ガスライティングとは? 心理的虐待の手口と身を守る対策を解説
NPO法人マインドフルネス心理臨床センター理事長
公認心理師・臨床心理士・マインドフルネス講師。『やめられない!を手放すマインドフルネスノート』(日本評論社)、『子どものためのセルフ・コンパッション』(監修、創元社)。 小林亜希子の記事一覧
目次
現実をゆがめる「見えない支配」――。ガスライティングは、言葉や態度で他者の感覚や記憶を揺さぶり、自信を奪う心理的操作です。家庭や職場、政治やSNSなど、私たちの身近な場所でも静かに起こり得ます。この記事では、公認心理師である筆者がガスライティングについて解説します。
1.ガスライティングとは
ガスライティングとは、相手の記憶や感情を否定し、現実の認識をゆがめて「自分の判断に自信が持てなくなるよう仕向ける」心理的操作のことです。
例えば、「そんなこと言ってないよ」「あなたの考えすぎじゃない?」「勘違いじゃない?」そう言われるうちに、少しずつ自分の感覚がわからなくなっていきます。
「え?私がおかしいの?」――気づいたときには、自分の現実感が揺さぶられているのです。
ガスライティングは2022年、メリアム=ウェブスター辞書の「今年の言葉(Word of the Year)」にも選ばれ、この年の検索数は前年比で約18倍に急増しました。誤情報が拡散しやすい現代において、ガスライティングはまさに「欺瞞(ぎまん)の時代」を象徴する言葉となっています。
語源は1938年の舞台『ガス燈(Gas Light)』と、それを原作とした映画にあります。夫が妻を「自分自身が狂っている」と信じ込ませるために家のガス灯の明るさが揺らいでいたにもかかわらず、「明るさは変わっていない」と言い張る――。その過程で、妻は次第に自分の感覚を疑い、精神的に衰弱していく物語です。
心理学者のパーキンス氏とジェイソン氏は「政治的ガスライティング」が人々の分断を深めると指摘し、法学者ナンシー・キム氏は、SNS企業が「依存は個人の責任」と責任転嫁する構造を「企業的ガスライティング」と批判しています(参照:GASLIGHTING Definition & Meaning|Merriam-Webster) 。
要するに、ガスライティングとは、他者の現実感や自信を奪い、支配下に置く心理的操作を指します。恋愛や家庭だけでなく、職場、政治、メディアなど、あらゆる場面で起こり得る現象として注意が必要です。
(1)パワーハラスメントとの違い
パワーハラスメント(パワハラ)は、業務関係に特有であり、立場や権力を背景にした圧力や暴言など、明らかに外から加えられる力です。上司が部下に怒鳴る、過剰なノルマを課す、無視をする――これらは典型例です。
一方、ガスライティングは立場に関係なく起こり、言葉や態度を通じて相手の心の中に入り込みます。「気にしすぎ」「そんなの覚えてないよ」といった一言が繰り返されるうちに、被害者は自分の感覚を疑い始めるのです。
つまり、パワハラが「外側からの圧力」なら、ガスライティングは「内側から侵食する支配」です。二つが同時に行われる場合もあり、被害の実態をさらに複雑にしています。
(2)モラルハラスメントとの違い
モラルハラスメント(モラハラ)は、立場に関係なく、暴言や無視、皮肉など、攻撃的な言動で相手を傷つけます。
「お前はダメだ」「そんなこともできないの?」といった直接的な攻撃です。
それに対し、ガスライティングはもっと静かで、巧妙です。暴力的ではないのに、じわじわと心を締めつけ、現実そのものをすり替えていきます。
モラハラという言葉の中には、ガスライティングの要素が含まれるとする見方もあります。ただし、一般的には両者には違いがあります。モラハラは、暴言や威圧的な態度など、被害者の目の前で行われる言動を含むことが多いのに対し、ガスライティングは、被害者に気づかれにくい形で心理的に追い込むのが特徴です。
2.ガスライティングの手口と具体的な行動例
この章では、ガスライティングの手口や具体的な言葉、行動例を詳しく解説します。
(1)ガスライティングの手口
ガスライティングには、さまざまなものがあります。以下は、ガスライティングの具体的な言葉の一例です。
「君がそうさせたんだ」
「そんなこといってない」
「君が深刻にとらえすぎなんだよ」
アメリア・ケリーによる書籍『ガスライティングという支配』(2023)によると、以下に示す方略は、よくあるガスライティングの中でも注意が必要な七つとして紹介されています。
(1)否認:加害者が自分の行動に対する責任をとらないこと。否認の例としては、細かいことは忘れたふりをする、責任転嫁をする、うそをつくなどがあります。
(2)聞こえないふり:相手の言っていることに対して、「一体なんのこと?」「聞いていない」など聞こえないふりをして、わからないそぶりをみせる方略です。そうすることによって、相手の方が非論理的であり、わけがわからないことをいっているかのように思わせるのです。
(3)矮小(わいしょう)化:相手に自分の考えや望みは分不相応でやりすぎだったと感じさせること。被害者の感想に「感情的すぎる」「おおげさな」「ずうずうしい」などといって相手の話を軽んじる。歴史的に女性の医療的なニーズに「ヒステリー」というレッテルがはられてきたことは医療的ガスライティングの一例です。
(4)価値下げ:情報源を疑って見せることで、相手の話の信憑(しんぴょう)性に疑問を抱かせるもの。「どうせお前の情報はインターネットをうのみにしたものばかり」などといいます。被害者が信じている情報はでたらめだとして、組織ぐるみで人々をコントロールする組織的ガスライティングは非常に効力の高いテクニックです。
(5)無効化:事実を裏付ける証拠があるときでさえも、相手に疑念を抱かせる手段として、できごとの記憶を疑って見せること。本当に起きた出来事であったとしても、忘れているだけだろうと決めつけ、「記憶力が悪い」「いつも忘れてしまう」などと作り話をします。
(6)ステレオタイプ化:性別、人種、セクシュアリティー 、国籍、年齢などに関する否定的な固定観念を利用するもの。「こういう人たちは……」というステレオタイプや、「みんな……だ」という過度な一般化を用いることで、被害者が間違っている、おかしい、怒りすぎる、感情的すぎる、信用に値しないといった理由や根拠を示そうとします。
(7)論点のすり替え:ガスライターが悪事をはたらいた証拠をつきつけられたときに起こります。ガスライターは、自分がしたことは認めずに、相手のミスを持ちだしてコントロールを取り戻そうとします。
これらをすべて用いるガスライターもいれば、一つだけを用いるガスライターもいます。
(2)ガスライティングの事例
①夫婦関係におけるガスライティング
妻が「最近、あなたが冷たい気がする」と伝えると、夫は穏やかな声で「そんなことないよ、君が勝手にそう思ってるだけじゃない?」と返します。
家事や育児を一手に引き受けながら疲れを訴える妻に対し、夫は「みんなそれくらいやってるよ」「君ってすぐ大げさだよね」と繰り返します。妻が涙を見せると、「また泣くの?情緒不安定だな」と、夫は感情そのものを否定します。
やがて妻は、自分が感じる怒りや悲しみを「私が悪いのかもしれない」と内に押し込めるようになります。周囲に相談しても、「優しそうなご主人じゃない」と言われ、ますます自信をなくしていきます。
夫は怒鳴らず、殴らず、言葉巧みに「妻が不安定」という物語をつくり上げていきます。こうして妻は次第に「自分の感情の正しさ」を見失い、夫の視点を基準に生きるようになっていくのです。静かで見えにくいですが、確実に心を侵食するのが夫婦間のガスライティングです。
②職場におけるガスライティング
上司のAさんは、部下のBさんに毎回曖昧(あいまい)な指示を出し、後になって「そんなことは言っていない」と否定します。Bさんがメールで確認しようとすると「いちいち確認なんて神経質だな」と笑い、周囲にも「彼女は最近おかしい」と言いふらします。
次第にBさんは自分の記憶や判断を疑うようになり、業務ミスが増えて自信を喪失していきます。Aさんの目的は、Bさんを不安定にして支配下に置くことです。周囲は表面上の穏やかな関係に気づかず、Bさんだけが孤立していきます。職場におけるガスライティングは、言葉単独よりも「雰囲気」や「権威」を利用した静かな心理的暴力として進行するケースもあります。
3.ガスライティングをする目的
ガスライティングをする目的として代表的なものに以下の三つが挙げられます。
(1) 支配とコントロールのため
被害者の自信や判断力を奪い、「自分が上位に立ちたい」と行動を思い通りにさせるために行われるケースです。否定や混乱を繰り返すことで被害者を孤立させ、反論や離脱を難しくします。こうしてガスライターは「自分が正しい」という構造を維持し、相手の意思決定までコントロールしていきます。
(2) 自己愛を満たすため
ガスライターの根底には、強い承認欲求や劣等感が潜むこともあります。自分が優れていると感じるために他者をおとしめ、優越感や安心感を得ようとします。自己愛的な満足を得るために相手を混乱させるこの行為は、結果として人間関係の信頼を深く損ない、双方に長期的な傷を残します。
米国の心理専門誌『Psychology Today』によると、自己愛性パーソナリティ障害(NPD)やサイコパシー傾向をもつ人に、ガスライティング行動がよく見られることが指摘されています。
彼らは二つの顔を使い分けます。被害者の前では支配的で操作的、一方で周囲には魅力的で優しい人物として振る舞います。
その結果、被害者は「誰も信じてくれない」という孤立感に陥ります。ガスライターの背景には、「他者を支配することでしか自分の価値を保てない」という深い不安があります。
(3)必要な成果を得るため
映画「ガス燈」でのガスライティングの目的は、妻を衰弱させることによって「宝石」を探し出して自分のものにすることでした。このように、ガスライティングでは、人々を操作し、自信や判断力を奪うことによって必要な目的を達成する手段として用いられることがあります。企業的・政治的ガスライティングは、彼らの目的を達成するために行われます。
4.ガスライティングの対策
個人としてだけでなく、企業など組織として対策できることは、次の3点です。
(1)客観的な記録を残す
言った・言わないの水掛け論を防ぐためには、やり取りをできるだけ客観的に残すことが重要です。メールやチャットの履歴、会議の議事録、日報など、記録を蓄積することで事実関係を冷静に確認できます。組織としても、報告ルールや情報共有の仕組みを整えることで、恣意(しい)的な操作や誤解を防ぐ土台になります。
(2)違和感があるときは相談する
「自分のほうが間違っているのでは」と感じるときほど、信頼できる人への相談が欠かせません。上司や人事、産業医、心理の専門家、内部・外部の相談窓口など、複数の選択肢を用意しておくことで、早期発見と被害の拡大防止につながります。
組織は、相談者が不利益を受けないよう明確に制度化し、安心して声を上げられる環境づくりを進める必要があります。
(3)心理的安全性の高い職場づくりを行う
ガスライティングが生じやすい背景には、「意見を言うと不利になる」「上司に逆らえない」といった沈黙の文化があります。互いの違いを尊重し、失敗や異論を表明できる職場こそが、心理的安全性の高い組織です。
経営層や管理職が率先して対話を重ね、安心して意見を出し合える風土を育てることが、最も有効な予防策となります。マインドフルな傾聴のトレーニングなども役立つでしょう。
5.「見えない操作」に気づく力を持つために
情報があふれる現代社会では、言葉や態度による「見えない操作」が巧妙に行われることがあります。ガスライティングもその一つです。自分の感覚や記憶に自信をなくし、気づかぬうちに他者の意図に左右されてしまうことは、誰にでも起こり得ます。
このような心理的暴力は、個人の尊厳を深く傷つけるだけでなく、私たちが目指す社会のあり方にも関わっています。SDGsが掲げる目標16「平和と公正をすべての人に」は、身体的な暴力だけでなく、ガスライティングのような精神的な支配からも人々が解放されることを目指しています。
またガスライティングは、被害者の精神的健康を著しく害し、目標3「すべての人に健康と福祉を」の達成を妨げる要因です。心身の健康は、人間が尊厳を持って生きるための基盤であり、心理的虐待はこの基盤を揺るがす行為と言えます。私たちがガスライティングを正しく理解し、社会全体で対策を進めることは、誰もが精神的な幸福を享受できる社会を実現するために不可欠な貢献なのです。
だからこそ、正しい知識を持ち、「こうしたことが起こり得る」と知っておくことが、最大の予防になります。もし実際に似た状況に置かれたと感じたら、一人で抱え込まず、信頼できる人や専門機関に早めに相談すること、やり取りを記録に残すことが大切です。
日本ではまだ「ガスライティング」という言葉は広く知られていませんが、心理的な支配の構造を理解することは、私たち一人ひとりが自分の現実を守る第一歩になります。この機会に、その危険性と対策について考えてみていただければと思います。
(編集協力 スタジオユリグラフ・西脇聖子)