『天啓予報』第82章 説明書


 
槐詩かいし烏鴉うやがパンパンの旅行鞄を差し出すのを見た。
「持って行って、使って」
「なんだ?」
 槐詩は受け取ったが、中身は想像つかなかった。
 次の瞬間、槐詩は足を滑らせた。
 大きな穴が槐詩の足元にぽっかりと開いていた。槐詩は叫びながらその穴に落ちていった。
 特事所とくじしょは再び静けさを取り戻した。
 烏鴉は羽根を広げ、荒れ果てた牢獄を通って階段に沿って上に飛び、死体だらけのホールをよぎって、特事所の屋上に下りた。そして常人には見えない黒い煙の柱を見た。
 暗黒の中で渦巻く力は偽装によって隠されていたが、烏鴉の赤い目には真相が映っていた。
 飛ぶ鳥のように大きく、海潮のように黒い影が、ゆっくりと展開し、都市全体を覆っている。
 九つの獰猛な頭がそれぞれ違う方向を向いて、口を大きく開けて献上された祭祀の犠牲を呑み込んでいる。
 暗黒の中に雌伏し、地獄の変化を懐胎している。
九鳳きゅうほう?面白い」
烏鴉は笑った。
「勇気があるのか、バカなのか。だけど結局は無駄なことよ」
 舞台は整い、幕が開いた。
 大戦の上演はまもなくだ。
 今回の主役は誰だろうか?
  ※
  ※
 槐詩は暗黒の中を墜落していた。
 風が耳元で鳴り、一体どれぐらい経ったかわからないが、やっとお尻が地面についた。まだ起き上がらないうちに、強い風が顔を打った。重い鉄鞭てつべんが槐詩の目の前の地面を叩いたのだ。
 とても近くを。
 槐詩はゾッと鳥肌を立てた。
 槐詩は鉄鞭が戻されるのを目で追って、大柄な男が目の前に立っているのを見た。左腕は肩から切断されていて、顔は青く、だが赤く充血したは火が灯っているかのようだった。
「誰だ!」
 槐詩は無意識に両手を上げた
「お兄さん撃たないで、俺は……」
「味方だ」と言おうとして、途中で違うと思い、言い直した。
「無害な一市民です!」
 髭を生やした大男は冷ややかに槐詩を見ると、鉄鞭を槐詩の目の前にかざした。槐詩はピクリとも動かなかった。まるで少しでも風が吹いたら殺されてしまうかのように。
 冷たい殺意を感じた。
 大男の背後にはそこら中に奇妙な死体が転がっていて、その殺意が本物であることがわかった。
 鉄鞭は槐詩の肩を抑え、動けなくした。槐詩の背に汗が流れた。
「あの、つまり……」
「天文会?」
 男が尋ねた。
 槐詩は驚いた。
「ああ、そうです。どうして分ったんですか?」
大男の視線は槐詩が地面に置いたバッグに止まった。旅行鞄の持ち手には、ある人が親切にも掛けておいた、槐詩の天文会の身分証が掛かっていた。
 まるで見合いの釣り書きのように、名前と年齢が大きく書かれており……敵味方の区別が簡単についた。
 烏鴉はまったく親切であった。
 落下の方法が穏やかだったらもっとよかったのに!
「槐詩、か?」
男は目の前の少年の人畜無害な顔ををじろじろ見て、ますます不愉快そうな表情になった。
「報告書の中にあった新海の昇華者(しょうかしゃ)だな」
「はあ……」
 槐詩はいまの状況がいいのか悪いのかさっぱり見当もつかなかった。
「どちらさまで?」
「社保局特殊行動部、三階、金沐きんもく
 槐詩の身分が確定すると、彼はゆっくりと鉄鞭を収め、ポケットから金属製のバッヂを取り出した。バッヂには、偽物防止の錬金技術の烙印が、源質の波動と軍位の場所に押してあった。
 艾晴がいせいのレクチャーによって、槐詩は身分証の真偽を確認する方法を知っていた。本物であることを確認すると、槐詩は急いで両手で丁寧に返却した。
「失礼しました」
「ついてこい」
 明らかに槐詩に好感を持っていない様子で、男はバッヂを受け取ると、片手で鉄鞭を担ぎ、再び歩き出した。
「足を引っ張るなよ」
 槐詩はいまになってやっと周囲を見る余裕ができた。
 どうやらここは地下の大きな通路の中らしく、至る所に開削(かいさく)の跡があった。頭上の電球はあちこちにある戦闘の痕跡を照らし出していて、ここで凄惨な戦いが行われたことがわかった。
歩いて行くうちに、槐詩は断ち切られた鉄のレールを踏んだ。
 線路?
 槐詩はハッとした。
「地下鉄?」
 周囲の景色を総合して、槐詩は自分がどこにいるのかを推測した。
いや、よくよく考えれば、帰浄きじょうたみがことを起こそうとしているならば、もう何年も掘っている新海の地下鉄は、絶好の隠れ場ではないか?
 槐詩は片手で鞄を提げ、片手で烏鴉がくれた説明書を持ちながら、金沐の後を歩いた。
「どこに行くんです?」
 槐詩は振り返りもせずに言った。
「相棒の沈悦しんえつを探している。それとお前の上司も」
艾晴がいせいを?」
 槐詩は驚いた。
「ここに飛ばされる前、沈悦があの監察官を捕まえるのが見えた。多分一緒だろう」
「ああ」
 槐詩は頷くと、寸暇を惜しんで説明書を読み進めた。頷いたり、驚いたりしながら。
 ついに金沐は眉間に皺を寄せて振り向いた。
「何を読んでるんだ?」
「説明書」
 槐詩はやっと半分まで呼んだ説明書を閉じて、懐に入れた。
「だいたいわかったぞ。次回は子供向けのダイジェスト版を用意してもらおう。長編を読むのは大変だ」
 槐詩は旅行鞄を置くと、深く息を吸った。
「ちょっと待ってて。試してみる――」
言うと、槐詩は足を肩幅に開いて腰を落とし、ハッ!と掛け声して力を入れ、顔をしかめた。その様子はどう見ても便秘の人で、金沐にはまったく意味がわからなかった。
 長く気まずい静寂。
「ごめん。上手くいかなかった」
槐詩は気まずそうに咳をした。
「先を急ごう」
 金沐は冷たい目で槐詩を見ていたが、視線を戻すと、また前を向いて歩きだした。だが数歩歩くと、まるで腕は関節がないかのような動きで、鉄鞭を体の後ろに突き出し、背中に向かって振り下ろされた斧を止めた。
金沐はゆっくりと振り返り、やや驚いている少年を見つめ、険しい顔になった。
「気が違ったのか?」
「信じてくれ、誤解なんだ」
槐詩は手に持った斧を見ながら、気まずく後ずさった。
「もともと苦痛を与えずにあんたを殺すつもりだったんだけど、気づかれたらしょうがない」
 槐詩は歯を見せて笑い、首を回し、長い間獄中にいて強張っていた筋肉をほぐした。ポキポキという音とともに、灰色の炎が槐詩の胸のあたり、服の下からゆっくりと立ち昇り始め、彼の肌を少しずつ覆っていった。
 すぐに、蒼白い源質げんしつの炎の中の両手以外、槐詩の全身は灰色の暗い炎で覆われた。
 踊る炎の中で、すべてが曖昧になり、それはいったい物質なのか幻影なのかわからなくなり、ぼんやりと暗闇の中に溶けていった。
胸の、渦巻のような隙間がゆっくりと回り始めた。地獄の奥深くにある溶鉱 炉のように。
 光芒が輝いた。
 聖痕せいこん陰魂いんこん、起動。
「色々と教えてくれてありがとう。だけどここまでだ……」
 炎に包まれて、悪魔のような少年は笑顔を見せた。
「だから、俺に殺されてから検死を受けてくれ。それとも大人しくその仮面を外して、本当の顔を見せてくれるか?」
「気づいて……いた……のか?」
 金沐の冷たい表情が強張り、口角が緩やかに持ち上がると、不自然な笑顔が現れた。唇は耳の付け根まで裂けていた。
そして、大きく裂けた口の中から、ねばつく黒い液体が湧き出し、悪臭を放った。それらの液体は沸騰してボコボコと音を立てていた。
「俺の……どこが……違った?」
「実は、さっき聖痕を発動するまで、俺は自分の目がおかしいんじゃないかと思ってたんだ」
 槐詩は手に持った斧を担ぐと、自分の退色して鉄灰色になった瞳を指さした――その瞳に映る金沐はバラバラに引き裂かれ、腐敗し、黒紫色の液体がねばねばとうごめき、本来の姿を見せていた。
 それが槐詩が聖痕を発動した瞬間に見たものだった。
 幸いなことに説明書には詳しく書いてあった。
 とはいえ、源質の波動すら偽装できる辺境の異種がいるとしても、記憶まで手に入れられるとは、まったくの驚きだった。
「にしても、臭いな」
槐詩は呟いた。
「もしあんたが俺を他の場所に連れて行こうとしたら、俺は疑わなかったと思う」
 槐詩は段々と濃くなる悪臭を嗅いだ。死体の腐臭と混然となって、吐き気を催させる臭いだった。
「どのみち、ここまでくれば……いい……」
それはほぼ百八十度首を捻り、彼らがもともと行くつもりだった方向を見た。暗闇の中、赤い目が光り出し、すぐに奇妙な形をしたものが暗がりから這い出してきた。
 その中には人間に似たものもいた。あるものは骨格が奇妙で、全身毛がなくてつるつるしていた。あるものは野良犬野良猫のようで、だが体は驚くほど大きく、ライオンのようだった。またあるものは奇妙なネズミのようだった。
 偽金沐が吼える中、十数体の地上を這う浸食物はゆっくりと前進してきた。あるものは天井にへばりつき、悪臭のする涎を槐詩の足元に垂らした。
「最後にひとつ質問が」
 槐詩は気まずそうに周囲の怪物を見ると、指を上げて質問した。
「あんたたち辺境の異種はメンタルクリニックに通う習慣はあるのか?」
 誰も答えなかった。
 浸食異化されている金沐の叫びの中、それらの奇妙なものたちが悪臭を放った。
 どうやらそういう習慣はないらしい。
 残念だ。
 だが槐詩にとっては、ちょうどよかった。
 烏鴉が五つ星で推薦した聖痕の天賦は、確かその名を……
 瞬間、槐詩が両腕を広げると同時に、彼の体を覆っていた劫灰の炎が周囲に拡散し、鉄錆色の霧となった!
 霧の中、無尽蔵の恐怖が瞬間的に爆発した。無数の死から抽出した苦痛と悲愴と恐怖が混然一体となり、思考能力を持つものの意識に入り込み、、意識のもっとも奥深くで爆発した。
 叫び声が響いた瞬間。鉄錆色の霧の中で、槐詩はゆっくりと顔を上げた。その瞳は燃え、唇の両端が上って笑みをかたどった。
 これこそが聖痕・陰魂の核心となる天賦、半径三メートルの……
「――恐懼光環きょうくこうかん!」

訳者コメント:
新海市のの地下鉄工事がずっと終わらないことは、第35章「報い」にさらっと触れられていたのですが、まさか伏線だったとは……


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