空気を読む癖がやめられない
感情を止める「一拍」のクセ
幼少のころから、ふっと空気が止まる瞬間がある。
「今、笑っていいのかな?」
「これを言ったら、怒られるかもしれない」
ほんの一瞬、感情を止め、自分を振り返ります。
その“ま”が、毎日の中に何度も何度も入り込んでくる。
笑う前に、一拍。
泣く前に、一拍。
何かを言う前に、一拍。
それはただの沈黙ではなく、今、自分がどうすれば受け入れられるか?を瞬時に考えている。
拒絶されるんではないか?とおもう怖さを、ぐっと飲み込む瞬間。
日常のなかに忍び込む“怖さ”
食卓でスプーンを落としたとき。
テレビで面白い場面を見たとき。
ふざけて歌ったとき。
隣の友だちが笑ってるのに、自分だけが凍りつき、
自分の反応を止めて、心の中にいる親の顔色を見てしまう。
「これ、怒られるかな」「大丈夫かな」「間違ってないかな」
そうして、笑いも、驚きも、悲しみも、思いやりも、全部
どこかよそゆきのふるまいになっていくーーー
出すこと自体が「怖い」感情
本当は泣きたかったときもあるし
本当は怒りたかったときもあったのに、
それを出したらどうなるか、何度も何度も経験して知ってるから、
出すこと自体が、怖い。
「空気で察する」が当たり前の家
家の中には、言葉にされないルールがあった。
親の不機嫌な沈黙や
急に強くなる視線など。
子どもの頃のわたしにとって、その“雰囲気”を読むのが当たり前。
そして、自分の気持ちはだんだん、どこか遠くへ追いやられていく。
否定されることへの恐怖
「わたしを不安にさせないで」
「そんな顔するな」
「いい子でいて、騒がないで」
そう言われているかのうような親のそぶりに、
本当の自分を“出すこと”自体が間違っているように思い込む。

沈黙こそが、一番こわかった
一番怖いのは、叩かれることよりも、大人の沈黙。拒絶。
何も言わないけれど、ぜんぶ見透かされているような、あの気配。
後ろ姿であったとしても、気配を感じると自分の心がすうっと冷えていく感じ。
どこにもない「正解」を探して
怖いのは、正解のない空気を読むこと。
怖いのは、言った後の「何か」がくる予感。
怖いのは、怒鳴られることじゃなくて、
怒鳴られるまでに続く、あの、耐えがたい長い沈黙。
否定されるのが一番怖かった
「どっちでもいいよ」
「ふーん。」
何を答えても、正解じゃないことはわかる。
また、後から拒絶されるんじゃないか?と
怖くて、答えられない。
でもそれもまた怒られる。
どうしたって逃げ道がない。
「自分らしく」なんて、知らなかった
「自分らしくしていい」なんて言葉は、わたしは知らなかった。
自分らしくすれば、拒絶、無視、否定される。
それを何度も味わってきた。
だから、本当の気持ちの出し方がわからない。

学校でも、気持ちを隠していた
学校でも同じ。
家庭の話をしようとすると、変に思われる。
家のルールが、他の子と違いすぎて、笑えない。
流行りものも知らない。
楽しかったことがないわけじゃないけど、
それを語ろうとすると、何かが引っかかる。
「こんなこと話していいのかな」
「バカにされるんじゃないかな」
自分の話をするのが、怖いし、
自分の感情を外に出すのが、怖い。
ただ、怖かった
気がづけば、誰にも本音を言っていないし、
誰にも、ほんとうの「わたし」を知られていない。
でも、それでいいって思ってあきらめてた。
沈黙と演技の中で、息を潜めてきた。
でも本当は、ずっと前から怖くて、それを言える場所がなかったんだ。

