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「日本人は『社会』で生きていない、『世間』で生きている」というけれど - 世間体・同調圧力・息苦しさ、そしてアメリカとの比較

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導入 社会という明るい部屋、世間という薄暗い廊下

私たちはよく「社会に出る」と言う。大学を卒業し、名刺を持ち、給料をもらい、税金を払い、選挙に行く。するといかにも、自分は近代的な制度の中にすっぽりと収まった一人の市民であるような気がしてくる。けれど、日々の暮らしのなかで本当に私たちを緊張させているものは、たいていの場合、法律でも国家でも市場でもない。もっと近くて、もっと曖昧で、しかし奇妙に逃げにくいものだ。

たとえば親戚の集まりで、誰かが結婚や就職や子どもの話を始める。たとえば職場で、誰も帰らない夜に自分だけ席を立つ。たとえば町内会の行事を断る。たとえばSNSで、言わなくてもいいことを言ってしまう。その瞬間、私たちは見えない何かに触れる。そこには明文化された罰則はない。けれど、空気が少しだけ冷える。視線が少しだけ変わる。名前のない審判が始まる。

日本語はそのものに、古くからひとつの名前を与えてきた。「世間」である。

「日本には世間があるが、社会はない」。この言葉は、ときに乱暴で、ときに過剰で、しかしどこかで私たちの生活実感に触れてしまう。日本人は近代的な市民社会のなかに生きているというより、顔の見える関係、評判、義理、迷惑、家、職場、同窓、近所、空気のなかで生きているのではないか。そういう問いである。

では、逆に問うてみよう。アメリカには世間がないのだろうか。個人主義、自由、契約、権利、自己決定の国とされるアメリカでは、人は本当に「社会」にだけ住んでいるのだろうか。教会、故郷、家族名、階級、人種、民族、大学、軍、政治的部族。そうしたものが個人の行動を深く規定しているのなら、そこにもまた別種の「世間」があるのではないか。

世間とは何か 阿部謹也と井上忠司の射程

世間を考えるとき、避けて通れないのが阿部謹也である。阿部は『「世間」とは何か』などの仕事を通じて、西洋近代の「社会」と日本の「世間」を対比させた。西洋近代における社会とは、理念的には、自律した個人が契約によって参加する公共空間である。そこでは個人が先にあり、社会はその個人たちの関係として構想される。

これに対して、世間では順序が逆になる。個人が世間に参加するのではない。個人は最初から世間のなかに置かれている。生まれた家、親族、地域、学校、職場、年齢、先輩後輩、近所づきあい。そうしたものが、本人の選択よりも先に、すでに生活の座標を決めている。だから世間は、社会のように入会届を出して参加する場所ではない。気づくとそこにいる場所であり、簡単には抜け出せない場所である。

阿部が世間のルールとして重視したものに、贈与と互酬、長幼の序、共通の時間意識がある。贈られたら返さなければならない。年長者や先輩を立てなければならない。長く続く関係のなかで、今だけの損得ではなく、これからも顔を合わせることを前提にふるまわなければならない。お中元、香典、年賀状、飲み会の欠席、既読への返信、SNSの「いいね」に至るまで、私たちは実に多くの互酬的な細い糸に絡め取られている。

井上忠司の『「世間体」の構造』は、この問題をさらに日常心理のほうへ引き寄せた。井上は人間関係を、ミウチ、ナカマ、世間、タニンという層に分けた。甘えが許されるミウチでもなく、まったく無関係な赤の他人でもない。その中間にある、どこかで見られており、評価されており、顔を保たなければならない関係圏。そこに「世間体」が発生する。

世間体とは、自分がどうありたいかではなく、自分がどう見られているかをめぐる感覚である。それはたいていの場合、はっきりした声を持たない。誰が何を言ったわけでもない。けれど、何となくそうすべきだと感じる。何となくそれはまずいとわかる。世間はこの「何となく」を通じて、私たちの身体に入り込んでくる。

もちろん、世間は単なる悪ではない。ここを外すと話は薄くなる。世間は人を縛るが、同時に守りもする。法制度や福祉が十分でなかった時代、世間は生活保障のネットワークでもあった。掟を守り、輪の中に留まる者は、能力が高くなくても、簡単には見捨てられなかった。世間とは、抑圧装置であると同時に、土着のセーフティネットでもあった。だからこそ厄介なのだ。冷たい鉄格子ではなく、温かい毛布の形をした檻でもありうるからである。

日本人は社会ではなく、世間に住んでいるのか

「日本人は社会に住んでいない。世間に住んでいる」というテーゼには、明らかに誇張がある。日本にも国家はあり、法律はあり、市場はあり、公共制度はある。私たちは免許証を持ち、保険証を持ち、銀行口座を持ち、行政手続きのなかで生きている。その意味で、日本に社会がないなどとは言えない。

それでも、この誇張がなぜ何度も語られてきたのか。理由はある。日本では、公共性がしばしば「官」に吸い上げられ、市民が自分たちで討議し、ルールを作り、異なる個人として共存する空間が育ちにくかった。生活の秩序を支えたのは、抽象的な市民社会というより、対面関係のなかで互いを監視する世間だった。

近代化はこの世間を消したように見えた。村落共同体は弱まり、都市化が進み、核家族化が進んだ。だが、世間は消滅したのではない。場所を変えただけだった。企業のなかに入り込み、終身雇用や年功序列や「職場の空気」と結びついた。学校のなかに入り込み、スクールカーストや部活の上下関係や不登校への恐怖を生み出した。家庭のなかに入り込み、「家の恥」や「親に申し訳ない」という感覚を再生産した。

現代のSNSは、さらに不思議なことをした。顔の見える世間を壊したのではなく、顔の見えない世間を作り出したのである。かつて村の噂話には、少なくとも噂する人の顔があった。現代の炎上には、それがない。匿名のアカウントたちが、いつのまにか「世間の代表」のような顔をして現れる。彼らは法律を執行しているわけではない。けれど、「不謹慎だ」「迷惑だ」「常識がない」と言うことで、ひとりの人間を公的な釈明の場へ引きずり出す。

コロナ禍における自粛警察は、そのわかりやすい例だった。他県ナンバーの車、営業時間、移動、マスク、会食。法ではなく、空気が取り締まる。制度ではなく、同調の圧力が制裁する。そこには、古い村落の世間とは違う、新しい液状化した世間があった。

では、アメリカには世間がないのか

ここで話は一度、太平洋を渡る。アメリカはしばしば、日本と対照的に語られる。個人主義の国。自由の国。契約の国。自分の人生は自分で選び、家を出て、故郷を離れ、信仰も職業も政治的立場も自己決定する国。たしかに、アメリカの制度的な想像力には、そうした強い個人の像がある。

しかし、制度の言葉と生活の感触はいつも一致するわけではない。実際のアメリカ人は、驚くほど濃い共同体のなかに生きている。教会、地元、家族名、学校区、大学ネットワーク、フラタニティやソロリティ、軍人家系、移民コミュニティ、人種的連帯、政治的部族。そこには、個人を支える温かさがあり、同時に個人を縛る圧力がある。

その歴史的な原型のひとつは、ニューイングランドのピューリタン共同体に見いだせる。ジョン・ウィンスロップが語った「丘の上の町」は、自由な個人たちの気楽な集まりではなかった。神との契約に基づき、共同体全体が模範として見られることを引き受けた、緊張に満ちた道徳共同体だった。服装、礼拝、髪型、日常のふるまいまでが監視される。そこでは、神と共同体と他者の目が、ひとつの監視装置のように重なり合う。

アレクシス・ド・トクヴィルは、民主主義の内部に潜む「多数者の専制」を早くから見抜いていた。王がいなくなっても、人は自由になるとは限らない。むしろ世論が王の代わりになる。大衆の共通意見は、物理的な暴力よりも静かに、しかし深く、少数派の精神を圧迫する。人は投獄されなくても、孤立を恐れて口を閉じる。

デイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』は、さらに20世紀の消費社会におけるアメリカ人の性格変化を描いた。内部の信念を羅針盤にするのではなく、周囲の期待をレーダーのように察知しながら生きる「他人指向型」の人間。これは、いかにもアメリカ的な自由の表面の下に、きわめて繊細な世間体の感覚が広がっていることを示している。

ロバート・ベラーらの『心の習慣』が問題にしたのも、アメリカ的個人主義の脆さだった。自己表現こそが人生の中心になると、人は一見自由になる。けれど、伝統的な教会、地域、家族、労働の共同体が弱まると、その自由な個人はしばしばひどく孤独になる。すると人は、新たな部族を探し始める。政治的部族、宗教的共同体、アイデンティティの共同体、ライフスタイルの共同体。個人主義の果てに、共同体への渇望が戻ってくるのである。

緋文字、南部の町、郊外の学校区

文学は、社会理論よりも少し早く、共同体の息苦しさを感知することがある。ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』は、その典型である。姦通の罪を犯したヘスター・プリンは、胸に「A」の文字を付けられ、共同体の視線のなかに晒される。これは、まさしく公的な恥の儀式である。

しかし、より重要なのは牧師ディムズデールのほうかもしれない。彼は共同体から尊敬される聖職者でありながら、内側に罪を隠している。完璧な道徳共同体の期待と、隠された自己とのあいだで、彼は少しずつ壊れていく。ここには、アメリカ的な世間の残酷さがある。日本の世間が「空気を乱すな」と言うのに対して、ピューリタン的共同体は「清くあれ、そしてその清さを証明せよ」と迫る。

フォークナーの南部世界にも、スタインベックの家族と土地の物語にも、トニ・モリスンが描く黒人共同体にも、同じ問題が別の姿で現れる。人はどこの家の者か。どの土地に属するのか。どの記憶を受け継ぐのか。誰を裏切り、誰に忠誠を尽くすのか。アメリカ文学の多くは、自由な個人の物語であると同時に、逃げきれない共同体の物語でもある。

現代に目を向ければ、郊外住宅地の学校区、PTA、大学のフラタニティやソロリティ、軍人家系、教会のネットワークがある。そこでは、どこに住むか、どの学校に通うか、どの教会に属するか、どの大学の名刺を持つかが、個人の価値を静かに測定する。日本の「どこの家の子か」と似ている。しかし同じではない。アメリカではそれが、しばしば明示的な選択と所属の記号として表示される。

日本人は「みんな」に縛られ、アメリカ人は「私たち」に縛られる

ここで、日米の差異を単純な「日本は集団主義、アメリカは個人主義」という古い図式に戻してはいけない。実証的な心理学研究の蓄積は、日本人だけが特別に同調的で、アメリカ人だけが特別に自律的だという見方を疑わせる。重要なのは、同調の強さではなく、同調の文法である。

日本の世間は、しばしば「みんながどう思うか」という匿名的な空気として現れる。誰が命じたわけでもない。誰が責任を持つわけでもない。けれど「普通はそうしない」「そんなことをしたら迷惑だ」「空気を読め」という言葉が、人を平均値のほうへ引き戻す。日本型の圧力は、引き算の同調である。目立つな。乱すな。余計なことを言うな。そこにいながら、そこにいないようにふるまえ。

アメリカの世間的共同体は、むしろ「あなたは本当にこちら側の人間なのか」と問う。信仰を示せ。忠誠を示せ。愛国を示せ。人種的連帯を示せ。政治的立場を示せ。沈黙しているだけでは足りない。なぜなら、沈黙は敵への加担と見なされうるからである。アメリカ型の圧力は、足し算の同調である。表明せよ。告白せよ。旗を掲げよ。あなたが何者であるかを、言葉と記号で証明せよ。

日本では、沈黙と忖度が人を縛る。アメリカでは、表明と告白が人を縛る。日本では「みんな」が見ている。アメリカでは「私たち」が試している。この違いは小さくない。

だから、アメリカに世間がないのではない。アメリカの世間は、日本語の「世間」という一語にまとまらないだけである。それは community、church、hometown、family、race、ethnicity、class、party、identity といった複数の名前に分かれている。日本の世間が、ひとつの曖昧な霧のように人を包むのに対して、アメリカの世間は、複数の旗のように人の周囲に立ち並ぶ。どの旗の下に立つのかを、絶えず問われるのである。

SNSは世間を消さなかった。むしろ増やした

インターネットは、かつて個人を共同体から解放する道具だと思われていた。匿名になれる。移動できる。趣味でつながれる。地元や職場や家族から離れて、別の自分を作れる。たしかに、そういう面はあった。けれどSNSは、別のこともした。世間を可視化し、加速し、細分化したのである。

ここで有効なのが、ハミルト・タジフェルとジョン・ターナーの社会同一性理論である。人は自分を、個人としてだけでなく、集団の一員として理解する。自分たちと彼らを分け、外集団を批判することで、内集団の結束と自己の価値を確かめる。ネット炎上やキャンセルカルチャーは、この境界維持の儀式として見ることができる。

さらにSNSは、文脈崩壊を引き起こす。現実の生活では、私たちは相手に応じて少しずつ違う顔をしている。家族に見せる顔、職場に見せる顔、友人に見せる顔、学生時代の仲間に見せる顔。それぞれの世間体を使い分けることで、どうにか生活を保っている。しかしSNSでは、それらの聴衆が一枚の平面に混ざり合う。冗談は冗談の場から引き剥がされ、怒りは怒りの文脈を失い、過去の発言は現在の裁判所へ呼び出される。

日本のデジタル世間では、不謹慎、迷惑、常識、空気といった言葉が制裁の合図になる。アメリカのデジタル世間では、キャンセルカルチャー、政治的正しさ、反ポリコレ、アイデンティティ政治、愛国、宗教、党派性が合図になる。前者は空気の汚れを浄化しようとし、後者は共同体の純粋性を守ろうとする。どちらも、違反者を見つけ出し、名前を与え、儀式的に排除する。

このとき、SNSは世間の墓場ではない。世間の増殖装置である。私たちは、ひとつの村から解放されたかわりに、無数の小さな村に常時接続されてしまった。

世間は日本の病ではなく、人間の共同性の影である

ここまで見てくると、「日本には世間があり、アメリカには社会がある」という対比は、入口としては有効だが、出口としては不十分だとわかる。日本には日本型の世間がある。アメリカにはアメリカ型の世間的共同体がある。どちらも人を守り、どちらも人を縛る。

世間とは、日本だけの古い病ではない。人間が誰かとともに生きるかぎり、そこには必ず、期待されること、見られること、応答しなければならないこと、裏切れないことが生まれる。共同体は温かい。だが、温かいものはしばしば近すぎる。近すぎるものは、息をしにくくする。

近代社会は、自律的な個人という美しい物語を作った。私たちはその物語を必要としている。個人の権利、自由、尊厳、公共性。どれも手放してはならない。しかし同時に、人は完全に孤立した個人としては生きられない。誰かに見られ、誰かに承認され、どこかに属し、何らかの「私たち」のなかに入ることで、ようやく自分を保つ。

問題は、世間をなくすことではない。おそらくそれはできない。問題は、ひとつの世間に魂を預けすぎないことだ。会社の世間、家族の世間、学校の世間、SNSの世間、政治的部族の世間。そのどれかひとつが世界のすべてになったとき、人は簡単に追い詰められる。

だから必要なのは、複数の世間を持つことなのかもしれない。いくつかの場所に属し、いくつかの言葉を持ち、いくつかの顔を持つ。その重力が互いに打ち消し合うところに、ほんの少しだけ自由な隙間が生まれる。社会とは、その隙間を制度として守るための発明だったはずだ。

日本人は「みんな」に縛られ、アメリカ人は「私たち」に縛られる。けれど、どちらの場合も、人を縛っているのは他者とともに生きたいという欲望そのものでもある。世間は私たちの外にあるだけではない。私たちの内側にもある。だからそれは厄介で、だからこそ、考えるに値する。(了)

主要参照・理論枠組み

阿部謹也『「世間」とは何か』、井上忠司『「世間体」の構造』、中根千枝のタテ社会論、土居健郎の「甘え」論、丸山眞男の公私論は、日本における世間・共同体・個人・公共性を考えるための基礎線を与える。

アメリカ側では、アレクシス・ド・トクヴィルの「多数者の専制」、デイヴィッド・リースマンの「他人指向型」、ロバート・ベラーらの「表現的個人主義」批判が、個人主義社会の内部に潜む共同体圧力を考えるうえで重要である。

現代SNSの分析には、ハミルト・タジフェルとジョン・ターナーの社会同一性理論、文脈崩壊、キャンセルカルチャー、ピュアリティ・スパイラル、ネット炎上研究が有効である。文化表象としては、ホーソーン『緋文字』、フォークナーの南部小説、スタインベックの家族と土地の物語、トニ・モリスン作品における黒人共同体の描写が、この問題に厚みを与える。


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