祖母がくれた常識はずれな自己肯定感
私が家族のうつ病や不登校に必死で向き合っていた頃、「正しいことをしていればOK」と信じていました。
でもその思い込みは、家族を追い詰めていたと気づいたのはずっと後です。
思えば、子どもの頃から母に「あなたはそれでいいよ」と言われた記憶はほとんどありません。
でも、一度だけもらえた“無条件のOK”があります。
それは母ではなく、型破りで、ちょっと非常識な祖母からのものでした。
今回は、祖母の常識はずれな方法で私が肯定された記憶をお話します。
カウンセラーになるまでの私
わたしはカウンセラーとして、人の心の回復を支える仕事をして10年ほどになります。
その前は、家族のうつ病や不登校に振り回され、「なんとかしなきゃ」と必死でした。
心療内科やカウンセリング、整体、食事療法…思いつく限りの方法を家族に試し、なんとか回復してもらおう、学校に行けるようになってもらおうと無我夢中でした。
当時、
「正しいことをしていれば私はOKなんだ」
という思い込みが、家族を追い詰めていたことに気づけませんでした。
必死でやっていたことは、自分の心の奥底にある
「私は正しいよね?」という不安感をかき消すための行動だったのです。
その根っこにあったのは、母から一度も「OK」をもらえなかった記憶でした。
母の返事はいつも4つだけ
私が何か相談すると、母から返ってくるのは、
「ふーん」
「すきにすれば」
「どっちでも」
「くっさー」
の4つだけ。
思い返せば、母との会話はほとんど成立していません。
声は平坦で、目も合わせない。
ただ、私を怒鳴るときだけは、母の目が三角になって鋭くわたしを見据えます。
そして話は、いつの間にか「自分がどれだけ大変か」という愚痴にすり替わっていました。
一緒に服を選んでほしいときも、
レストランで「これ食べたい」と言ったときも、
高校卒業後に家を出たいと伝えたときも――
返事は全部「ふーん」か「すきにすれば」。
私に関心がないのか、それとも関わりたくないのか…。
答えはわからないまま、ただ「母にとって私はどうでもいい存在なのかもしれない」という漠然とした不安だけがありました。
対照的だった祖母
そんな母とは正反対の存在が、父方の祖母です。
祖母は喜怒哀楽がはっきりしていて、大げさなくらいわかりやすい反応を示す人でした。
私が学校であった出来事を話せば、食卓で手を止めて
「ほんで?ほんで?」と聞き入り、
「そいつ悪いやつやな」などとはっきりと意見を返してくれます。
祖母は、自分の年金が入る少し前から「何がほしい?ほしいもん買うたるで」と聞いてくれて、
母なら絶対に買ってくれないような、かかとの高いサンダルやヨーヨーを買ってくれました。
外孫にも同じようにするので、あっという間に年金はなくなり、そうなると祖母はしょぼーんとしています。
そんな祖母を見て母は、
「手にくっついた餅を、ふりはらうようにお金をつかう人や」
と皮肉を言っていました。
祖母のやり方は無計画だったかもしれません。
当時、私は日常の中で「必要とされていないんじゃないか?」という不安を抱えていました。
でも祖母のなにげない行動により「私は、おばあちゃんから認められている」と、嬉しい気持ちになったのです。
非常識だけど忘れられない「砂糖対決」
ある日、母が出かけていたときのこと。
祖母が急に、こう言い出しました。
「どっちが濃い砂糖水を飲めるか勝負しよう」
ルールは簡単。
お茶碗にスプーン1杯の砂糖を水で溶かして飲みほし、次のラウンドでは砂糖をさらに一杯増やす。
飲めなかった人は、勝った相手に「参りました!」と頭を下げる。
床に座り、砂糖の袋やお茶碗も床の上。
不潔だとか、こぼれるなんて概念は祖母にはありません。
私たちは順番に砂糖水を一気飲みしていきました。
勝負の結果は、私の勝ち。
祖母は「まいりましたーーー!」と大げさに土下座をしてくれました。
その瞬間、胸の中がすっと軽くなったことを覚えています。
祖母がいってくれた「まいりましたーーー!」は私の幼少期の中で、数少ない“無条件のOK”でした。
承認は立派な場面でなくてもいい
あの砂糖対決は、母に知られたら間違いなく叱られる非常識な遊びでした。
けれど私にとっては、何よりも心を満たしてくれる時間でした。
承認や「OK」は、必ずしも立派な場面でなくても届くもの。
それは、相手がこちらをちゃんと見てくれていると感じたときに生まれます。
祖母は、常識的ではなかったかもしれません。
でも、私の存在を丸ごと受け止めてくれる人でした。
「OK」の贈り方
安心は、特別な言葉や立派な場面でなくても、ふとした瞬間に届けられます。
たとえば、誰かが話しているとき、つい途中で自分の意見を挟みたくなることはありませんか。
けれど、一度その言葉の最後まで耳を傾けてみる。
それだけで、相手は「ちゃんと聞いてくれている」と感じることができます。
そして何かを判断するときは、「正しいかどうか」よりも「その人らしいかどうか」を軸にしてみる。
それが小さな承認の積み重ねとなり、相手の自己肯定感をそっと支えていくのだと思います。
会いたくても会えない人
祖母にはもう会えません。
けれど、あの「まいりました!」の笑顔と胸の中がすっと軽くなった感覚は、今も私の中に生きています。
もし今の私を見たら、今度はどんな勝負を挑んでくるのでしょうか。笑
そんなことを想像すると、気持ちがウキっとします。
そして、今度は私が誰かにその「OK」を贈る番です。
これまで以上に、私は誰かの心を軽くできる瞬間をつくれる人でありたいです。
