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【日めくり短編 10】吉野、千本の下で


離婚届は、食器棚の奥にある。

来客用の皿が重なったその裏に、茶封筒ごと差し込んである。佐山美咲がそこを選んだのは、夫の隆志が食器棚を開けることなど年に一度もないからだ。見つかりたくないわけではない。自分から切り出す覚悟が固まっていないだけだった。

四月九日の夜。明日は隆志が珍しく休みを取っている。「吉野に行こう」と言ったのは三日前のことで、美咲は「ふうん」としか返さなかった。行きたくないわけではない。ただ、ここ半年ほど、夫のどんな言葉にも心が凪いだままなのだ。結婚八年。子どもはいない。大きな諍いがあったわけではなく、ただ静かに、お互いの輪郭が日常に溶けた。空気のような存在、と人は言う。空気に感謝する人間はいない。

リビングで隆志がカメラバッグの中身を入れ替えている。標準ズームだけを残し、望遠レンズを棚に戻した。それから、一度戻したレンズをまた手に取り、しばらく眺めてから、やはり棚に置いた。

その迷い方が気になった。この男はいつも荷造りに迷わない。車に全部放り込んで終わりだ。取捨選択をしている姿を見るのは初めてかもしれない。

「重装備は敵や」

独り言のように言った。美咲に向けた言葉ではなかった。自分に言い聞かせるような声だった。


大阪阿部野橋駅、九時四十二分。

近鉄の臨時特急の乗り場に向かうコンコースで、美咲は足を止めた。

「電車で移動なんて珍しいやん」

隆志は切符を二枚、指の間に挟んで振ってみせた。

「いつもは車やからな。たまには渋滞とか気にせんと、駅弁でも食べながらのんびり電車もええやんか」

「あんたいっつも渋滞にひっかかったらイライラするからな〜」

棘はなかった。ただの事実だ。その「ただの事実」で会話が完結する距離感が、いつの間にか二人の定位置になっていた。

隆志が首の後ろを掻いた。

「せっかく花見に行くんやからな。優雅な心持ちでいかんとな。太閤はんが花見した。て教科書にも載ってるくらいの場所やからな。今日はのんびり行くとしましょ。」

十時十分発の臨時特急がホームに入ってきた。美咲は窓際、隆志が通路側。発車してすぐ、隆志が紙袋から柿の葉寿司を出した。

「車内で済ませたほうが現地で動きやすい」

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