渡辺志保はもう音楽ライターをやめよう
そこにしがみつくのは“ヘルシー”ではない
「口を動かすのは左派で、実際に時代を動かすのは右派だ」という言葉を初めてサブスタックで目にしたとき、このフレーズの真偽を疑うより先に思い浮かんだ顔が渡辺志保──日本語ラップ界の大切な語り部である。理由は簡単で、そのとき私が『渡辺志保のヒップホップ茶話会』を聴いていたからである。
しかし、これはシグナリングのようにも思えた。
私はこの番組開始当初から聴いているリスナーで、投稿が採用されて佐藤公郎直筆手紙付き湯呑みももらったことがある。永遠に落ち着かないビーチバレーのような軽やかなトークは聴いていて気が紛れるし、サウスへの熱い愛は私には10%しか理解できないがそれでもおもしろい。アーティストがゲストの回も、たとえ私がそのアーティストに関して無知だとしても彼女の存在のおかげで聞こうと思える。
しかし一方で、その軽さがこと音楽ライターとしては致命傷になっている。
彼女の執筆した記事──たとえば直近のトラヴィス・スコットのライブレポート──を読んでも、美しい筆致だとも、重厚な情報とも言えず、当時の興奮を独特の言い回しや構成ではなく人間味とエモさという口語文体で表す手法はタイムラインに流れてくる140字の限界日本語と何ら変わらない。
つまり、何が言いたいか。
彼女は音楽ライターをやめてポッドキャスターに専念すべきだ。
ライターとしての欠陥に関しては──ポッドキャストを聞けばわかるが──彼女自身悩んでいる部分である。
Twitterやインスタグラムのプロフィールに音楽ライターという文字はなくても彼女が紹介されている記事のプロフィールには音楽ライターと載っているし、もしライティングの行為自体が好きであれば「ライブレポート誰が読んでるのか問題」を度々取り上げることはないだろうし、『渡辺志保のヒップホップ談話室』というニュースレター配信を突然やめたりしない。ましてや、NottaとChat GTPだけで作ったインタビューをクライアントに提出したりしない(#112 魂を宿らせる筆致 音楽ライターが憂慮するAIとの正しい接し方 14分〜)。
ここで深刻なのは、AI原稿に手を加えずそのままクライアントに提出した問題ではなく(結果的に編集者に却下され自ら書き直している)、自分の名前が署名されるにもかかわらず完全AI原稿を抵抗なく提出できるその態度だ。
それは文体・構成・内容に対する美学の無さを如実に表しているし、四角い部屋を丸く掃除して終わらせる煩わしいリビング掃除と大差ない。
彼女には、カーテンを閉めるのを我慢した一段落も、思いついてベッドから飛び出した一行も、鳴り出した電話をあえて無視した一文字もないのかもしれない。
彼女のラジオやポッドキャストを聴いているリスナーなら知っていると思うが、彼女は“ヘルシー”という単語をよく使う。意味としては、堅実、質実剛健、硬派。使い方としては「ヘルシーな売れ方」「そのやり方はヘルシー」など。
彼女の中で、バズ狙いの炎上マーケティングはヘルシーではないし、ソーシャルメディアでの露出や過度な広報活動もヘルシーではない。
だとすれば、その態度で音楽ライターを名乗りつづけるのはヘルシーではない。
割り切ってポッドキャスターになることを恐れなくてもいい。音楽ライターという肩書きはいわば絶滅寸前のドードーだ。ポッドキャスターの方が需要があるし、明らかに彼女の強みは音声コンテンツに宿る。話すときのリズム、相手の意図を繊細に読み取る間、音声メディアの中でだけ発揮される自然体の魅力がいかんなく発揮されている。特に、中立性を排除してまでアーティストの言葉に耳を傾け、彼らが話したいことを話せるセーフスペース設計のスキルは卓越していて、AIが発達しても代替できない。これらは文章には現れない。むしろ書いた文章の粗雑さによって隠れてしまっている。
恐れる理由を予想するなら、音楽ライターという職種が朧げに持つその“オーセンティシティー”だろう。肩書きはその対象者に専門性や権威を付与し、他者には先入観を与える。音楽ジャーナリストを名乗るのを烏滸がましいと彼女はポッドキャスト内で嫌がっていた記憶があるが、音楽ライターなら名乗れるのは格式のバランスがライターなら自分と他者のあいだで取れていると思っているからだ。
しかし2025年の今、参入障壁の低い音楽ライターにどんな権威があるというのだろう。楽器やレコーディング技術への知識が空洞化している音楽ライターにどんな専門性があるのか。彼らの大多数は音楽産業の周縁からカルチャーを観察したストーリーテラーであり、それならポッドキャストでも十分できるし、今の時代求められているのは音声だ。
この提案をホットテイクだと受け止める人は案外少ないと願う。
また、筆を折るのは見方次第でフェミニズムの文脈にも捉えられる。
昨今女性が増えてAIも進出しているが、元々筆を執る行為は知識人のもの=男性の仕事だと長く見做されてきた。その男性中心主義的業界から降り、長く抑圧されてきた女性のヴォイス──歴史的に奪われてきたヴォイスを、身体と共に前面に押し出して奪い返す行為はまさにフェミニズム、男性的なメディアへの従属を手放す行為だ。
さらに一歩踏み込んでこう考えてほしい。
もしも彼女が尊敬する平塚らいてうが現代にいたら平塚は筆を執るだろうか。いや執らない。自らのヴォイスを社会に簡単に届けられるツールがあるならそれを使って、男性社会に対抗するだろう。
実際のところ、リベラルな彼女のようなポッドキャストはグラスルーツなフェミニズムとして機能しているとも思う。
競争より協調、効率より共感、命令より説得、結果より過程、対立より和解を重んじる彼女のようなウォーキズムは右派〜中道マノスフィアからはThe Great Feminization(大いなる女性化)と呼ばれ、この社会変革は恐れられている。
彼らは、「問題は、女性が男性より才能に劣っているとか、女性の意思疎通が客観的な意味で劣っているということではない。問題は、この女性性が多くの主要機関の目標を達成するのにあまり適していないことだ」と断言するが、新自由主義になってから40〜50年経った感覚で言えば、市場競争の中でジェンダーは中性化しており、今年の夏に流行った“パフォーマティブ・メイル”の存在はまさにその過程を表す象徴に違いない。
確かに、彼女のポッドキャストで鋭い批評や深い議論は出ない。それはスタイルだ。言ってしまえば、ミソジニー認定を怖がる男性が女性を批評しづらい世の中を嘲るような彼女なりの武器化された女性性でもって反対勢力にもっと恐れを抱かせられるのであれば、それだけで放送は十二分に価値がある。
ただ、彼女が好むモラルセントリックな語彙やリベラルのフレームワークは10年代の良心左派で、2025年の感覚とはズレている。
例えば、彼女が好むボディポジティブのアイデアはオゼンピック(GLP-1)の発展につれて死んだ。簡単に痩せられて血糖値も血圧も下げてくれる薬があるのにどうして痩せていないの?の問いに誰も「ルッキズムを助長させるから」という倫理的回答にしても遅すぎて弱い答え以外の有効な答えを持たないからだ。
また、プライベート(の政治スタンスや日頃の行い)と芸術性を切り離さないキャンセルカルチャーも、トランプ再選で反省したリベラルの中に矛盾の寛容と赦しが浸透した今死につつある。
炎上マーケティングは企業にとって狙い通りの場合は正常なマーケティングだと見做されている。
トランスインターナショナリズムがグローバリズムの目指していた世界共通の恥や倫理の機能を一時停止させ、アテンションエコノミーが潮流から主流になって正式にエコノミーの一部となった時代に今更アテンションの奪い合いをモラルから批判するのはナンセンスで、正義も悪もない。ある時代のある思想に固執して従順になる態度は、女性に固執して従順になるパフォーマティブメイルと比べて、実際の相手がいるかどうかという観点で言えばより不可解である。
体裁をおもんぱかれば、ブランド化したイデオロギー群の中でリベラルと契約しアンバサダーとなった彼女がレッドカーペットを歩いている最中にそのバッグを投げ捨てるのは難しいだろう。誰がそのバッグを拾うのか?会場の逆方向に行ってついてくる人はいるのか?思想で人々を囲い、マネタイズの一つにしてしまった人なら誰でも悩む問題だ。
けれども、ノスタルジックにイデオロギーを食むのは新しい潮流を産むのを阻害しており、それは退行だ。作家の王谷晶がダガー受賞後のインタビューで言っていたように、曖昧でいることは強さだ。どちらか極端に振れるのは、自分に害がない限りエンタメだ。政治がポップカルチャーの一部に取り込まれつつあるなかで、リベラル・フェミニストに固執して得するのはリベラル・フェミニストに投票してもらいたい政治家だけであり、右にしろ左にしろ、政治家が最も気にかけるのは曖昧な無党派層の動向である。
とはいえ、私は彼女に思想を変えてほしいわけではない。
先述した通り、偏りは受け手にとってはエンタメであり、彼女のポッドキャストは聴いていて楽しい。神経症的ではなく戦略的に思想を利用しているのかもしれない。信条を放送に滲ませるのはポッドキャスターの自由であり、それに影響を受けるかどうかは常に受け手に委ねられている。
日本人男性の私が持つ唯一のマイノリティである左利きという属性が、彼女のフェミニズムに奇妙に呼応する瞬間もあるのと同じように、どの時点かの彼女から勇気をもらう人も必ずいる。
渡辺志保は、書くよりも語る人だ。
最後に、なぜこういう文章が書かれるのがポップスターにしろ俳優にしろ女性ばかりなのかと思った方へ。それはやはり、若い女性に特権を与えてきた男性社会のディカプリオ的価値基準が宗教や風土を土台にカニバル資本主義に進化し、全世界に長らく定着しているからだと思う。




