【日めくり短編 137】 浮いてくるまで
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
一
十三日の夕方、店の勝手口の前で麻幹(おがら)を焚いた。
素焼きの皿に井桁に組んだ細い茎へ火を移すと、乾いた音を立てて燃えた。煙は細くまっすぐ立ちのぼり、軒の高さでほどけて、裏の畑のほうへ薄く流れていく。西の山の稜線だけが、まだ赤かった。八月の伊那谷は、日が落ちてもしばらくのあいだ熱を手放さない。
「これ、なんのため」
杏が皿のそばにしゃがんで訊いた。小学六年になって、しゃがみ方だけが妙に大人びた。
「道が暗いと、迷うでしょう」
「誰が」
「お客さん」
杏は「ふうん」と言って立ち上がり、暖簾をくぐって店へ戻っていった。中から扇風機の首が回る音がする。
真柴千歳は、火が細るまでそこにしゃがんでいた。
まるみ食堂。丸に「み」の字を染め抜いた暖簾は、祖母のミツの名から来ている。カウンターが六席、小上がりに卓が三つ。昼は日替わり定食、夜は瓶ビールと煮物と焼き魚。冬は鍋物も出す。祖母が死んで八年、母が腰を痛めて厨房に立たなくなって五年になる。いまは千歳と、週に三日来てくれる隣の集落の敏子さんとで回している。
千歳はもともと東京の会社にいた。杏を連れて戻ってきたのが七年前で、そのときは半年のつもりだった。
春に地区公民館から話が来たとき、千歳は断る理由を五つ数えた。人手がないこと。公民館の厨房を知らないこと。盆の入りで店も忙しいこと。断っても誰も責めないこと。そして、自分がこの地区の何者でもないこと。
五つ目が、いちばん断る理由にならなかった。
火が消えたころ、店の電話が鳴った。館長の小柳さんだった。
「真柴さん、十五日の件だけどね。ほんとに、いいのかい」
「もう受けましたから」
「材料費はこっちで出すで。人手も、老人会から二人か三人は出るように言っとくで」
「大丈夫です」
「悪いなあ」と小柳さんは言った。「婦人会が畳んじまったもんで、他に頼むとこがのうてなあ」
日向沢地区の「平和を祈念するつどい」は、千歳が生まれるよりずっと前から続いている。公民館の講堂に地区の者が集まり、正午に黙祷をして、それからすいとんを食べる。作るのは長らく婦人会の仕事だった。その婦人会が、この春に解散した。最後の会長が八十七だった。
受話器を置いて店に戻ると、杏がカウンターの端で宿題を広げていた。定席は空いている。壁に肘の置ける、いちばん奥の席だ。
二
十四日の午前、小柳さんが紙を一枚持ってきた。
ガリ版刷りのものを何代にもわたってコピーし続けたらしく、文字の輪郭が綿のようにほどけている。表題は「戦時下の代用食 すいとん 作り方」。
材料は四つしか書いていなかった。小麦粉。水。塩。大根の葉。
出汁の項目は、ない。
いちばん下に、一行だけ、活字と違う字があった。もともとは余白に手で書き込まれたものらしい。コピーを重ねるうちに紙の一部になってしまったのだろう、輪郭のほどけ方がその一行だけひどかった。
(決しておいしく作らぬこと。当時の苦しさを子供らに伝えるため)
千歳がその一行を二度読んでいるところへ、沖源三が入ってきた。
九十四になる。もとは製材所に長く勤め、その前は生家の養蚕を手伝っていた。腰は曲がっているが自分の足で歩いてくる。カウンターのいちばん端の、壁に肘が置ける席が定席で、夏は冷やしたぬきしか頼まない。
「それ、なんの紙だ」
千歳が渡すと、沖さんは老眼鏡を出した。
読み終わるまでが、思っていたより長かった。紙を持つ手が、途中で一度、下がった。
「まずく作れ、か」
「毎年これで作ってたみたいで」
「馬鹿くさい」
沖さんはコップの水を飲んだ。喉仏が大きく動いた。
「なあ真柴さん。すいとんてのは、もともとご馳走だに」
「ご馳走」
「粉が高かったからな。麦が採れて、粉に挽いてもらって、それでようやく食える。祝い事のときとか、蚕が上がったあとの骨休めとか、そういうときのもんだ。うちのおっかあが作るのは、煮干しの出汁に、里芋と大根と葱が入っとった。うまかったに。子供の時分、あれが出ると兄弟で騒いだもんだ」
千歳は黙って聞いていた。
「戦争中のはな、あれはすいとんじゃない」沖さんは言った。「粉なんぞ、まともなもんは回ってこん。ふすまだ、糠だ、大豆の絞りかすだ。ひどいときは芋の蔓を叩いて混ぜた。練っても繋がらんのだ。汁に落とすとその場でほどけて、ただの粉の湯になる。椀の底に、ざらざらしたもんが沈む。あれは、汁だ。団子じゃない」
「……そういうのを、再現するってことじゃないんですか」
「そうだろうさ」
沖さんは老眼鏡をたたんで、胸のポケットに入れた。
「だがな。まずいもんをわざわざ作って、まずいまずいと言わせて、それがなんの弔いになる」
声は荒くならなかった。ただ、指の関節がカウンターの縁を一度だけ叩いた。
「うちのおっかあはな、毎日、まずいもんをどうにか食えるようにしようとして、死ぬ気でやっとった。塩を減らして、菜っ葉を刻んで、練り方を変えて。粉が繋がらんもんだで、揉んで、叩いて、時間を置いて、また揉んで。あれが人の一日だに。それを、まずく作れ、まずく作れと書いた紙を回して。おっかあの、何を伝えるつもりだ」
千歳は返す言葉を探したが、見つからなかった。冷やしたぬきの丼はもう空になっていた。
沖さんが伝票を持って立ち上がったとき、千歳は紙を持ち上げて言った。
「沖さん。この一行だけ、手書きなんです。あとから足したみたいで」
沖さんは、伝票を持ったまま、少しのあいだ動かなかった。
「……そうだら」
「いつからあるんですか、この紙」
「さあな」
沖さんはレジに小銭を置き、戸口で振り返った。
「十五日は、行くで」
三
その晩、店を閉めてから、母屋の物置を開けた。
祖母の帳面は、味噌樽の後ろの林檎箱に入っていた。表紙に「婦人会 炊出 控」とある。中身はどこまでも事務的だった。年、参加人数、材料、薪の本数、余りの処分。三十数年分が飛び飛びに残っている。
千歳は古いほうから順にめくった。
昭和四十年代の頁は、どれも同じ書式だった。
粉 三貫 塩 大根葉 煮干 二把
昭和五十年代に入ると単位が変わり、粉はキロで書かれるようになったが、材料の並びは変わらなかった。煮干 二把。毎年、同じ場所に同じ字がある。
昭和五十七年まで、それは続いていた。
昭和五十八年の頁で、千歳の指が止まった。
「煮干 二把」の行に、定規を当てたらしい真っ直ぐな線が一本、引いてある。消しゴムでは消していない。線を引いただけだった。
その下の余白に、鉛筆で小さく書き足してあった。
煮干 一匹
そこにも、同じ線が引いてある。
さらにその下に、もっと小さな字で。
源さんに聞くこと
この年の頁だけ、字が少し乱れていた。数字の並びが揃わず、「参加」の欄を二度書き直した跡がある。
昭和五十九年をめくった。材料に煮干の行はなかった。
代わりに、参加人数の下の余白に、ごく小さく書いてあった。
一匹 入れず
六十年にも、同じ字があった。六十二年にはない。平成三年にある。八年にもある。あとは、あったり、なかったりした。字はどれも同じ大きさで、同じ場所に書かれていた。
千歳は、祖母が最後に書いた年まで頁をめくった。煮干の行は、二度と戻らなかった。三十五年ぶん、この地区の子どもたちは、出汁の入っていない汁を飲んできたことになる。
「なにしてんの」
振り向くと、杏が戸口に立っていた。
「おばあちゃんの帳面」
杏は入ってきて、覗き込んだ。数字ばかりの頁を、つまらなそうに何枚かめくる。
「なんでおばあちゃん、毎年これ作ってたの」
「順番だったんじゃない。婦人会の」
「ふうん」
杏は帳面を閉じて、林檎箱の縁に置いた。
「ねえ、まずいんでしょ、すいとん。去年、光ちゃんが半分残したって」
「そうなの」
「うん。先生は、残さず食べなさいって言ったけど」
千歳は帳面を持って立ち上がった。
「明日は、食べてみて」
「まずくても?」
「食べてから言って」
物置の電気を消してから、千歳はもう一度、暗がりのなかで帳面の表紙に手を置いた。
源さんに聞くこと。祖母はそう書いて、聞いたのだろう。聞いて、線を引いたのだろう。
聞かない、と千歳は思った。聞けば、たぶん同じ答えが返ってくる。
四
十五日は、朝から日が強かった。
六時半に公民館の厨房に入った。まだ誰も来ていない。窓を開けると、外の空気のほうが冷たかった。
寸胴を出して水を張り、蛇口を締めた。水の面が落ち着くのを待ってから、エプロンのポケットに手を入れた。
煮干しを一匹、出した。
出汁のない汁を、千歳は一度も作ったことがなかった。
頭も腹も取らなかった。取ってしまうと、あとで見つからない気がした。
水に落とすと、少しだけ沈んで、すぐ浮いた。しばらく水面を漂い、それから斜めに沈んでいった。
一匹では何も変わらない。それは分かっていた。
火をつけた。いちばん弱いところで止めた。
七時過ぎに小柳さんと、老人会の男の人が二人来た。三人とも、包丁より力仕事のほうが向いていた。小柳さんは新聞紙に包んだものを抱えていた。
「大根の葉な、この時季はどこにも無うてな」小柳さんは言った。「乾したのを、上の家から分けてもらったで」
開けると、黒く縮れた葉が出てきた。ぬるま湯で戻すと、束は倍ほどにふくらんで、青い匂いが立った。
粉は三キロ用意されていた。大きなたらいに空け、塩をひとつまみ落とし、水を細く回しながら手を入れる。粉は最初、指の股に食い込んで白い手袋を嵌めたようになり、それからだんだんまとまって、押すと押し返してくるようになった。
繋がる粉だ、と千歳は思った。
沖さんの母親が練っていたものは、ちょうどこの手ざわりのところで、ほどけたはずだった。
生地を濡れ布巾で覆い、隅に寄せた。
九時を回ると、地区の子どもたちが十人ばかり玄関から入ってきた。ラジオ体操の続きのような格好で、麦茶を飲みに来ただけの顔をしている。杏もいた。友達と何か言い合って笑い、千歳と目が合うと笑うのをやめた。
寸胴の湯気が、換気扇に吸われずに天井へ溜まりはじめた。千歳は蓋を少しずらし、灰汁を引いた。網の縁に、細長いものが触れた。
すくわずに、鍋へ戻した。
五
十一時半、講堂に人が集まった。三十人ほど。半分以上が七十を超えている。
小柳さんが挨拶をして、小学生が二人、作文を読んだ。
一人目は五年生の男の子で、読みはじめる前に一度、紙を裏返して確かめた。
「ぼくのひいおじいさんは、この村から出ていって、帰ってきませんでした。うちには写真が一枚あります。ぼくは、顔が似ていると言われます。でも、ぼくはその人のことを何も知りません。似ていると言われるたびに、へんな気持ちになります」
男の子は最後まで読んで、大きく息を吐いて、小走りで席へ戻った。
二人目は三年生で、戦争はいけないと思いました、平和はたいせつだと思います、と読んだ。
その通りだ、と千歳は思った。その通りのことを、人前で言うのはむずかしい。
正午。
防災無線のサイレンが鳴った。集落の四方のスピーカーから、少しずつずれて届く。講堂の全員が立って、目を閉じた。
一分は、思っていたより長かった。
千歳が聞いていたのは、蝉だった。裏の杉の斜面で、途切れずに鳴いていた。それから、誰かの膝が鳴る音。子どもがサンダルを踏み替える音。厨房の火が、絞ってあってもまだ動いている音。
サイレンが止み、皆が座った。
「沖さん」と小柳さんが言った。「ひとつ、話をしてくれんかね」
毎年言っているのだろう。言い方が慣れていた。沖さんが毎年断るのも慣れているらしく、小柳さんはもう次の紙を手に取っていた。
沖さんが立った。
小柳さんが紙を落とした。
「わしは、話がうまくないで」と沖さんは言った。「すぐ終わる」
パイプ椅子の背に手を置いたまま、正面を見ずに話した。
「あの年、わしは十三だった。高等科の一年だ。学校はもう、ほとんど授業をやっとらんかった。うちの寺には東京から疎開してきた子が四人おってな。名前は……ひとりは、河野といった。もうひとりは、忘れた。忘れたが、顔は覚えとる。ここに、顎のここに、傷があった。転んだと言うとったが、あれは嘘だら」
沖さんは、そこで黙った。
子どもたちは、ぽかんとした顔で見ていた。誰かがパイプ椅子を鳴らした。
「……なんの話だったか」
「疎開の」と小柳さんが小声で言った。
「ああ」沖さんは頷いた。「そうだ。あの日の朝、区長さんとこへラジオを聞きに行った。大人が土間にぎっしり詰まって、わしらは外の縁側から首を伸ばしとった。ラジオはひどい雑音でな、何を言うとるのか、さっぱり分からんかった。終わってから、泣く人がおって、怒鳴る人がおって、それで、ああ、そういうことかと分かった」
沖さんは一度、口を閉じた。
「うちへ帰ったら、おっかあが台所に立っとった。鍋を見んでも、何を作っとるかは分かる。毎日おんなじだで。ふすまの混ざった、繋がらんやつだ」
「そしたら、匂いが違った」
講堂は静かだった。誰かが団扇を止めた。
「煮干しが、一匹だけ、鍋に入っとった」
「どこから出したのか、いまだに分からん。仏壇に上げてあったやつだったか、どこかへ隠しといたやつだったか。訊いても、おっかあは『今日は入れる』としか言わんかった。それだけだ。理由は言わなんだ」
「一匹だに。六人分の鍋だ。味なんぞ、ろくに出やせん」
沖さんは、そこで初めて正面を見た。
「変わったのは、匂いだけだ」
「匂いだけが、変わった」
沖さんは椅子の背から手を離した。
「わしは、あれを八十年覚えとる。まずい話ばっかりでな。あれだけは、うまかった話だ」
そのまま座った。小柳さんが何か言おうとして、言葉が出ないらしく、二回口を開けてから「ありがとうございました」と言った。
六
千歳は厨房へ戻り、寝かせておいた生地の布巾を取った。
弱火のまま置いた汁は、色がついていなかった。乾した大根の葉が沈み、湯気が薄く上がっている。火を強めて、生地を指でちぎり、少しずつ落としていった。
団子は沈んだ。しばらく底のほうで見えなくなり、それから、ひとつずつ浮いてきた。
浮いたら煮えとる合図だに——祖母がそう言うのを、千歳は何度も聞いた。台所で、店の厨房で、正月の雑煮の鍋の前で。祖母はそれを言うたびに、なぜか少し嬉しそうだった。
全部が浮くまで、思ったより時間がかかった。
配膳は十二時二十分から始まった。紙の椀に、玉杓子で一杯ずつ。子どもは半分。老人会の二人が運び、千歳が汁をよそった。
子どもたちの声が聞こえてきた。
「意外とふつう」
「もちもちしてる」
「もっとまずいって聞いてた」
一人は半分残した。去年の光ちゃんだった。杏はその椀を見たが、何も言わなかった。
杏は最後まで食べて、椀を返しに来た。
「おかわり、ある?」
「あるけど、葉っぱばっかりだよ」
「いい」
沖さんは、いちばん後ろの卓でゆっくり食べていた。
千歳が空の寸胴を厨房へ運んで戻ってくると、沖さんはもう椀を置いていた。汁まで飲み干してあった。
「真柴さん」
顔は上げなかった。
「今日のは、匂いがしたに」
千歳は何か言おうとして、やめた。
十リットル近い汁である。煮干し一匹で匂いが立つはずはない。それは、鍋の前に立った者にしか分からない種類の確かさだった。
沖さんは箸を置いて、「ごちそうさん」と言った。
帰り際、玄関で靴を履きながら、沖さんは千歳のほうを見ずに言った。
「あの紙の、いちばん下の一行な」
千歳は、蛇口を締める手が遅れた。
「あれを書かせたのは、わしだに」
外の光が、開いた戸から土間に差し込んで、埃を立ち上がらせていた。
「昭和五十八年だ。前の年の暮れに、うちのおっかあが死んだ。七十七だった。最後の一年は、こっちの顔も分からんようになっとってな。それでも、粉を練る手つきだけは覚えとった。何も無い卓の上で、こう、ずっとやっとった」
沖さんは、框に手をついたまま、右の掌を二度、返した。
「その年、支度のときに、ミツさんが言うたんだ。一匹だけは入れたいと」
千歳は、蛇口の下で手を止めていた。
「わしは、そんな甘いことを言うなと言った」
「ミツさんは、はいと言った」
沖さんは戸に手をかけた。
「……後悔してますか」
「しとらん」
少し間があった。
「しとらんつもりで、四十年ぶんの飯を食った」
沖さんは戸を開けて、二段しかない階段を、時間をかけて降りた。降りきってから、振り返らずに言った。
「うまかったで」
七
片づけは二時過ぎまでかかった。
寸胴を洗うとき、底に、細長いものが残っていた。
煮干しだった。ふやけて白くなり、腹が少し開いている。頭も尾もついたままだった。
どの椀にも入らなかったのだ。
千歳はしばらく、それを掌に載せていた。それから、エプロンのポケットに入れた。朝、そこから出したのと同じポケットだった。
夕方、店を開ける前に、明日の仕込みをした。
鍋に水を張り、煮干しを入れる。頭と腹を取りながら数える。三十匹で、この鍋にはちょうどいい。祖母がそう決めて、母がそのまま使って、千歳もそのままにしている。
数え終えてから、ポケットのものを出して、まな板の隅に置いた。
杏が来て、まな板を覗き込んだ。
「なにか入れたでしょ、今日の」
「どうして」
「沖さんが、匂いがしたって言ってた。お母さん、変な顔してたもん」
千歳は水を止めた。
「一匹だけね」
「それだけ?」
「それだけ」
「わかんなかった」
「わからなくていいの」
「なんで」
千歳は答えを探した。探しているうちに、鍋の水がゆっくり動きはじめた。
勝手口の外には、明日の送り火の分の麻幹が、束のまま立てかけてある。まだ、火をつける時刻ではない。
杏は、まな板の隅の煮干しをつまんで、口に入れた。
「しょっぱい」
「そうでしょう」
原案:Y
執筆:Claude
今日は何の日?
終戦の日/戦没者を追悼し平和を祈念する日

8月15日は、日本で広く「終戦の日」として記憶されるとともに、政府が定める「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。1945年8月14日にポツダム宣言受諾に関する「終戦の詔書」が発布され、昭和天皇による録音が翌15日の正午にラジオで放送されたことで、戦争の終結が広く国民に伝えられました。国立国会図書館も、8月14日に戦争終結が公式に表明され、翌15日正午にその内容が放送されたとしています。なお、日本が降伏文書に署名したのは同年9月2日であるため、8月15日は降伏文書調印の日ではなく、日本社会において終戦を記憶する象徴的な日として定着したものと捉えるのが正確です。
現在の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」という位置づけは、1982年4月13日の閣議決定によるものです。先の大戦で亡くなった人々を追悼し、平和を祈念することを目的として毎年8月15日と定められ、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で行われています。全国戦没者追悼式そのものは1963年以降、毎年8月15日に実施されており、式典では正午に黙とうが行われます。
8月15日は、単に「戦争が終わった日」という一言だけでは収まりません。戦地で亡くなった人だけでなく、空襲や原爆など戦禍のなかで失われた多くの命、その後を生きた人々の経験を記憶し、現在の平和を未来へどうつないでいくのかを考える日でもあります。真夏の強い日差しのなかで正午の黙とうが続けられていることには、過去を忘れず、同じ悲劇を繰り返さないという社会の意思が込められています。
すいとんで平和を学ぶ日

8月15日の「すいとんで平和を学ぶ日」は、愛知県犬山市で草の根の平和活動を続ける「すいとんの会」によって設けられた記念日です。日本記念日協会では現在も8月15日の認定記念日として掲載されており、協会の記録から2015年6月26日に登録されたことが確認できます。当時のCBCラジオによる「すいとんの会」代表・時々輪斉子さんへの取材でも、2015年8月15日が認定後初めて迎える記念日だったことが紹介されています。
この記念日が伝えようとしているのは、戦争を歴史上の出来事として知るだけでなく、当時の暮らしや食事を通して平和について考えることです。時々輪さんは子どもたちへの読み聞かせを続けるなかで平和や原爆について伝える活動へと取り組みを広げ、食べ物の大切さも感じてもらおうと、会で出していた菓子をすいとんに替えたことが記録されています。犬山市でも現在、平和学習の一環として小学校で戦争体験者による講話を行い、「菜飯、すいとん汁、ふかし芋」など戦時中の食事を題材にした給食を提供しています。市は、当時すいとんが米の代わりとして食べられていたことを紹介し、食事を通して戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぶ機会と位置づけています。
すいとん自体は戦争によって生まれた料理ではありませんが、食糧事情が厳しかった戦時期の暮らしを伝える食べ物の一つとして記憶されています。その一杯を入り口に、「十分な食事ができない暮らしとはどのようなものだったのか」「日常の食卓と平和はどう結びついているのか」を考えられるところに、この記念日の特徴があります。8月15日にすいとんを囲むことは、質素な料理を再現することだけが目的ではありません。何気なく食事ができる日常そのものが平和の上に成り立っていることを、次の世代へ伝えていくための日です。
盆

8月15日は、多くの地域で行われる8月の「盆」の期間にあたります。ただし、お盆を全国一律の「8月15日の記念日」と考えるのは正確ではありません。地域によって7月に行うところ、8月に行うところなど時期に違いがあり、現在広く見られる8月盆では8月13日から16日ごろを盆の期間とする地域が多くあります。日本記念日協会の8月15日欄にも「盆」は掲載されていますが、企業や団体が特定の日に制定した記念日ではなく、長い歴史のなかで受け継がれてきた日本の年中行事です。
盆には、仏教行事としての「盂蘭盆会」と、先祖の霊を迎えてもてなす日本の民俗行事という二つの側面があります。国立歴史民俗博物館は、盆を7月15日を中心とする盂蘭盆会という仏教行事であると同時に、先祖の霊が帰ってきて子孫のもてなしを受ける民俗行事でもあると説明しています。国立国会図書館も、盂蘭盆会を先祖の霊を迎えて供養する行事として紹介し、13日の夕方の迎え火、16日夜の送り火、霊を慰める盆踊りなどの習俗を挙げています。
明治期の改暦後も盆の日取りは全国で一様にはならず、旧暦7月の行事を新暦7月に行う地域や、一か月遅らせた8月に営む地域などに分かれました。そのため、「8月15日がお盆」というより、8月盆を行う地域では8月15日が先祖を迎えて過ごす盆のさなかに当たる、と考えるのが自然です。
帰省、墓参り、盆棚、提灯、迎え火や送り火、盆踊りなど、盆の形は土地や家庭によってさまざまです。それでも根底にあるのは、亡くなった人を迎え、供養し、自分がどこからつながってきたのかを思い返す時間です。夏休みや帰省ラッシュという現代的な風景の奥には、死者と生者、先祖と子孫を結び直す日本の古い時間感覚が残っています。にぎやかな夏祭りと静かな祈りが同じ季節のなかに共存していることも、盆という行事の奥深さです。
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