【日めくり短編 120】 虎のとなり
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
七月二十九日、午後二時。みやこ食堂の壁の温度計は、店の中で三十四度を指していた。
昼の客が引けて、わたしは油のはねた鉄板をようやく拭き終えた。扇風機が首を振るたび、めくれかけたお品書きの端がぱたぱたと鳴る。カレーライス、七百円。この店に嫁いでから四十年、値段だけは何度も書き替えてきた。
棚の上では、埃をかぶった張り子の虎が、風の来るたびに、こくり、と頷いていた。
のれんをくぐって、湊が入ってきた。小学四年生の孫である。麦わら帽子のつばを握りしめて、汗で前髪を額に貼りつけて、それでもいちばん奥のカウンター席に、いつもの通り座った。
「おばあちゃん、カレー」
「返事が短いなあ。何かあったんか」
「ない」
何かあるとき、子どもはたいてい「ない」と言う。わたしは鍋の火をつけて、麦茶を出した。飲みっぷりを見ていると、腹を立てているというよりは、しゅんとしているのがわかる。
カレーを皿によそって、端に福神漬を添えた。赤や茶の細切りが、皿の縁に沿って細い月の形に並ぶ。
「これ、いらん」
湊は箸の先で福神漬をはじいて、皿の縁に押し出した。
「あかん。それが乗ってて、はじめてうちのカレーやねん」
「なんで。カレーが主役やろ」
「湊、自由研究、どないなった。虎やろ」
スプーンが止まった。それから、堰が切れたみたいに、湊は喋りはじめた。
図書館で借りた本を五冊読んだ。百年前は十万頭いたのに、いまは五千頭もいない。森が切られて、獲物のシカがいなくなって、毛皮や骨を狙った密猟がある。そういうことをノートに三ページ書いて、友達に話した。
「そしたら、『そんなんより阪神の話しよや』って。虎の話やったら阪神のほうが強いって、みんな笑うねん。虎の絵本もいっぱいあるやん。強いやつ、こわいやつ、いっつも主役やん。なのに、なんでそんなに少ないん。主役やのに」
湊は麦茶のコップを両手で包んで、それから、ずっと小さい声で言った。
「もう虎やめよかな。カブトムシにしとこかな」
わたしは、返事を持っていなかった。だから、手を動かした。
夜の定食の下ごしらえが残っていた。冬瓜の皮をむいて、種をこそげて、鶏と炊く。鍋に水を張って、白だしの瓶を傾ける。
「湊、こっち見てみ」
湊が首を伸ばした。鍋の湯は、ほとんど色が変わらない。うすい琥珀が、水にすうっと溶けていくだけである。
「これ、白だし。色はつかへんけど、入れんと味にならへん」
「ふうん」
湊は鍋をのぞきこんで、それから、まったく別のことを訊いた。
「なんで冬瓜って、冬ちゃうのに冬瓜なん」
「知らん」
わたしは布巾で手を拭いた。皿の縁に押し出された福神漬は、まだそこにある。
「あんた、それの名前、知ってるか」
「福神漬やろ」
「なんの福神やと思う」
「知らん」
「七福神の福神や。野菜が七つ入っとるから、七福神に見立てたんやと。大根、茄子、蓮根、胡瓜、なた豆……あと二つ、なんやったかな。一つずつ食べたら、なんちゅうこともないもんや」
「ふうん」
「ほんで、七福神のなかに、毘沙門天さんがいてはる」
わたしは棚の上に手を伸ばして、張り子の虎を下ろした。首のところがばねになっていて、置くと、なかなか止まらずに頷きつづける。塗りは剝げて、黄色いところが白っぽくなり、縞の赤茶も薄れていた。
「これ、虎の置物やん。うちにあったっけ」
「ずうっとあったわ。信貴山のや。おじいちゃんが店を始めたときに買うてきた」
「なんで虎なん」
「毘沙門天さんが、寅の年の寅の日の寅の刻に現れたとかで、虎に縁があるんやと。首がよう回るから金も回る、商売も回る。……おじいちゃんの受け売りやから、ようは知らん」
湊が張り子を指で押した。虎が、こくり、こくりと頷いた。
「……七福神のなかに、虎がおるってこと?」
「おるというか、縁のある神さんがいてはる。ほんでその七福神が、あんたが皿の端に押し出したもんの名前になっとる」
「そんなん、こじつけやん」
「そやな。こじつけや」
わたしはうなずいた。
「けどな、その虎、あんたが生まれる前からそこに座ってるで。誰も気にせえへんけど」
湊は、長いあいだ黙っていた。扇風機の音だけがしていた。それから箸を持ち直して、福神漬をひとつ、口に入れた。次に、カレーをすくった。もうひと口、漬物を食べた。
「……これ、あったほうがうまい」
「せやろ」
「なんで? 辛いのが、辛いままやのに」
「理屈はわたしも知らん。ただな、これ抜いた皿を出したら、客がみんな『なんか足らん』言うねん。何が足らんかは、誰も言えへん」
湊はノートを開いて、鉛筆を出した。表紙の題は〈トラのひみつ〉だった。彼はそれを二重線で消して、書き直した。
〈トラのとなりにあるもの〉
「森と、シカと、通り道のこと書く。あと、密猟のこと。……森なかったら、トラもおられへんもんな」
わたしは返事をしなかった。かわりに、麦茶を注ぎ足した。
湊のカレーは、あとひと口ぶんになっていた。皿に残っているのは、黄土色と、その端の赤と茶である。
のれんが鳴って、市場から戻ったおじいちゃんが、氷を抱えて入ってきた。
「暑いのう。何の話や」
「虎の話」
「阪神か」
「ちがう」
湊がすぐに言い返したので、わたしは思わず笑ってしまった。おじいちゃんは首をかしげたまま、氷を流しに落とした。
鍋の冬瓜が、うっすらと透きはじめていた。色はほとんどついていない。夜、これを出したら、客は「今日の煮物、上品やな」と言うだろう。
カウンターの上で、虎がまだ、こくり、と頷いていた。
原案:Y
執筆:Claude
今日は何の日?
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福神漬の日

カレーライスの横に添えられた福神漬は、決して大きな存在ではありません。それでも、甘辛い味と軽やかな歯ざわりが加わることで、いつものカレーがどこか完成された一皿になります。
7月29日の「福神漬の日」は、福神漬や漬物、総菜などを製造する株式会社新進が制定し、日本記念日協会に登録した記念日です。
日付は、福神漬の名称と関係の深い七福神にちなみ、「7」を「しち」、「29」を「ふく」と読む語呂合わせから選ばれました。
制定の目的には、カレーライスの名脇役として親しまれてきた福神漬の食文化を受け継ぐこと、カレー以外の料理にも利用を広げること、福神漬を通して野菜を食べる機会を増やすことなどが掲げられています。また、カレーの需要が高まる夏休みに、子どもたちにも福神漬を添えて食べてもらいたいという思いが込められています。福神漬の名称の由来には複数の説があり、さまざまな野菜を七福神になぞらえたという説などが紹介されています。身近な付け合わせから、日本独自のカレー文化や漬物の知恵に目を向ける日です。
「福神漬の日」は、福神漬を単なるカレーの脇役として見るのではなく、日本の食卓に根づいた一つの食文化として味わい直す日です。チャーハンやオムライスなど、カレー以外の料理との組み合わせを試してみると、小さな漬物の新しい魅力が見えてきます。なお、制定年は株式会社新進の公式ページでは確認できないため、断定を避けるのが適切です。
白だしの日

煮物や吸い物の色を濃くしすぎず、素材の味わいや彩りを生かしてくれる白だしは、現代の家庭料理を静かに支えている調味料の一つです。
7月29日の「白だしの日」は、白しょうゆや白だしを製造する愛知県の七福醸造株式会社が制定し、日本記念日協会に認定された記念日です。
日付は、同社の「七福」を「ヒチフク」と読むことから、「ヒチ」を7、「フク」を29に当てた語呂合わせに由来します。
七福醸造は、白しょうゆにだしを加えた調味料「白だし」を日本で初めて開発し、1978年に製造・販売を始めたと説明しています。白だしを身近に感じてもらい、その魅力や使い方を広めることが、この日の大きな目的です。同社では地域の人々を招く「白だしの日まつり」も行い、白だし料理の紹介などを通して地域との交流を重ねてきました。料理の色を大きく変えずに味を整えられる白だしには、見た目の美しさや季節感を大切にする日本料理の感覚も表れています。
「白だしの日」は、普段何気なく使っている調味料の成り立ちや、地域の醸造文化に目を向ける日です。だし巻き卵や吸い物、煮びたしなどを作り、素材の色とだしの香りをゆっくり味わう日にできます。なお、「日本で初めて開発した」という説明は、制定元である七福醸造の公式情報に基づく表現として扱うのが適切です。
世界トラの日

力強さや威厳の象徴として、アジア各地の物語や美術に描かれてきたトラ。しかし、野生のトラは、人間の活動によって生息地や命を脅かされ続けています。
7月29日の「世界トラの日」は、絶滅の危機にある野生のトラの現状を知り、その保全について考えるための国際的な啓発日です。2010年にロシアのサンクトペテルブルクで開かれた世界トラ保護会議、通称「トラサミット」を背景に設けられました。この会議にはトラの生息国や支援国、国際機関などが参加し、次の寅年に当たる2022年までに野生のトラの個体数を倍増させるという国際目標が掲げられました。
野生のトラを脅かしている主な問題には、森林の減少や分断、密猟、毛皮や骨などの違法取引があります。トラを守るためには、動物そのものだけでなく、獲物となる生き物や広大な森林、人々の暮らしを含めた生態系全体を守らなければなりません。遠い国の問題として眺めるのではなく、木材、紙、パーム油など、日常の消費と森林環境とのつながりを考える日にできます。
「世界トラの日」が伝えるのは、一種類の希少動物だけを保護するという話ではありません。トラが生きられる森を未来へ残すことは、その地域の多様な生き物や、森とともに暮らす人々を守ることにもつながります。力強さの象徴であるトラが、実際には人間の協力を必要としているという現実を知り、自然と消費の関係を見直す日です。
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