Download the free Kindle app and start reading Kindle books instantly on your smartphone, tablet, or computer - no Kindle device required.
Read instantly on your browser with Kindle for Web.
Using your mobile phone camera - scan the code below and download the Kindle app.

Discover more of the author’s books, see similar authors, read book recommendations and more.
リルケは、重要な文学者であり、「最初の現代人」だと思っている。
現代のゆがみや病理、かつては人の暮らしと共にあった無垢や自然や素朴さが、失われてしまったことを
全身で受けとめ、表現し、乗り越えていこうとした人物。
だが、彼に関する関連書籍は、そう多くはない。
辻邦生は、リルケを自分に引き寄せた(あるいは自らできる限り近づこうとした)人物だった。
彼の著作には、どれも「永遠の文学青年」的気配が漂うが、それはそうした探求の切実さ、真摯さの表れなのだろう。
彼は文学者らしく、この本を書くにあたって、リルケを語るに際し、必要な文献はすべて読んでいる。
第一章は、自身のパリ体験が述べられ、第二章でルー・ザロメの著作(リルケと内縁関係を長く続けた重要人物のひとり)が
引かれる。第三章では、この頃、リルケ(および『マルテの手記』)と平行して進んだ文学的な現象が指摘される。
それは「物語の崩壊」。『マルテの手記』は、主人公マルテがパリで生活する中で見たり、感じたり、
考えたりしたことが記されていくが、そこに小説的な物語構造は希薄だ。
それはリルケが、自分が抱いた内的世界を、文学作品として表現する時に採ったひとつの手法だった。
当時、他の文学者たちも、同じような問題、課題にぶつかり、彼らなりに苦闘し、乗り越えようとしていた。
トーマス・マンは、『ブッテンブローク家の人々』『魔の山』を書いたが、それが『ヨゼフとその兄弟』になる。
J・ジョイスも、『ダブリンの人々』『若き芸術家の肖像』の後に『ユリシーズ』に取りかかる。
プルーストの『失われた時を求めて』も、この時期に書き進められる。
「いずれも、物語形式の行き詰まり、ないし解体を経験しながら、新しい小説の可能性を追求していた」と辻はいう。
「マルテ」は、イコール100%リルケではないが、リルケ自身のパリ体験がこの作品の基底部になっている。
それを彼がどのように作品化していったのか、ということに、この辻の指摘は光をあてている。
では、そういう文学的な時代状況にあったとして、リルケがどのように、自分の課題を解決し、
作品世界と向き合い、形にしていったのか。それが第四章で語られる。
辻が着目するのが、ふたりの美術家、ロダンとセザンヌ。
リルケは、一時、ロダンの秘書的存在となり、ロダン論を書く。
その後、セザンヌの個展を見て衝撃を受け、最も早い段階でのセザンヌ論の一つを書く。
ロダンとセザンヌは、通常目に映るものの先にまで行こうと全身で挑む、全身彫刻家であり、全身画家だった。
リルケも、自分が内部に抱えたものに、文学者として形を与えなくてはならない。
「リルケは、ロダンの場合と同じように、セザンヌからも、
現実の本質を徹底して見つめる方法と、物作りに徹する姿勢を学んだ」
「かれらは人体の部分の中に、ひとつのオレンジの中に、滅亡することのない、
永続するもの、一段と高次のもの、<ものを超える”それ”>を作り出そうとした」
「両者は、近代が実用価値追求の中で失った、<もの>との関係性を恢復しようとする」
「”人間的な価値”を、”絶やさないようにする”。それがこのふたりの巨匠たちの仕事だった」
リルケは、『マルテ』を抱えながら、二人の先人たちに触発され、
しだいにマルテに形を与えられるようになっていく。
そして妻への手紙に、こんな言葉を書く。
「どんな場所を歩こうと、僕にはよろこびがあり、愉悦があります。
どのような小さなかけらにまで、充実した現実が存在しています」。
マルテの表現化は、深い自己省察となり、リルケの生活様式も変えていく。
「私はますます果実の中の”核”のような生活に入っています。そこに私の本当の幸福があるように思います。
自己のすべてをひとつの中心に引き寄せ、誰の目にも見えない”暗黒の仕事”の中に、あらゆる力を凝縮します。
このような生き方が、私の最後の、そして唯一の方法なのだということが、だんだんはっきりしてきました」
「マルテ」を作品化しえたリルケだったが、
マルテ自身は、光に包まれた形での最後を(始まりを)迎えることはできなかった。
「私は不意にマルテの宿命を理解しました。私の試練が、マルテの力を凌駕したのです。
でもマルテは、試練に敗北してしまうのです」
リルケはマルテの宿命を覚ったが、それを変えることまではできなかった。
だから、その後のリルケの歩みは、苦渋に満ちたものになる。
こういった一連の著者の考察に触れ、文章を読み、はじめて『マルテの手記』というものが、
どういう物語だったのか、作品だったのかを、少し理解できたように思った。
小説を突き詰めた小説家ならではの分析。
その後の『ドゥイノの悲歌』を中心とする考察は、ハイデッガーを持ち出しながら展開され、
それは、峻厳な山道を登坂するようなものになっている。そもそもこの長編詩自体が、
降ってきたような霊感を元に、詩人がその体験を自らが生き切るまでじっと待ち、
やがて”その時”がおとずれ、”それ”をそのまま叙述したような作品なので、どうしてもそういう具合になってしまう。
この本は、著者の遺稿がまとめられたものであり、
著者の最後の見直し、書き直しが加えられていないという意味で、不完全な存在かもしれないが、
その分、著者が書こうとした内容の最初の形、核のようなものが、素直な形で示されている。
辻邦生の著作の中でも、もっとも良質な作品だと思える一冊。
辻邦生が、「マルテの手記」、「ドゥイノの悲歌」、「オルフォイスに寄せるソネット」などに見られるリルケの足跡をじっくりと追いながら、文学のありようを全身で問うた本。この本により、辻の人生の軌跡と最晩年の到達点を確認し、それに止まらず、あってほしかった近未来の姿の輪郭を外挿することも可能かも知れない。
展開される論考のほんの一片だけを記せば:
リルケが、マルテと苦悩をともにしていた時代に、『新世界風の知性から生まれた一軒の家屋、新世界の林檎、新世界の葡萄には、私たちの祖先がその希望と憂いとを注ぎこんでおりました家屋や果実や葡萄と、少しも共通なところがありません』(p.42)と言っている通り、「<近代>が金銭と技術によってその実用的な面を抽出し組織したとき、<もの>は物の残骸となるほかなかった。」・・・・・・
このような論考に、現代を生きる我々との共通点を感じたりしつつ、険しい山道を登り、頂までたどりついたとき、リルケの詩と「薔薇の沈黙」とそして辻文学が、読者それぞれの世界として理解できる(もっとも、佐保子夫人によれば、このあとに最後の章があるはずだった)ことになる。
季節のなか、たとえば夏空の下で、木陰に流れくる風に吹かれながら、または、街路に木枯らしが吹きゆく夜半、暖炉のぬくもりを感じながら、今一度、ゆっくりと読んでみたい本である。
|