取ってしまう制度は寛文5年(1665年)に廃止されたが、大名自身の妻子を人質(証人)としてとる制度はその後も続いた。江戸幕府は、江戸周辺の関所で江戸から出る女を特に厳しく取り締まった。江戸に入る鉄砲と江戸から出る女を特に厳しく取り締まった幕府のこの政策を「入鉄炮出女」(いりでっぽうにでおんな)という。要するに、人質として確保した大名の妻や母が江戸から脱走しないように監視していたのである。

江戸時代を通して大名は、妻子を人質としてとられ続けた、と言ってよい。大名の妻子を人質としてとる制度を江戸幕府が(うかつにも)廃止したのは幕末の文久2年(1862年)閏8月22日のことであった。暴力を抑止し二百年以上の太平の世を実現していた抑止装置が外されたことで、いよいよ暴力が噴出することになった。

種類

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政府がとる人質

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フランスでは、プレリアル30日のクーデターの後、総裁政府はいわゆる「人質法(英語版)」の制定に動いた。これは反革命者の身内を拘禁し、官吏や軍人が処罰されるごとに人質を処罰するというものであった。

ナチス・ドイツは占領区域においてこの人質政策をとり、ユダヤ人やレジスタンスなどの人質を拘禁した。ドイツ側の人員が殺傷された場合には、これらの人質は殺害された[6]。ナチス・ドイツ占領下のフランスではこの措置が頻繁に行われ、マルク・ブロックやガブリエル・ペリ(英語版)など多数の人間が処刑された。これらの行為はハーグ陸戦条約50条で禁止されている。

1936年パレスチナのアラブ反乱 (1936-1939年)(英語版)の際に取られた人質。装甲列車の前車両に二人のアラブ人が乗せられている。

1936年パレスチナのアラブ反乱 (1936-1939年)(英語版)の際には、イギリス軍、アラブ側の攻撃を抑止するために人質をとった。

現代の人質外交

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現代の人質外交(Hostage diplomacy)は、国家が外交交渉や政治的・経済的な要求を有利に進めるため、自国内にいる外国人の身柄を不当に拘束(逮捕・監禁)し、取引の材料にする行為である。

特定の国と交渉したい場合、たとえば何ら罪のない、あるいは軽微な行為(たとえば、街頭でカメラを構えた、とか、ある施設の近くを通過した、など)を理由としてつかい、外国人をスパイ容疑などの口実で逮捕・拘束する(拘束された人が、拘束理由を尋ねても、理由は一切説明しない。説明する義務は無い、などとつっぱねる)。この人質を交渉材料として使い、相手国に自国の人間の釈放や、政策の変更、貿易・経済上の譲歩を迫る。

#人質外交の人質の例

テロリズムの交渉手法としての人質

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テロリズムは政治目的のために、暗殺や暴行、粛清などの直接的な恐怖手段に訴える主義のことであり[7]、(卑劣な各国政府と同様に)テロリズムもやはり交渉の材料・道具として人質を使う。「もし交渉相手が逆らえば、いつでも人質を殺せる」「もし仮に人質が殺されたら、それは交渉に応じない者の態度・対応が原因だ」という状況を作りだすことで、交渉を有利に運ぶ。テロリズムでは、要求相手と直接関係無い第三者を人質とするケースがしばしばある[8]。[注 1]

人質司法

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日本の刑事手続には人質司法(Hostage Justice)」と呼ばれる深刻な問題がある。これは、否認や黙秘を理由に長期勾留を続け、自白を事実上迫る運用を指す。起訴前に最長23日間も身柄を拘束され、しかも起訴前の保釈は認められない 、という制度が放置されてしまっている。こうした制度の実態は国際社会からも長年批判されている[9]。

実際には何も犯罪行為をしていない一般市民が、当局のずさんな捜査や、捜査員の思い込み(先入観)により一旦、当局により身柄を拘束されてしまうと、まるで人質にような状況になってしまい、数週間もの間、身体を解放しない、家族にも会えない、家族に1本の電話を入れることも、勤務先に1本の電話を入れることも拒絶される、という人権侵害状態に置かれてしまう。そうなると仕事も止まり、勤務先も、従業員がどこに行ってしまったか見当がつかなくなり、業務に大きな支障が生じる。日本の司法当局は、それを承知の上で、おかまいなしに、無実の人々の人権を侵害しつづける。

自分の身体を解放し自分の家族や勤務先の人々を安心させるためには、司法当局の不当な要求(「...という犯罪を行った」という内容をデッチあげた、当局が勝手に作成した調書に署名しなければならない状況に追い込まれる。犯罪をまったく犯していない善良な市民でも、数週間も拘束され、家族と電話すらできず、連日、朝から晩まで自分を犯人扱いする、頭の悪くて態度が悪く、脅し続ける捜査官に囲まれつづけていると、ともかく、とりあえずその悪質な捜査員から離れ、施設から離れて帰宅するために、捜査員がデッチあげた、「私は...という犯罪を犯しました」という趣旨の調書に署名せざるを得ない状況に追い込まれる。

このような日本の司法にみられるやりかたは、先進国ではきわめて珍しい、悪質なものであり、世界的には批判を浴びるようになってきている。

日本の司法のさらに悪質なところは、検察が証拠の捏造をするところであり、2009年の障害者郵便制度悪用事件(村木事件)では、日本の検察が捏造した証拠により、厚生労働省の局長の村木厚子が、実体のない障害者団体に偽の証明書を発行したという無実の容疑(虚偽有印公文書作成・同行使)で、大阪地検特捜部に誤認逮捕・起訴され、164日間に及ぶ不当な身柄拘束をされた[10]。

この事件があっても日本の検察の制度改善、体質改善は行われず、2020年には大川原化工機事件が起き、ふたたび日本の検察は証拠の捏造を行い、大川原化工機の役員の保釈が認められないまま約11ヶ月間にわたり勾留され、その間に勾留中だった元顧問が胃がんにより亡くなった。

犯罪事件における人質

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何かを要求している犯人が、交渉を有利に運ぶために人質を確保することはある。犯人が要求する内容は、政治的なことであったり、金銭であったり、自分の身の安全であったり、さまざまである。

空き巣狙いや強盗が犯罪に及んだものの、予想より早く警察に取り囲まれた場合など、偶然、現場に居合わせた人々を人質に取り、警察の介入を遅らせたり、治安部隊との戦闘に備えて人間の盾にするケースもある。

人質事件が発生した場合、当局は人質の生命を最優先に犯人側の要求を呑むか、人質に多少の犠牲が出ることを覚悟で犯人側の身柄拘束・殺害を試みるかの選択を迫られる。

債務担保としての人質

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近世以前の日本においては、主に借金などの債務について人身を担保として、債務不履行時には身売りなどを行ったり、債務弁済の履行まで妻子や親族などを相手方にとどめておいて使役などすることが行われ、この制度を人質と呼び、また、その対象となる人身も人質と呼ばれた。

徳川幕府は人身売買を厳禁としていたが、事実においては譜代奉公または年季奉公の形式をとってなされており、遊廓などへの身売りなども法律上は奉公の名義において許されたものであった。そもそも人質に至っては、一般的にこれを禁止する法律がなく、わずかに元禄御法式に「女房を妾奉公に出す者之類附女房を質物に置く者 死罪、取持候者同罪、女房を質物に置く者 二十里四方追放」とあり、女房の質入れを禁止するにとどまっていた。そのため、義太夫節の浄瑠璃正本の中には、女性の質入れを取り上げた例もある。人質と称してはいるが、債権者が身柄を押さえているものではなく、一種の人身抵当(江戸期の用語では『書入』)に他ならない。

債務不履行(質流)にあたっては、紀海音作『笠屋三勝二十五年忌』に「銀高四貫五百匁の質物には、其三勝(注.人名、借り手平左衛門の娘)霜月晦日過たらば、其方へ引取りて遊女奉公にやり成共、又女房になされう共、毛頭かまひ候はぬと、手形証文取ている(貸金四貫五百文の担保として、三勝を置くが、霜月末日(までに返済がなく)過ぎたときは、そちらで引き取ってもらって、遊女奉公に出そうとも、また、女房にしようとも、構わないとの証文をとっている)」とあって、その実情が窺い知れる。一方で、年季質物奉公人というものがあり、こちらは、債務のある間、貸主の元にあって、使役させられるものを言い、債務元本に利子を付すことができない点で書入れとはその性質を異にした[11]。

例

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政治的な人質の例

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人質が殺された例

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  • 古代エジプト時代、クレオメネスの母親や子供 ─ プルタルコスによると、古代エジプトのエジプト王プトレマイオスは、クレオメネスへの援助の条件として、クレオメネスの母(クラテシクレイア、Cratesicleia)と子供を人質として要求した。その後、クレオメネスがエジプトで死ぬと、プトレマイオスはクレオメネスの母や子を殺すように命じ、まず子供が殺され、次にクラテシクレイアが殺された[12]。
  • 古代ローマ、トゥリイとタレンタムの人質 ─ トゥリイ(Thurii)とタレンタム(tarentum)の人質は、ローマから逃亡しようとして失敗した後、紀元前212年に処刑された[13]。
  • 中世イングランド ─ 西暦876年にウェセックス王アルフレッドがウェアハム(Wareham)でヴァイキング軍と和平を結び、ヴァイキング側が人質を出した後、協定を破って拘束していた人質を殺した[14]。
  • 東三河の武士らの家族 ─ 東三河の武士は家族を駿河の今川家により人質としてとられていた。今川義元の死後、東三河の武士が松平元康(徳川家康)側に寝返ったことについて今川氏真が怒り、寝返った武士の家族ら13人の人質を殺すよう吉田城代・小原鎮実に命じ、13人は槍によって刺し殺された、と豊橋市『豊橋百科事典』「十三本塚悲話」に記されている。豊橋市の別の歴史資料『とよはしの歴史』では、この事件について、吉田城に人質として留め置かれていた東三河諸将の妻子を今川氏真が龍拈寺口で串刺しにした、と記し、年代については永禄四年(1561)ごろ、としており、人数については『三河国吉田名蹤綜録』の記述を基に、「10人の妻と3人の赤子」としている。
  • 奥平の人質(仙千代、虎之助、おふう) ─ 武田信玄の死後、徳川家康が作手の奥平貞能・貞昌父子を味方に引き入れたところ、怒った武田勝頼は天正元年(1573年)、奥平の人質(仙千代、虎之助、おふう)を処刑した。[15]
  • 浅井万福丸 ─ 浅井長政の嫡男。幼少時、越前の朝倉義景のもとで人質として過ごす。天正元年(1573年)、織田氏の攻撃により9月1日に小谷城が落城した後、羽柴秀吉が万福丸を受取ったが、織田信長の命令で殺された。
  • 波多野秀治の母(または叔母)─ 丹波の豪族・波多野秀治の降伏にともない人質(「証」)となった。波多野秀治が降伏の約束を反故にして再び織田信長と敵対したところ、織田信長により処刑されてしまった。

生き延びた例

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日本

人質外交の人質の例

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中華人民共和国
  • アメリカ政府の要請を受けてカナダ当局がファーウェイの孟晩舟CFOを逮捕された際には、中国共産党政府は孟晩舟を解放させるためにカナダ人の元外交官(マイケル・コヴリグ氏)と実業家(マイケル・スペイバ氏)の2人をスパイ容疑で拘束し、交渉カードとして使い、孟晩舟を解放すれば、マイケル・コヴリグ氏およびマイケル・スペイバを解放する、として交渉を進め、要求を飲ませた
  • 中国とオーストラリアの関係が悪化していた2020年、中国当局は、中国の国営テレビ(CGTN)のオーストラリア籍キャスター、成蕾(チェン・レイ)を拘束。オーストラリアが中国側の要求に屈し、豪中関係の改善が進んだ2023年10月に解放された。
  • 2010年の尖閣諸島沖漁船衝突事件の際、中国当局によりフジタの社員4人が一時拘束されたほか、2014年の反スパイ法制定以降、大手製薬会社のアステラス製薬の日本人社員を含む17人以上の日本人が根拠の不透明な容疑で身柄を拘束され、交渉のカードとして使われ続けている。
ロシア
  • ベルリンで暗殺事件を起こし終身刑で服役していたロシアの暗殺者 バディム・クラシコフや西側で服役中のロシア人スパイを解放させるために、ロシア側は、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙のエヴァン・ゲルシコビッチ記者をスパイ容疑などで不当拘束、また元米海兵隊員のポール・ウィランを拘束し、人質(交渉カード)として利用、2024年8月にロシア・ベラルーシと欧米5カ国(米・独など)の間で計24人の身柄が交換された。

人質事件とその人質の例

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関連する心理


関連する法律や慣習

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国際条約


各国の法律

各国で人質をとることを違法とする法律は一応制定されていることは多いが、各国の政府自体が他国の人々を人質にとるという非人道的な行為、犯罪行為を繰り返している。

  • イギリス ─ イギリス国王が議会で演説する際、与党の有力議員をパッキンガム宮殿に人質として拘留する慣習がある(議会派と王党派が戦ったイングランド内戦の歴史も参照)。→国王演説#人質

だがアメリカ政府は「米国の法律が適用されるのは米国国内だけだ。国外なら法律は適用されない」という解釈をし、アメリカ政府自体が法の網をかいくぐり、非道な行為をする傾向がある。グアンタナモ湾収容キャンプに700人超のイスラーム教徒を収容し、非人道的な扱いをしていたことは有名である。2014年には、ボウ・バーグダール(Bowe Bergdahl)軍曹を解放させるために、グアンタナモ収容者5人との交換の材料として使った。つまり、グアンタナモ湾収容キャンプに収容されたイスラーム教徒は人質としての側面があったということが後に分かった。

現代日本において人質をとる行為は『人質による強要行為等の処罰に関する法律』によって禁止されている。 だが、そもそも日本の司法自体が人質司法であり、国民を人質としてとり、やってもいない犯罪をやったと自白するよう強要している。


人質関連の交渉、救出部隊

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交渉

人質事件においては犯人に対して人質の解放や待遇改善を求める交渉も重視される。政治的要求の場合は犯人との間の仲介者や仲介者の支援者も重視される[18]。


人質救出作戦部隊

人質救出作戦を行う部隊名を挙げる。ただし、特殊部隊の多くは人質救出作戦を含めた様々な作戦を想定・遂行しており、それらすべてを挙げることは冗長となるため、主要な部隊名に限って羅列する。

ギャラリー

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脚注

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注

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  1. ↑ 民主主義国の政府を交渉相手とする場合、人質が無関係の第三者でも交渉カードとして使える。民主主義国における政権維持には、選挙の投票権を持つ有権者の気持ちこそが一番重要で、有権者の多数派は「人命こそが一番重要」と信じているので、民主主義国の権力者は「人命第一。人命を軽視するわけにはいかない。人質の生命が第一。」という姿勢を国民に対して見せ続けなければならない。もし人質の生命を軽視したりすると、有権者から強烈な反発をくらい、次の選挙で大敗し政権を失うので、それを避けようとする。だから民主主義国の政府を相手にする場合は、無関係の第三者ですら交渉上の「カード」として使える。
    一方、交渉相手が権威主義国の権力者の場合は、民主主義国とは異なり、権力者は有権者がどう思おうがあまり気にしていない。そもそも民意など無視すればよい、逆らう国民は殺してしまえばいい、と考えている。共産主義国では共産党独裁なので共産党以外の政党の候補者は立候補しないし、ロシアでも反対する政党が現れたらその被選挙権を奪って立候補を阻止すれば選挙は簡単に勝て、簡単に政権は維持できる、と思っている。つまり、権威主義国の権力者は、人命(人質)を軽視して有権者から嫌われても自分の政権は維持できると思っている。したがって権威主義国の権力者を交渉相手にする場合は、無関係の第三者を人質にとっても、交渉のカードとしてはほとんど機能しない。権威主義国の権力者相手の交渉カードとして機能する人質は、あくまで権力者が「自分にとって重要だ」と感じる人物である。

出典

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  1. ↑  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Hostage”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 13 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 801–802.
  2. ↑ 「人質」。コトバンクより2026年5月20日閲覧。
  3. 1 2 3 山尾(2003)
  4. 1 2 堀(1998)
  5. ↑ 『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P151
  6. ↑ 渡辺和行 1994, pp. 190–191.
  7. ↑ 「テロリズム」。コトバンクより2026年9月25日閲覧。
  8. ↑ 富田与 2005, pp. 151–152.
  9. ↑ “人質司法とは?否認で長期勾留が続く日本の現実と弁護士による防御戦略”. JIN国際刑事法律事務所. 2026年8月30日閲覧。
  10. ↑ “郵便不正・厚生労働省元局長事件(村木事件)”. 日本弁護士会. 2026年8月30日閲覧。
  11. ↑ 中田薫『徳川時代の文学に見えたる私法』岩波書店、1984年、27-32頁。ISBN 9784003316313。
  12. ↑ “The Life of Cleomenes”. 2026年9月25日閲覧。
  13. ↑ Simon Thijs (2016). “Hostages of Rome”. Athens Journal of History, Vol. 2, No. 3: 199–212.
  14. ↑ “Hostages, Political Instability, and the Writing of History c. 900–c. 1050 CE”. Medieval Worlds, Vol. 10, 2019: 151–176.
  15. ↑ “新城市・長篠城址史跡保存館「長篠城址史跡保存館展示解説」”. 2026年9月25日閲覧。
  16. ↑ メリグーノフ, セルゲイ・ペトローヴィッチ  梶川伸一訳 (2010), ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23) レーニン時代の弾圧システム (原著1924), 社会評論社,p.46-47.
  17. ↑ “徳川家康の人質時代(幼少期)”. 2026年8月30日閲覧。
  18. ↑ 富田与 2005, pp. 149.

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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