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「やつは四天王の中でも最弱」は本当か - 生成AIのDeepResearchで徹底的に調べてみた

「四天王」と聞いて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか。ポケモンリーグのカンナ、シバ、キクコ、ワタルか。セーラームーンを苦しめたダーク・キングダムの美形幹部か。あるいは、スカルミリョーネ、カイナッツォ、バルバリシア、ルビカンテ――そう、ゴルベーザ四天王か。四十代前半のゲーム経験者なら、この最後の四人の名を聞いただけで、試練の山やバロン城やバブイルの巨人の湿った空気まで、ひょいと蘇るかもしれない。

四天王という語には、妙な愉快さがある。なにしろ名前を聞いた瞬間、こちらはもう構造を知っている。四人いる。たぶん一人ずつ出てくる。たぶん属性が違う。たぶん最後の一人はやたら偉そうで、たぶん最初の一人が倒されると、残った三人の誰かが暗い部屋で笑う。

「ふ、やつは四天王の中でも最弱……」

あまりにも有名な文句である。だが問題は、ここからだ。この台詞は本当にそんなに言われているのか。私たちは、実際の作品を覚えているのか。それとも、ネットミームが作った幻を、まるで古典芸能の型のように信じこんでいるだけなのか。

そこで、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベル、特撮などから、四天王または四天王的な四人組幹部を四十組ほど抽出し、ステレオタイプとの合致を見た。結果は、なかなか愉快で、少しばかり残酷である。結論から言えば、「最弱」はほとんど言われていない。少なくとも、私たちが思うほどには。四天王最弱説とは、作品の中にある定番というより、読者とプレイヤーの記憶が勝手に作った、敗者への後づけの戒名に近い。

相変わらず、自分でもなんでこんなことをやっているのかわかりませんが、この記事を音楽AI・SUNOに食べさせて音楽を作りました。もし暇で死にそうだったら聴いてやってください。ちなみにブログのサムネイルはChatGPTでつくってるんですが、真ん中は魔王的な存在だとして、その周囲になぜか5人います。ChatGPTはクロマティ高校が好きなんでしょうか。

調査で見えた、いくつかの冷たい数字

今回の調査では、公式に「四天王」と呼ばれる集団、作中では別名だが実質的に四天王ポジションにある集団、そして四天王ミームをパロディ化した集団を分けて扱った。完全な全数調査ではない。あくまで代表性を重視したサンプリングである。とはいえ、この範囲だけでも、俗説の輪郭はかなり見えてくる。

四天王ステレオタイプについての検証項目とその結果

「最弱」は、作品の中よりも記憶の中にいる

いちばん意外なのは、やはり「最弱」問題である。あの有名な台詞のせいで、私たちは「最初に倒された四天王は、残りの三人から嘲笑される」と思いこんでいる。ところが、実際に調べてみると、この構図はさほど多くない。明確に最弱扱いされる例としては、『ギャグマンガ日和』の劇中劇『ソードマスターヤマト』、『NARUTO』の音の四人衆における次郎坊、『ジョジョの奇妙な冒険 Part2』のサンタナ、あるいは「四天王最弱」をタイトルにまで押し出すライトノベル的なメタ作品などが目立つ。だがこれは、全体から見れば少数派である。

なぜ、少数派なのに、これほど強烈な定番として記憶されているのか。答えは単純だ。人間は、物語をあとから整頓する。最初に倒されたものを「最弱だったから倒された」と理解すると、世界がたいへん見通しよくなる。実際には、最初の敵は主人公たちが全力でようやく倒した壁であることが多い。けれど後からもっと強い敵が出てくる。すると、最初の壁は相対的に低く見える。記憶というものは薄情である。かつて泣きながら登った山も、次の山脈が現れると丘にされる。

『FFIV』のスカルミリョーネを考えてみればいい。彼は「最弱」と嘲笑されるために出てきたわけではない。試練の山で、死霊を率い、倒されたあとに背後から襲いかかる、執念深い敵である。最初の一人であるがゆえに、まだプレイヤーは四天王の恐ろしさを知らない。だからこそ彼は、四天王とはこういうものだと、最初に身体へ刻みつける役割を持つ。最弱ではない。入門編である。入門編だからといって、易しいとは限らない。禅寺の門前で、いきなり棒で殴られるようなものだ。

『ドラゴンクエストVI』のムドーに至っては、もっと面白い。システム上のレベルだけを見れば、後続のジャミラス、グラコス、デュランより早い段階で戦う相手である。だがプレイヤーの記憶に残る絶望感では、ムドーが最も強い。夢と現実をかき乱し、主人公たちの記憶を奪い、序盤から中盤にかけて世界そのものを不安定にする。数字の上では最初の壁が低くても、物語の上ではその壁がいちばん暗い。ここで「最弱」とは、能力値の話ではなく、記憶の整理術にすぎないことが見えてくる。

ゴルベーザ四天王という、あまりにも美しい教科書

四天王の標準形を一つ挙げるなら、『ファイナルファンタジーIV』のゴルベーザ四天王でよいと思う。あれは、敵幹部の配置として出来すぎている。出来すぎているというのは、いささか腹立たしいほどである。土、水、風、火。属性があり、登場順があり、戦術があり、性格があり、そして最後には美学がある。

スカルミリョーネは土であり、アンデッドであり、死者の執念である。カイナッツォは水であり、変装であり、謀略であり、死後にも罠を残すしつこさである。バルバリシアは風であり、紅一点であり、高速と洗脳とテクニカルなバトルの相手である。そしてルビカンテは火であり、誇り高き武人である。彼は戦闘前にパーティを全回復させる。悪役が敵を回復してどうするのか。だが、そこがよい。彼にとって戦いは処理ではない。儀式であり、礼法であり、敵を敵として尊重することまで含めて自分の強さなのである。

この四人は、単なる中ボスではない。ゲームシステムを教える教師であり、物語の節目を作る鐘であり、敵組織に人格を与える器官である。カイナッツォのような卑劣漢がいれば、ルビカンテの武人性が映える。スカルミリョーネの死臭があれば、バルバリシアの風が異様に艶めく。四人はそれぞれ単独でも強いが、四人並べたときに、ゴルベーザという上位存在の支配領域が見えてくる。

ここで重要なのは、彼らが「四人の強敵」ではなく、「四つに切り分けられた世界」だということだ。地、水、風、火。プレイヤーはそれぞれの法則に対応しながら進む。つまり四天王を倒すとは、敵のHPを削ることではなく、世界を支配していたルールを一つずつ解除していくことなのである。

ポケモンリーグは、悪の組織ではなく試験会場である

四天王は必ずしも悪である必要はない。そのことを最もよく示すのが『ポケットモンスター』シリーズのポケモンリーグ四天王である。彼らは魔王軍ではない。世界を征服しない。むしろ制度である。認定機関である。言ってしまえば、国家試験である。

初代なら、カンナ、シバ、キクコ、ワタル。氷、格闘、ゴースト、ドラゴン。彼らはプレイヤーに、これまで学んできたタイプ相性、育成、技構成、アイテム管理、PP管理をまとめて提出させる。しかも連戦である。一人倒して町に帰り、宿屋で寝てからまた来る、という甘いことは許されない。四人を抜けた先にチャンピオンがいる。ここで四天王は、悪の幹部というより、ゲームがプレイヤーに課す卒業試験として機能している。

この点で、ゲームの四天王はきわめて機械的であり、同時にきわめて優しい。属性が分かれているのは、キャラ付けのためだけではない。プレイヤーに「さあ、ここまで学んだことをすべて使ってみろ」と言うためである。先生はたいてい嫌われる。だが卒業してから振り返ると、あの人は必要だったのだと分かる。ポケモンリーグ四天王には、その類いの厳格な親切がある。

少女マンガの四天王は、倒されるためだけに美しいのではない

一方で、『美少女戦士セーラームーン』のダーク・キングダム四天王は、ゲーム的な属性試験とはまったく別の方向に伸びている。ジェダイト、ネフライト、ゾイサイト、クンツァイト。彼らは、敵でありながら、怪物ではない。美形である。しかも、ただの美形ではなく、悲劇を引き受けるための美形である。

ジェダイトは失敗によって処罰される。ネフライトは大阪なるとの関係を通じて、敵幹部でありながら愛され、そして死ぬ。ゾイサイトとクンツァイトには、アニメ版において強い愛憎劇が与えられる。ここでは四天王は、ラスボスの格を上げるだけの階段ではない。視聴者に、敵を憎むだけでは済まない感情を教える装置になる。

少年マンガやRPGの四天王が「攻略される門」であるなら、少女マンガ/アニメ的な四天王は「哀惜される影」である。彼らは死ぬ。だが死ぬことで、敵の世界にも愛や忠誠や嫉妬や孤独があったことを残していく。倒したから終わりではない。倒したあと、少しだけこちらの心に残る。その残り香が、敵幹部を単なる障害物からキャラクターへ変える。

脳筋、策謀、武人、そして「異質枠」

調査で最も強く確認できたのは、「最弱」ではなく、役割分担である。四十組のうち三十組、つまり七五パーセントで、四人のあいだに精神的・戦闘的な役割の分担が見られた。これはかなり高い。

たとえば、力で押す者がいる。罠や精神攻撃を使う者がいる。正々堂々とした勝負を好む武人がいる。そしてもう一人、分類しづらい者がいる。従来なら、ここを「紅一点」と呼んできた。もちろん、バルバリシアや蛇崩乃音のように女性キャラクターがこの位置に置かれることは多い。だが、この枠を単に女性枠と呼ぶと、肝心なところを取り逃がす。

正しくは、「異質枠」である。毒、幻術、速度、洗脳、変装、狙撃、狂気、性別不詳、怪物性、子供性、あるいは妙に笑える奇矯さ。異質枠は、バトルのルールをずらす。腕力と腕力、気合と気合の正面衝突ではなく、違うゲームを始める。まともな将棋を指していたら、突然オセロの石を置いてくるような連中である。迷惑だが、いないと物語は退屈になる。

四天王における四番目の席は、しばしばこの「ルール破り」のために空けられている。力、知略、誇りだけでは、世界は三角形で閉じてしまう。そこに、毒や風や幻術や妖艶さが入ることで、四角形になる。物語は少し歪み、そして豊かになる。

少年マンガの四天王は、連載を呼吸させる

マンガにおける四天王は、しばしば連載の呼吸である。『幽☆遊☆白書』の四聖獣は、その典型だ。玄武、白虎、青龍、朱雀。迷宮城という舞台で、主人公側の四人がそれぞれ関門を突破していく。ここでは四天王は、物語の空間を階層化し、各キャラクターのお披露目会を用意する。蔵馬と飛影が、どれほど危険で、どれほど頼もしい存在なのかを、読者はこの構造の中で理解する。

また、白虎が敗れたあと、青龍が同僚を処刑し、その青龍を飛影が瞬殺する流れは、四天王構造がいかに効率よく「敵の冷酷さ」と「味方の強さ」を同時に見せるかを教えてくれる。四天王は、敵側の社内風土まで説明してくれるのである。福利厚生は悪い。業績不振者には氷の人事異動が待っている。

『NARUTO』の音の四人衆になると、「最弱」ミームにかなり近づく。次郎坊は左近から明確に軽く扱われる。しかも、サスケ奪還編において、主人公側の下忍たちがそれぞれ限界突破を見せる相手として機能する。ここでは四天王的集団が、味方の成長を一対一で可視化するための舞台になる。四人の敵がいるから、四つの成長が書ける。これは連載マンガにとって非常に都合がよい。都合がよいものは、しばしば美しい。

そして『ジョジョの奇妙な冒険 Part2』の柱の男たちは、また別の意味で見事である。サンタナはカーズたちから「番犬」や「青二才」と見なされる。つまり、彼だけは明確に格下であり、実質的には「四天王最弱」構造のかなり純度の高い事例である。ただしジョジョは、その最弱枠すら、単なる前座にしない。サンタナは人類と柱の男のスケール差を示す実験台であり、恐怖の入口である。四天王的構造は、ここでも、敵の全体像を一気に見せず、少しずつ皮を剥ぐための仕掛けとして働いている。

なぜ四人なのか。三人では足りず、五人では余る

ここで、少し理屈の話をする。四天王が便利なのは、四という数が、キャラクターの把握にとってちょうどよいからである。認知心理学にはサブタイジングという概念がある。ごく少数の対象を、数え上げなくても一目で把握できる能力で、成人ではおおむね一から四程度の範囲が速く正確に処理されるとされる。もちろん、四天王人気をサブタイジングだけで説明するのは乱暴だ。だが、四人という単位が、受け手にとって「見える」数であることは大きい。

三人組は分かりやすい。だが分かりやすすぎる。リーダー、力、知恵。これで終わってしまう。五人組になると、戦隊のように華やかだが、一人ひとりに与える時間が薄くなる。十本刀や護廷十三隊や十二神将になれば、もはや名前を覚えること自体が修行になる。そこへいくと四人は、秩序と個性の境目にいる。多すぎず、少なすぎず、ちょうど悪の組織に見栄を張らせるだけの人数である。

物語論で言えば、ウラジーミル・プロップが昔話を登場人物の心理ではなく「機能」の連鎖として読んだように、四天王もまたキャラクターである以前に機能である。彼らは試す者であり、妨げる者であり、主人公を次の段階に押し上げる者である。ジョーゼフ・キャンベルの英雄の旅に引きつければ、四天王は「閾値の守護者」である。安全な日常から未知の領域へ進む英雄に対し、ここから先へ行く資格があるかを問う。

だから四天王は、敵でありながら教師でもある。スカルミリョーネは不意打ちを教える。カイナッツォは謀略を教える。バルバリシアは戦術の工夫を教える。ルビカンテは、敵にも誇りがあることを教える。授業料は高い。たいてい命で払う。だが主人公は、その授業を受けなければラスボスの前に立てない。

仏教の四天王は、最後に効いてくる

ここまで来て、ようやく原典の話をしてよい。四天王とは、もともと仏教において須弥山の四方を守護する存在である。東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天。中央の聖なる秩序を、四方から守る者たちである。

この構造は、現代のフィクションにおける魔王軍四天王と驚くほど相性がいい。中央に魔王がいる。四方に幹部がいる。それぞれが自分の領域を持ち、配下を率い、主人公の進行を阻む。仏教的な四方守護は、魔王城のマップとして転用されても違和感がない。いや、むしろ違和感がなさすぎる。長い時間をかけて人間の想像力に刷り込まれた空間把握の型が、ゲームのダンジョン設計やマンガの敵組織設計に、こっそり住みついている。

日本ではさらに、頼光四天王、徳川四天王のように、「一人の大物を支える四人の精鋭」という言い方が世俗化した。ここで四天王は、宗教上の守護神から、武将の側近、芸能やスポーツの実力者、そして魔王軍の幹部へと変貌していく。ありがたい仏様も、長旅をすると悪の幹部になる。文化とは、だいたいそういう図々しい乗り換えでできている。

余談だが、原典の四天王で「やつは四天王の中でも最弱」と言いそうなのは、たぶん広目天である。持国天が東門で敗れたとき、増長天は怒って立ち上がる。多聞天は黙って聞いている。広目天だけが、すべてを見て、記録し、冷静に嫌なことを言いそうだ。ただし、仏法に序列はない。だから彼はこう言うだろう。「ふ、やつは四天王の中でも最も東に位置する者」。ひどい。だが、ギリギリ罰は当たらない。(※)

※AIが出力したこの部分はおそらく何かしらのギャグだと思われるのですが、少なくとも私の知能では理解できなかったので質問をしました。

Q. これはおそらく笑いどころなのだと思うのですが、仏教に詳しくなく、どのように面白味を感受すればよいかわかりません。説明をお願いして良いですか?

ギャグに対して平熱で説明を求めるのは極めて残虐な行為だとは思うのですが、ChatGPTは寛容なので真摯に回答してくれました。

A. はい。ここは、仏教知識そのものというより、少年マンガ的な悪役台詞と、仏教的な非序列性を無理やり接続した乾いたギャグです。
まず前提として、原典的な四天王には「誰が最弱か」というランキングはありません。四天王は、東西南北をそれぞれ守る護法神です。一般的には、東=持国天、南=増長天、西=広目天、北=多聞天という配置ですね。つまり、彼らは強さの序列で並んでいるのではなく、方角によって役割が分かれている。
そこで、少年マンガの定型なら、誰かが倒された瞬間にこう言うわけです。
「ふ、やつは四天王の中でも最弱」。
しかし仏教的には、そんなことを言うのは少しおかしい。四天王はそれぞれ別の方角を守っているのであって、「一番弱い者から順に配置されている」わけではないからです。
だから、あの文章では、その定型句をこうズラしています。
「ふ、やつは四天王の中でも最も東に位置する者」。
これはつまり、「最弱」と言いたいところで、序列を避けた結果、ただの地理情報になってしまうというギャグです。
面白味は、かなり乾いています。
「最弱」と言えば、そこには悪役らしい侮蔑、冷酷さ、マウンティングがあります。
でも「最も東に位置する者」と言った瞬間、それはただの方角確認になる。
悪の組織の会議室で、ものすごく重々しく、どうでもいい地理的事実を述べているだけになる。
そこにズレがあります。
しかも「最も東に位置する」という言い方が妙に固い。
感情がない。
官僚的ですらある。
本来なら「魔族の面汚しよ」と続くはずの場面で、「東ですね」と言っているようなものです。
最後の「ひどい。」は、そのギャグへのセルフツッコミです。
「これはうまいことを言ったのではない。あまりにしょうもないことを、もっともらしく言ってしまった」という笑いです。
つまりこの一文は、四天王ミームを仏教的に正しくしようとしたら、ギャグとして死ぬほど弱くなったという笑いです。そしてその弱さこそが、笑いどころです。
ただ、読者に伝わりにくい可能性はあります。ブログ本文では少しだけ補助線を足したほうが親切ですね。たとえば、こうすると分かりやすくなります。
「ただし、仏法に序列はない。四天王は強さ順に並んでいるのではなく、東西南北をそれぞれ守っているだけである。だから彼はこう言うしかない。「ふ、やつは四天王の中でも最も東に位置する者」。もはや悪口ではない。ただの地理である。ひどい。」
このくらい足せば、笑いの構造はかなり伝わりやすくなります。


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なんか普段の出力量に比べると三倍くらい一生懸命語っているように感じるのですが、これは多分私の感情移入に基づいた錯覚でしょうね。意図は理解できましたが、AIギャグは人間にはまだちょっと早いのかな、というのが所感です。

四天王は、悪を秩序化する

結局、四天王とは何なのか。答えは、強敵の数ではない。四天王とは、悪を秩序化する装置である。

ザコ敵は混沌である。ラスボスは超越である。そのあいだに四天王がいる。彼らは悪の世界を、四つの門、四つの属性、四つの人格、四つの試練に分割する。そうすることで、読者やプレイヤーは、恐怖を理解可能な形で受け取ることができる。悪の組織に四天王がいるとき、その悪は単なる暴力ではなく、行政区画を持つ。なんとも嫌な話だが、秩序ある悪ほど手強いものはない。

そして四天王は、ラスボスの強さを直接見せずに見せる。ラスボス自身がまだ動かなくても、その周囲にこれだけの強者がいるなら、奥にはもっと恐ろしいものがあるはずだと分かる。四天王は、ラスボスの影である。影が濃いほど、本体は大きく見える。

だから「やつは四天王の中でも最弱」という台詞は、半分は嘘で、半分は真実である。嘘なのは、実際の作品ではそれほど頻繁に言われていないからだ。真実なのは、私たちが四天王という形式を見た瞬間、すでにその先にもっと強い敵がいると知ってしまうからだ。最初に倒された者は、本当に弱かったのではない。物語の構造上、あとから弱く見える場所に立たされていたのである。

彼らは気の毒だ。だが、気の毒だからこそ美しい。四天王は、敗北するために生まれた強者たちである。彼らが一人ずつ倒れるたび、世界は少しずつ開く。主人公は強くなる。ラスボスの影は濃くなる。そして読者は、次の扉の向こうにいる誰かを待つ。

四天王とは、物語が読者に差し出す四つの約束である。まだ終わらない。まだ強くなる。まだ世界には奥がある。そして最後には、中央にいる何者かと対面しなければならない。

だから私たちは、何度でも四天王に弱い。彼らが最弱だろうが最強だろうが、そんなことは本当はどうでもいい。問題は、四人いることだ。四人いるだけで、物語は急に城を持ち、方角を持ち、階段を持ち、こちらを待ち受ける顔を持つ。

そこに、いかにもくだらない、しかし抗いがたい快楽がある。(了)

付記:主な参照作品・理論的補助線

本稿では、代表的な四天王/四天王的集団として、『ファイナルファンタジーIV』ゴルベーザ四天王、『ポケットモンスター』シリーズのポケモンリーグ四天王、『美少女戦士セーラームーン』ダーク・キングダム四天王、『幽☆遊☆白書』四聖獣、『ロマンシング サガ3』四魔貴族、『ドラゴンクエストVI』デスタムーア四魔王、『NARUTO』音の四人衆、『ジョジョの奇妙な冒険 Part2』柱の男、『ギャグマンガ日和』劇中劇『ソードマスターヤマト』などを中心に扱った。

理論的補助線としては、ウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』における登場人物の「機能」分析、ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』の英雄の旅、ゲームデザインにおけるレベルデザイン/ボス戦/リソース管理、認知心理学におけるサブタイジングの議論、仏教における四天王信仰、および日本文化における「○○四天王」という称号の世俗化を参照した。

なお、調査対象は完全な全数調査ではなく、代表性と分析上の有用性を重視した類型論的サンプリングである。したがって統計値は、アニメ・マンガ・ゲーム全体に対する厳密な出現率ではなく、「四天王ステレオタイプ」を考えるための比較用の目安として読むべきである。

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