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日本における実存主義文学の先駆ー椎名麟三『深夜の酒宴』

はじめに:『深夜の酒宴』とは

 戦後小説を代表する椎名麟三の小説『深夜の酒宴』は、臼井吉見が編集長を務める「展望」第14号(1947年2月)に掲載された。椎名はこの作品を、戦後再び活気を取り戻した雑誌社数社に持ち込んだものの、晦渋で重苦しい表現が多用された作品を評価する編集者はなく、当時輸入されはじめていたサルトルの実存主義哲学に結びつけてアピールすることで、ようやく臼井の眼にとまったのである。
 小説の舞台は、東京両国の運河沿いにある、空襲で唯一焼け残った倉庫を改造したアパート。
 作品の語り手である須巻にとって、アパートの住民がまるで「古くさい昔話の人々」のように感じられるのは、彼が昔読んだ「自然主義リアリズム」に登場する「平凡で古くさくて退屈」な人びとの姿を思い出すから。右隣の部屋には、荷扱夫の那珂夫婦とその息子、左隣には、謄写版原紙に製版する仕事をしている戸田夫婦。向いには、若い男性と関係を持つ深尾加代。
 貧困や病苦に悩む市民の生活を赤裸々に描き出し、現実社会の暗部を照射した「自然主義リアリズム」は、日清戦争後に発表された深刻・悲惨小説にその源流がある。樋口一葉や徳田秋声、川上眉山、広津柳浪たちの作品もまた明治時代の社会の矛盾や暗黒面を描き出し、読者に強い問題意識を提起することを目的として描かれた。
 だがなぜ椎名は「自然主義リアリズム」という一時代前の表現手法に言及したのだろうか。
 実は、そこには、椎名の強いこだわりがあったのである。


「ただ現実が堪えがたいだけである」

 この小説は、刷毛を露店で売っている須巻という男性が主人公である。月150~300円売り上げるが、そのほとんどは伯父の栗原仙三の懐に入る。須巻が住むアパートの家主の仙三は、かつて運送店を経営していたが、空襲で右脚を足首から失う。須巻の手記の形式をとった「深夜の酒宴」には、つぎのような須巻の独白が記されている。

 僕は何のためにこの手記を書きはじめたのだろう。このアパートの人々の生活や気分といったものを記録しようとしているのであろうか? 或いは一切が古くさい昔話と変わらないということを証拠立てようとしているのであろうか? いや、これらの人々は僕に深い絶望を与えるのである。僕は心のなかにある或る憧憬を救いようのない絶望に陥れるのだ。だがそれが却って今の僕には快い。僕は自分の絶望を愛しはじめているのである。勿論その愛は憂鬱だ、だが憂鬱という奴は、夜寝床へ入るときのような楽しさを与えて呉れるのである。
 僕は思い出もない。輝かしい希望もない。ただ現在が堪えがたいだけである。

「深夜の酒宴」

 須巻によれば、「古くさい昔話」への「憧憬」は、自分を「深い絶望」に陥らせるのだが、その「絶望」を「愛しはじめている」というのである。そのような感情の変化は、ふつうの理屈では説明できない。
 過去への追憶も未来への希望もないという須巻には、堪えがたい現実があるだけである。雨だれの音が、炊事場から流れ出した下水の音に重なって、陰鬱さを加えるアパートは、まるで刑務所のように感じられる。
 満州事変の年、須巻は労働組合運動に関わって検挙され、刑務所に服役していた間に発狂して病棟に収容された。仙三の運送店で働いていた中村を運動に巻き込むのだが、中村は獄死してしまう。中村の遺族の生活支援してきた仙三は、須巻に向かって「ここはお前の刑務所でお前はその懲役人なのだ」と詰責する。
 1931年、宇治川電気鉄道会社(現山陽電鉄)に乗務員として勤務していた椎名が、京阪神共産党一斉検挙事件に遭って、検挙された年である。いわゆる8・26事件では、検挙された労働者たちが、神戸市内の警察署の留置場で、拷問をともなう苛酷な取り調べを受けていた。『炎の記録ー1931年8・26事件前後』(兵庫民報社、1976年)によれば、留置場の環境も劣悪で、栄養失調や脚気、疥癬、結核のために獄死した者や、発狂して死んだ者など、多数の犠牲者が出た、とされる。
 宇治電フラクションの党員として組織内で積極的に活動していた椎名は、治安維持法違反の容疑で、神戸地方裁判所にて懲役4年の判決を受け、大阪控訴院での公判中に転向を表明し、懲役3年執行猶予5年に減刑されて釈放された。 

「思想なんかせいぜい便所の落し紙になるくらいなもんだ」

 控訴審のなかで転向上申書を提出したこと、それは椎名にとって組織への裏切り、とりわけ獄死した同志への裏切りを意味した。これは罪の意識となって胸底に沈潜するのだが、それと同時に、自分が信じていた思想への根強い懐疑にもなった。「共産主義から何に転向されたのですか?」という質問に対して、須巻はつぎのように答えている。

「僕は思想というものは愚にもつかぬものだといったじゃありませんか!」
「思想である限り必ず対立と抗争を予言している。どんな偉大な思想だって、人類の平和と幸福を目的としている思想だって、ちゃんと人類を戦争と破滅に導くという悲劇性を自然にふくんでいるんですよ。人間が思想を持つのは、ただそれが便利だからですよ。……全く思想なんか豚にくわれてしまえだ。思想なんかせいぜい便所の落し紙になるくらいなもんだ」
「僕がデモクラシイが好きなのは、デモクラシイには定義がないということなのです。またデモクラシイにはそれによって縛られる歴史がない。つまり歴史的必然性という奴がない。だから好きなのです。またデモクラシイではいつも個人の選択の機会が与えられている。」

「深夜の酒宴」

 須巻によれば、「歴史的必然性」を前提とする思想、すなわち唯物史観を放棄して、「個人の選択の機会」が与えられている「デモクラシイ」へと転向したという。「人類の平和と幸福」を目的とする階級闘争よりも、たとえ貧困や病苦に満ちた現実でさえ、それを堪え忍んだ方がましだ考えるのである。
 昭和初期、文壇はプロレタリア文学全盛期であった。蔵原惟人の提唱する「プロレタリアリアリズム」は、革命に向かって自覚せる労働者の姿を描き出した。その一方、長期の失業・貧困によって労働意欲を喪失して労働者階級から脱落した極貧層を「ルペンプロレタリアート」と呼んだ。彼らはその疲弊感から階級闘争に加わろうとはしなかったため、無階級社会実現の障害とされた。
 この稿の冒頭で、椎名が「自然主義リアリズム」に言及したのはなぜか、という問いを立てたが、その答えがここにある。椎名が小説のなかに描きたかったのは、「プロレタリアリアリズム」がとりこぼした人びとの姿であったからなのである。それは、椎名が姫路中学を中退して家出をし、大阪や神戸で糊口をしのぐ生活をするうちに出会った人びとであったのである。

実存主義文学の嚆矢

 このように椎名の文学は、自然主義リアリズムや転向文学など、いくつかの特徴を持つのであるが、戦後文学の中で位置づけるならば、日本における実存主義文学の嚆矢としての意味がある。たとえば、つぎのような描写を見てみよう。飢えに苦しむ須巻が、廃棄処分された野菜を漁りに青物市場に出かけた。傘も持たずに冷たい雨のなか、遠い距離を歩いていると、焼け跡
の墓地に焼け残っている小屋に飛び込む場面である。

小屋のなかには何もなかった。あれば疾うの昔に盗まれていたであろう。
そのときぴかりと僕の眼を射たものがあった。思わずその方を見ると、
暗い部屋の隅に枯草色のされこうべがぼんやりと見えるのである。たしか
にされこうべは僕を見つめていた。僕も動かずにじっとそのされこうべを
確かめた。咄嗟に罹災者のそれかも知れないと思ったのである。だがその
されこうべには、どこかでお目にかかったことのあるような特徴を感じた。
だが僕はすぐそれが自分の顔であることを知った。隅に破れたガラスが立て
かけてあったのである。

「深夜の酒宴」

 実存主義文学とは、戦争・転向・飢餓という根源的な不安・絶望のなかで、自分の存在そのものに向き合う表現形式である。サルトルは「実存は本質に先立つ」とし、人間はまず実存し、この世界の中に立ち現れた後で、自己の本質が定義されると述べた。須巻はこのとき「されこうべ(髑髏)」となった自己の姿を発見する。それは他の何ものでもない、現実に堪えるしかない自分自身の存在そのものであったのである。

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